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修羅の道 第三章・首領(3)
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「六代目、森岡さんをお連れしました」
峰松が緊張の声で言った。
「ご苦労さんやったな。まあ、こっち来て座りや」
やはり、優男が答えた。
蜂矢は三代目姉の時子(ときこ)、つまり伝説の大親分田原政道の妻に溺愛された。蜂矢は十三歳のとき、田原の許にやって来たという。むろん堅気である。少年を堅気というのも妙な話だが、極道修行が目的ではないということである。
幹部候補生としての本家での修行は、早くても二十歳過ぎ、遅ければ三十歳手前が通例である。経緯が不明のまま、中学生になったばかりの少年を田原が手元に置いたことで、組内には隠し子ではないかという噂が広まったほどであった。
田原の死後、四代目は若頭が継いだが、五代目相続のとき、時子が強力に蜂矢を推したため、ますます実子説の信憑性が増した。
結局、時期尚早との周囲の諫言を時子が聞き入れたため、五代目には他の者が就いたが、このときの彼女の肩入れぶりが蜂矢の六代目を確定させたと言っても過言ではなかった。
「さあ、こちらへどうぞ」
奥に控えていた若衆のうちの一人が森岡に近づき案内した。森岡が座ったのは蜂矢の真向かいの席だった。
「とりあえず一杯いこう。ビールでええか」
蜂矢は自ら缶ビールを手に取って酌をした。
「恐れ入ります」
森岡は、グラスに注がれたビールを一気に飲み干した。
「ご返杯致します。何を飲んでいらっしゃいますか」
「わしはブランデーを飲んどるが、ビールをもらおうか」
蜂矢はそう言ってグラスを差し出した。そして、蜂矢もまたグラスを一気に飲み干した。
「そないな格好をさせてすまなんだの」
サングラスを外した蜂矢の目尻に皺が寄っていた。口元も緩んでいるが、さすがに両眼は鋭い。極道者には馴れているはずの森岡も身体が竦む思いである。
「いいえ」
「北新地のクラブを貸し切っても良かったんやが、若頭が人の目が無い方がええ、と言うもんでの」
「私もこちらの方が良かったと思います」
「ほうか、なら良かった。何というても、この船の半分はあんたに買うてもろたようなもんやからな。のう、若頭」
「はい。その通りです」
寺島は畏まって答えた。
「組長さん、いや六代目……何とお呼びしたら良いのか」
森岡は困惑気味に訊ねた。
「何でもええがな」
蜂矢は鷹揚に笑った。その両眼から威圧は消えている。
「そういうわけには……」
「なら、親父(おやじ)でええわ」
「えっ!」
一同が一斉に怪訝な視線を蜂矢に向けた。いくらなんでもそれは、と言った驚きも含まれている。
それもそのはずで、極道世界において『親父』と呼べるのは、正式な盃を貰った子分にしか認められていない。いや、神王組には直系若中、つまり蜂矢から直接盃を貰った直参と呼ばれる子分が百十七人いるが、その多くはたとえ直系といえども、気安く親父と呼べる雰囲気はなく、若頭補佐や支部長などの側近までしか口にできなかった。大半は『組長』又は『六代目』と呼んでいたのである。それを、全くの堅気でしかも初対面の森岡に許したのだ。
一同が目を剥いたのも当然だったが、森岡がそのような実情を知るはずもない。
「では、親父さん。岳父の件では大変お世話になりました」
彼は言われるがまま、そう言って頭を下げた。
「いや、こっちこそすまんかったの。沖の知らんかったこととはいえ、あほなことを仕出かしよって。まあ、水に流してくれ」
蜂矢も詫びると、缶ビールを手に取り、森岡のグラスに注いだ。
一神会による味一番株式会社社長・福地正勝の拉致監禁という蛮行は表沙汰にはならなかった。蜂矢が一神会会長の沖恒夫に因果を含め、福地自身も会社の体面を考慮し、警察へ刑事告訴しなかったからである。
「しかし、若頭から聞いてはいたが、なるほど肝の据わった男やな。わしらの前でも顔色一つ変えんとは……」
「とんでもないです。このような状況で平然としていられるわけがありません。心臓が飛び出るくらい緊張しています」
「そうは見えんがの。わしの酌を受けて手が震えんのは、幹部の数人だけやで。生粋の武闘派極道の峰松でさえ、コチコチや。のう、重(しげ)」
「は、はい」
森岡の後方に控えていた峰松は恐縮して答えた。
「峰松さんにとって親父さんは、雲の上の人だからでしょう」
「まあ一理あるけど、あんたには何かありそうやな」
「取り立てて、そのようなことは……」
「いや、何かあるな。隠すなやな」
蜂矢が少し語気を強めただけで、森岡は心臓を鷲掴みされたような圧迫感を受けた。
「敢えて申しますと、私が一度死んだ身だからでしょうか」
「ほう。なんや曰くがありそうやな」
ようやく蜂矢の目が笑った。このとき、彼にはある思惑があって品定めしていたことなど森岡が知る由もない。
「お耳を汚すことになりますが」
「気にせんでええ」
森岡は物心が付いたときから、今日までの出来事を詳らかにした。その途中、『母小夜子』の失踪を語ったとき、蜂矢がほろ苦いような懐かしむよな複雑な表情を見せたのだが、それに気づいたのは寺島龍司だけだった。
「なるほどのう。十二歳のとき、海に身を投げたか」
「自暴自棄になっていました」
「それに、やっと身籠った奥さんをのう。辛かったやろうな」
蜂矢は心の底から労わるような声で言った。
「喜びが大きかった分、悲しみは倍化しました」
「あんたも辛酸を舐めて来たということやな」
蜂矢は得心がいったように呟いた。
寺島もその他の極道たちも皆、視線を落としていた。森岡の身の上話に共感しているのである。極道世界に身を投じる者は、大なり小なり似たような過去を持っている。経済ヤクザといわれる者の中には、平凡な家庭に育った者もいなくはないが、それは極稀なケースなのだ。
だからこそ『水は血より濃し』と、盃事を最重要視しているのである。
暫し沈黙していた蜂矢が思わぬ言葉を口にした。
「実はのう、わしもあんたと同じ年の頃、死のうと思ったことがある」
「な、なんですと」
森岡だけでなく、一同が蜂矢を見た。彼らにしても初めて聞く話だった。
「親に限って言えば、あんたはまだましやで」
そう言った蜂矢が寂しげな顔になった。
「わしは捨て子での、二親の顔すら知らん」
神王組の六代目といえども、人の子ということであろうか。父母への愛惜の情が滲み出ていた。そして、蜂矢のこの言葉によって、彼の田原政道実子説は否定された。
峰松が緊張の声で言った。
「ご苦労さんやったな。まあ、こっち来て座りや」
やはり、優男が答えた。
蜂矢は三代目姉の時子(ときこ)、つまり伝説の大親分田原政道の妻に溺愛された。蜂矢は十三歳のとき、田原の許にやって来たという。むろん堅気である。少年を堅気というのも妙な話だが、極道修行が目的ではないということである。
幹部候補生としての本家での修行は、早くても二十歳過ぎ、遅ければ三十歳手前が通例である。経緯が不明のまま、中学生になったばかりの少年を田原が手元に置いたことで、組内には隠し子ではないかという噂が広まったほどであった。
田原の死後、四代目は若頭が継いだが、五代目相続のとき、時子が強力に蜂矢を推したため、ますます実子説の信憑性が増した。
結局、時期尚早との周囲の諫言を時子が聞き入れたため、五代目には他の者が就いたが、このときの彼女の肩入れぶりが蜂矢の六代目を確定させたと言っても過言ではなかった。
「さあ、こちらへどうぞ」
奥に控えていた若衆のうちの一人が森岡に近づき案内した。森岡が座ったのは蜂矢の真向かいの席だった。
「とりあえず一杯いこう。ビールでええか」
蜂矢は自ら缶ビールを手に取って酌をした。
「恐れ入ります」
森岡は、グラスに注がれたビールを一気に飲み干した。
「ご返杯致します。何を飲んでいらっしゃいますか」
「わしはブランデーを飲んどるが、ビールをもらおうか」
蜂矢はそう言ってグラスを差し出した。そして、蜂矢もまたグラスを一気に飲み干した。
「そないな格好をさせてすまなんだの」
サングラスを外した蜂矢の目尻に皺が寄っていた。口元も緩んでいるが、さすがに両眼は鋭い。極道者には馴れているはずの森岡も身体が竦む思いである。
「いいえ」
「北新地のクラブを貸し切っても良かったんやが、若頭が人の目が無い方がええ、と言うもんでの」
「私もこちらの方が良かったと思います」
「ほうか、なら良かった。何というても、この船の半分はあんたに買うてもろたようなもんやからな。のう、若頭」
「はい。その通りです」
寺島は畏まって答えた。
「組長さん、いや六代目……何とお呼びしたら良いのか」
森岡は困惑気味に訊ねた。
「何でもええがな」
蜂矢は鷹揚に笑った。その両眼から威圧は消えている。
「そういうわけには……」
「なら、親父(おやじ)でええわ」
「えっ!」
一同が一斉に怪訝な視線を蜂矢に向けた。いくらなんでもそれは、と言った驚きも含まれている。
それもそのはずで、極道世界において『親父』と呼べるのは、正式な盃を貰った子分にしか認められていない。いや、神王組には直系若中、つまり蜂矢から直接盃を貰った直参と呼ばれる子分が百十七人いるが、その多くはたとえ直系といえども、気安く親父と呼べる雰囲気はなく、若頭補佐や支部長などの側近までしか口にできなかった。大半は『組長』又は『六代目』と呼んでいたのである。それを、全くの堅気でしかも初対面の森岡に許したのだ。
一同が目を剥いたのも当然だったが、森岡がそのような実情を知るはずもない。
「では、親父さん。岳父の件では大変お世話になりました」
彼は言われるがまま、そう言って頭を下げた。
「いや、こっちこそすまんかったの。沖の知らんかったこととはいえ、あほなことを仕出かしよって。まあ、水に流してくれ」
蜂矢も詫びると、缶ビールを手に取り、森岡のグラスに注いだ。
一神会による味一番株式会社社長・福地正勝の拉致監禁という蛮行は表沙汰にはならなかった。蜂矢が一神会会長の沖恒夫に因果を含め、福地自身も会社の体面を考慮し、警察へ刑事告訴しなかったからである。
「しかし、若頭から聞いてはいたが、なるほど肝の据わった男やな。わしらの前でも顔色一つ変えんとは……」
「とんでもないです。このような状況で平然としていられるわけがありません。心臓が飛び出るくらい緊張しています」
「そうは見えんがの。わしの酌を受けて手が震えんのは、幹部の数人だけやで。生粋の武闘派極道の峰松でさえ、コチコチや。のう、重(しげ)」
「は、はい」
森岡の後方に控えていた峰松は恐縮して答えた。
「峰松さんにとって親父さんは、雲の上の人だからでしょう」
「まあ一理あるけど、あんたには何かありそうやな」
「取り立てて、そのようなことは……」
「いや、何かあるな。隠すなやな」
蜂矢が少し語気を強めただけで、森岡は心臓を鷲掴みされたような圧迫感を受けた。
「敢えて申しますと、私が一度死んだ身だからでしょうか」
「ほう。なんや曰くがありそうやな」
ようやく蜂矢の目が笑った。このとき、彼にはある思惑があって品定めしていたことなど森岡が知る由もない。
「お耳を汚すことになりますが」
「気にせんでええ」
森岡は物心が付いたときから、今日までの出来事を詳らかにした。その途中、『母小夜子』の失踪を語ったとき、蜂矢がほろ苦いような懐かしむよな複雑な表情を見せたのだが、それに気づいたのは寺島龍司だけだった。
「なるほどのう。十二歳のとき、海に身を投げたか」
「自暴自棄になっていました」
「それに、やっと身籠った奥さんをのう。辛かったやろうな」
蜂矢は心の底から労わるような声で言った。
「喜びが大きかった分、悲しみは倍化しました」
「あんたも辛酸を舐めて来たということやな」
蜂矢は得心がいったように呟いた。
寺島もその他の極道たちも皆、視線を落としていた。森岡の身の上話に共感しているのである。極道世界に身を投じる者は、大なり小なり似たような過去を持っている。経済ヤクザといわれる者の中には、平凡な家庭に育った者もいなくはないが、それは極稀なケースなのだ。
だからこそ『水は血より濃し』と、盃事を最重要視しているのである。
暫し沈黙していた蜂矢が思わぬ言葉を口にした。
「実はのう、わしもあんたと同じ年の頃、死のうと思ったことがある」
「な、なんですと」
森岡だけでなく、一同が蜂矢を見た。彼らにしても初めて聞く話だった。
「親に限って言えば、あんたはまだましやで」
そう言った蜂矢が寂しげな顔になった。
「わしは捨て子での、二親の顔すら知らん」
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