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修羅の道 第二章・火種(6)
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日付が変わった頃、森岡らはホテルの部屋に戻った。
東京での定宿は、帝都ホテルのエグゼクティブスイートである。一泊三十万円に加え、坂根と南目、蒲生の部屋代を加えると、正規の代金は四十万円ほどになるが、彼は常連客として二十五パーセント割引の特典を受けていた。
通常、月に一、二度の滞在ぐらいでは常連客とは見なされないが、森岡の場合はルームサービスやホテル内の飲食を加えると、一度の滞在で百万を超えることもしばしばあり、ダイナースのプラチナカードで精算しているという信用保証もあったため、特例扱いとなっていた。
深夜の一時頃になって、インターホンが鳴り響いた。
普段であれば、坂根、南目、蒲生のうち誰かが応対するのだが、三人はすでに自分たちの部屋に戻っていたため、森岡自身が出た。
モニター画面には美佐子の姿が映っていた。怪訝に思った森岡だったが、ともかく彼女を部屋の中に入れた。
「すんなりと中に入れて下さるとは思ってもいなかったですわ」
美佐子は言葉とは裏腹に、自信有り気な表情を浮かべている。
「ホテル内とはいえ、深夜に追い返すわけにはいかないだろう。タクシーを呼んで下まで送るよ」
「やさしいのね」
妖艶な笑みを返した美佐子は、
「それにしても凄い部屋、IT企業ってそんなに儲かるの」
と、森岡の言葉を無視するかのように、部屋中を散策した。
「大したことはない。もっと儲けている奴もいるし、バブル時代はこんなものじゃなかったと思うよ」
森岡の言は正しかった。バブル全盛の頃の東京の場合、高級ホテルであればあるほど、しかも高額な部屋から予約が埋まって行っていた。
ある年の週末、日帰りの予定で東京へ出向いた森岡は、思いの外仕事に手間取り、最終の新幹線に乗り遅れてしまった。急遽、ホテルの部屋を探したが、いわゆるシティホテルはどこも満室だった。そこで森岡は、始発の新幹線まで飲み明かすことにして、真鍋高志にも連絡を取った。むろん、一晩中付き合わせるつもりはなかった。
ところが事情を聞いた真鍋が、そういうことならと真鍋興産が接待客用として年間契約をしていたプリンストンホテル赤坂の部屋を用意してくれたことがあった。
「ところで、こんな時間に何の用かな」
「こんな深夜に部屋を訪れたのよ、目的は一つに決まっているでしょう」
美佐子は思わせぶりな返事をした。
「君みたいな美人が、そっちから飛び込んで来るなんてラッキーというべきだな」
森岡はそう言うと、冷蔵庫からドン・ペリニヨンを取り出した。
「まずは乾杯しようか」
美佐子をソファへ導き、グラスを差し出した。
「何にかしら」
「もちろん、二人の出会いにさ」
森岡は、軽くグラスを当て口に含んだ。
「じゃあ、契約は成立ということで良いわね」
美佐子は一口飲んだ後で言った。
「契約? 何の」
「惚けないで。決まっているじゃない、愛人契約よ」
「残念だけど、それは無理だな」
「だって今、出会いにって……それにその気が無いなら、なぜこんな深夜に部屋の中に入れてくれたの」
「深夜だからさ。そのまま追い返すわけにはいかなかないだろう。それに、俺には大切な人がいる」
「奥さんね」
「いや、女房はいない」
「あら、独身だったの」
美佐子は意外という顔をした。
「一度結婚したけどね」
「離婚したのね。浮気でもしたんでしょう」
「そうじゃない。七年前に死別した」
揶揄するように言った美佐子に森岡は神妙に応じた。
「あら、ごめんなさい」
一転、美佐子は殊勝な顔つきで詫びた。
「俺には、結婚を約束した女性がいる。だから、君とはそういう関係にはなれない。それに、君だって辰巳さんとの関係があるだろう」
「辰巳さんって何のこと? 彼とは何でもないわよ」
美佐子口調には嘘を吐いている気配がない。
「僕の勘違いかい」
「辰巳さんにはしつこく口説かれたのは事実だけど、タイプじゃなかったから断ったわ」
「彼がばつの悪い顔をしたのはそういうことか」
「それと……」
そこで美佐子は口を閉じた。
「それに、何?」
「興味あるの」
「そりゃあ、あるさ。何といっても、大銀行の頭取候補だからね」
「でも、その先はただでは言えないわ」
にやりと勿体ぶった笑みがまた魅惑的だった。
「いくら欲しい」
「一千万でどうかしら」
森岡は無言で立ち上がって寝室へ向かうと、札束を手に戻って来た。
「これで良いかな」
「参ったわ」
美佐子は呆れ顔になる。
「法外な金を吹っ掛けられて、断らないだけでも驚きなのに……どんな情報かも聞かずにに大金を払うというの。ネタを聞いてから、返せはないわよ」
「そんなケチくさいことはしないよ。その代わり、君の本当の目的を教えてくれないかな」
美佐子のグラスを口にしようとした手が止まった。
「本当の目的って?」
「僕だって、君がここに来たのは色事でないことぐらいはわかる」
「なあんだ。見破られていたのか。あっさりと部屋の中に入れたのは、他の男と同じで私の身体が目的だと思ったのに」
「正直に言うと、その気が無くもない。外見だけで惹かれそうになった女性は君が初めてだしね」
「あら、それって誉め言葉かしら」
美佐子は挑発するように言った。そのきりっとした目元につい吸い込まれそうになる。
「そう受け取ってもらって結構」
「嘘でも嬉しいわ」
「嘘じゃないけど、それより君の本当の目的は」
森岡は誤魔化しは許さないという眼つきをした。
「貴方でもそんな目をするのね」
美佐子は観念した表情になった。
「ある人から貴方の名を耳にしていたの。それで、興味が湧いたというわけ」
「ある人とは?」
「それは秘密、でもすぐにわかるわ」
そうか、といって森岡は圧力を弱めた。
「しかし君も良い度胸をしているね。もし、僕が無理やり肉体関係を迫ったら、どうするつもりだったんだい」
森岡は興味深げに訊いた。
「私だって、貴方はそんなことをする男じゃないことくらいお見通しよ」
「どうしてわかる」
「お店でのホステスに対する態度を見ればね」
「男を見る目には自信が有るようだね」
「男性経験が豊富っていうことじゃないわよ。素直に人を見る目が有ると受け取ってね」
「わかった。でも、物好きが過ぎるといつか痛い目に遭うから気を付けた方が良い」
はい、と意外にも美佐子は素直に応じた。
そして、
「実は、他にも話があったの」
と話題を転じた。
「話? なんだい」
「有馬で私が席に着く前、鴻上という人の話をしていたでしょう」
「え?」
思わず驚きの声が漏れた。
「どうかしたの」
「いや、なんでもない。会話が聞えたのかい」
森岡は取り繕うに言った。
ええ、と顎を引いた美佐子が眉を顰めた。
「実はね、その鴻上さんが銀行から追い出されるように仕向けたのは辰巳さんだったの」
「ほう。出世競争のライバルを罠に嵌めて蹴落としたとでもいうのかな」
そう言いながら森岡は、
――面白い展開になった。
と内心ほくそ笑んだ。
「そうだけど、それが陰険なやり方だったの」
思い出すのもうんざりといった顔つきで言った。
「実は、辰巳さんの指示で鴻上さんを借金漬けに仕向けたのは私だったの」
美佐子は、有馬の前は六本木の『バンカトル』という高級クラブに在籍していた。政財界の社交場である有馬に対し、バンカトルは芸能人やスポーツ選手が屯する店として名を轟かしていた。
そのバンカトルに、先に足を踏み入れたのは辰巳だった。
東京での定宿は、帝都ホテルのエグゼクティブスイートである。一泊三十万円に加え、坂根と南目、蒲生の部屋代を加えると、正規の代金は四十万円ほどになるが、彼は常連客として二十五パーセント割引の特典を受けていた。
通常、月に一、二度の滞在ぐらいでは常連客とは見なされないが、森岡の場合はルームサービスやホテル内の飲食を加えると、一度の滞在で百万を超えることもしばしばあり、ダイナースのプラチナカードで精算しているという信用保証もあったため、特例扱いとなっていた。
深夜の一時頃になって、インターホンが鳴り響いた。
普段であれば、坂根、南目、蒲生のうち誰かが応対するのだが、三人はすでに自分たちの部屋に戻っていたため、森岡自身が出た。
モニター画面には美佐子の姿が映っていた。怪訝に思った森岡だったが、ともかく彼女を部屋の中に入れた。
「すんなりと中に入れて下さるとは思ってもいなかったですわ」
美佐子は言葉とは裏腹に、自信有り気な表情を浮かべている。
「ホテル内とはいえ、深夜に追い返すわけにはいかないだろう。タクシーを呼んで下まで送るよ」
「やさしいのね」
妖艶な笑みを返した美佐子は、
「それにしても凄い部屋、IT企業ってそんなに儲かるの」
と、森岡の言葉を無視するかのように、部屋中を散策した。
「大したことはない。もっと儲けている奴もいるし、バブル時代はこんなものじゃなかったと思うよ」
森岡の言は正しかった。バブル全盛の頃の東京の場合、高級ホテルであればあるほど、しかも高額な部屋から予約が埋まって行っていた。
ある年の週末、日帰りの予定で東京へ出向いた森岡は、思いの外仕事に手間取り、最終の新幹線に乗り遅れてしまった。急遽、ホテルの部屋を探したが、いわゆるシティホテルはどこも満室だった。そこで森岡は、始発の新幹線まで飲み明かすことにして、真鍋高志にも連絡を取った。むろん、一晩中付き合わせるつもりはなかった。
ところが事情を聞いた真鍋が、そういうことならと真鍋興産が接待客用として年間契約をしていたプリンストンホテル赤坂の部屋を用意してくれたことがあった。
「ところで、こんな時間に何の用かな」
「こんな深夜に部屋を訪れたのよ、目的は一つに決まっているでしょう」
美佐子は思わせぶりな返事をした。
「君みたいな美人が、そっちから飛び込んで来るなんてラッキーというべきだな」
森岡はそう言うと、冷蔵庫からドン・ペリニヨンを取り出した。
「まずは乾杯しようか」
美佐子をソファへ導き、グラスを差し出した。
「何にかしら」
「もちろん、二人の出会いにさ」
森岡は、軽くグラスを当て口に含んだ。
「じゃあ、契約は成立ということで良いわね」
美佐子は一口飲んだ後で言った。
「契約? 何の」
「惚けないで。決まっているじゃない、愛人契約よ」
「残念だけど、それは無理だな」
「だって今、出会いにって……それにその気が無いなら、なぜこんな深夜に部屋の中に入れてくれたの」
「深夜だからさ。そのまま追い返すわけにはいかなかないだろう。それに、俺には大切な人がいる」
「奥さんね」
「いや、女房はいない」
「あら、独身だったの」
美佐子は意外という顔をした。
「一度結婚したけどね」
「離婚したのね。浮気でもしたんでしょう」
「そうじゃない。七年前に死別した」
揶揄するように言った美佐子に森岡は神妙に応じた。
「あら、ごめんなさい」
一転、美佐子は殊勝な顔つきで詫びた。
「俺には、結婚を約束した女性がいる。だから、君とはそういう関係にはなれない。それに、君だって辰巳さんとの関係があるだろう」
「辰巳さんって何のこと? 彼とは何でもないわよ」
美佐子口調には嘘を吐いている気配がない。
「僕の勘違いかい」
「辰巳さんにはしつこく口説かれたのは事実だけど、タイプじゃなかったから断ったわ」
「彼がばつの悪い顔をしたのはそういうことか」
「それと……」
そこで美佐子は口を閉じた。
「それに、何?」
「興味あるの」
「そりゃあ、あるさ。何といっても、大銀行の頭取候補だからね」
「でも、その先はただでは言えないわ」
にやりと勿体ぶった笑みがまた魅惑的だった。
「いくら欲しい」
「一千万でどうかしら」
森岡は無言で立ち上がって寝室へ向かうと、札束を手に戻って来た。
「これで良いかな」
「参ったわ」
美佐子は呆れ顔になる。
「法外な金を吹っ掛けられて、断らないだけでも驚きなのに……どんな情報かも聞かずにに大金を払うというの。ネタを聞いてから、返せはないわよ」
「そんなケチくさいことはしないよ。その代わり、君の本当の目的を教えてくれないかな」
美佐子のグラスを口にしようとした手が止まった。
「本当の目的って?」
「僕だって、君がここに来たのは色事でないことぐらいはわかる」
「なあんだ。見破られていたのか。あっさりと部屋の中に入れたのは、他の男と同じで私の身体が目的だと思ったのに」
「正直に言うと、その気が無くもない。外見だけで惹かれそうになった女性は君が初めてだしね」
「あら、それって誉め言葉かしら」
美佐子は挑発するように言った。そのきりっとした目元につい吸い込まれそうになる。
「そう受け取ってもらって結構」
「嘘でも嬉しいわ」
「嘘じゃないけど、それより君の本当の目的は」
森岡は誤魔化しは許さないという眼つきをした。
「貴方でもそんな目をするのね」
美佐子は観念した表情になった。
「ある人から貴方の名を耳にしていたの。それで、興味が湧いたというわけ」
「ある人とは?」
「それは秘密、でもすぐにわかるわ」
そうか、といって森岡は圧力を弱めた。
「しかし君も良い度胸をしているね。もし、僕が無理やり肉体関係を迫ったら、どうするつもりだったんだい」
森岡は興味深げに訊いた。
「私だって、貴方はそんなことをする男じゃないことくらいお見通しよ」
「どうしてわかる」
「お店でのホステスに対する態度を見ればね」
「男を見る目には自信が有るようだね」
「男性経験が豊富っていうことじゃないわよ。素直に人を見る目が有ると受け取ってね」
「わかった。でも、物好きが過ぎるといつか痛い目に遭うから気を付けた方が良い」
はい、と意外にも美佐子は素直に応じた。
そして、
「実は、他にも話があったの」
と話題を転じた。
「話? なんだい」
「有馬で私が席に着く前、鴻上という人の話をしていたでしょう」
「え?」
思わず驚きの声が漏れた。
「どうかしたの」
「いや、なんでもない。会話が聞えたのかい」
森岡は取り繕うに言った。
ええ、と顎を引いた美佐子が眉を顰めた。
「実はね、その鴻上さんが銀行から追い出されるように仕向けたのは辰巳さんだったの」
「ほう。出世競争のライバルを罠に嵌めて蹴落としたとでもいうのかな」
そう言いながら森岡は、
――面白い展開になった。
と内心ほくそ笑んだ。
「そうだけど、それが陰険なやり方だったの」
思い出すのもうんざりといった顔つきで言った。
「実は、辰巳さんの指示で鴻上さんを借金漬けに仕向けたのは私だったの」
美佐子は、有馬の前は六本木の『バンカトル』という高級クラブに在籍していた。政財界の社交場である有馬に対し、バンカトルは芸能人やスポーツ選手が屯する店として名を轟かしていた。
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