黒い聖域

久遠

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修羅の道 第三章・首領(7)

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「森岡はん、そのブックメーカーやが、どうやろ、あんたが仕切ってくれんかの」
「はあ?」
 森岡は、脳天から空気が洩れるような声を出した。鋭敏な頭脳を持つ森岡にしても受け止め切れなかったのである。
「い、いま何とおっしゃいましたか」
「ブックメーカー事業を任せたい、と言ったんや」
 「御冗談は止して下さい」
 今度は悲鳴のような声を上げた。難題は覚悟していたが、想像の範囲を超えていた。
「冗談や無いで。あんたと会ってみて腹を決めた」
 勝手に腹を決められても困る、と森岡は思わず口にしそうになったが、辛うじて留まった。
 蜂矢は真顔で見つめている。極道者が真剣な顔つきをすると、大抵は凄んだような強面になるのだが、このときの蜂矢の表情は、至極真摯なものに森岡の目には映った。
「私などに務まるはずがありません」
 森岡は慎重に言葉を選んだ。
 ブックメーカー事業に関わることは、これまでの峰松重一との関係とは根本的に意味合いが異なる。峰松とは仕事を依頼し、その対価を支払う都度関係である。仕事が介在しなければ会う必要もなく、時間を置けば関係を清算することも可能である。
 しかし、蜂矢の依頼を受けることは、永続的な緊密関係が持続されることを意味しているのだ。
「あんたには極道者顔負けの度胸がある。仁義も弁えとるし、神村上人を通じてわしらの世界とも因縁がある。しかも、都合のええことにITのプロや。この事業を任せられるのは、あんたしかおらん」
 蜂矢にとっては背水の決断だった。
 阿波野が神王組直系の組長の実子ということで、全国数十ヶ所の事務所に警察の捜査が入り、幹部クラスまでが検挙されてしまった。
 それから三年と数ヶ月が経ち、ほとぼりが冷めているとはいえ、二度と同じ過ちは許されない。事業の再開に当っては、責任者は全くの堅気であることが最低条件で、欲をいえば社会的信用のある人物が望まれたのである。
 神王組が直接差配に乗り出さない真の理由は、警察の目ではない。そうであれば、阿波野が話を持ち込んだとき、先代は彼に任せることなく、川瀬に実権を握らせていたであろう。警察の目から逃れる術は無くもないのだ。
 神王組にとって最大の障害は、どの組が担当するかということである。
 ブックメーカーは巨大な利益を生む事業である。仮に神栄会が受け持ったとすれば、神王組における神栄会の発言力は益々絶大なものになる。それも半永久的に、である。
 それでは他の組の反発は必死となり、引いては神王組崩壊の引き金ともなりかねない。急拡大した代償というべきか、神王組は寄り合い所帯という側面が否めないのだ。
 幸運なことに、IT技術の発達によりベッティングした客のパソコンのIPアドレスから、縄張りの組が特定できるようになった。その恩恵で事業者を外部に委託し、上納金を神王組全体に利益配分することが可能になった。
 蜂矢の言ではないが、森岡ほどの適任者はそうそういないだろう。
「あんたの好きなようにしてええ」
 蜂矢はそう言って缶ビールを手にした。
 森岡は、一瞬グラスを手に取ることを躊躇った。頭の片隅に、この話の流れで蜂矢の酌を受ければ、了承したと受け止められないか、との懸念が奔ったのである。
「考えてみてはくれへんかのう」
 森岡の心中を察した蜂矢は、語気を弱めた。
「はあ……」
 酌を受けた森岡は、生返事をしながらすばやく頭を働かせた。
 六年前、森岡が阿波野と会ったのも、心の片隅にブックメーカー事業に興味があったからである。興味というより色気といった方が正確であろう。手切れ金としては多額の一千万円を払ったのが、それを如実に証明している。
 なにせ合法であれば、巨大賭博の胴元に成れるかもしれないのである。わかり易くいえば、競馬、競輪、競艇といった国内の公営ギャンブルの主催者、あるいはアメリカのラスベガスや香港、マカオなどのカジノホテルの利権獲得に匹敵するのだ。いや、やり方次第ではそれ以上かもしれない。
 しかも、日本裏社会の首領である神王組六代目直々の要請である。この時点で、最大の懸念である身の安全は保証されている。
 もちろん、日本の裏社会には神王組以外にも、稲田連合をはじめとして多数の暴力団が存在しているが、面と向かって神王組と事を構えるとは考え難いのだ。
 これだけの魅惑的な話を前にして、触手が伸びないといえば嘘であろう。
「私の好きなようにして良い、というのは本当ですか」
「おお」
 と、蜂矢は肯いた。
「売上の五パーセントを上納してさえくれたら、後はあんたに一切を任せ、口出しはせん」
――五パーセントか……。
 森岡にとっては悪い条件ではなかった。一見、利益の有無に拘らず売上の五パーセントの上納は厳しい条件のように映るが、そうではない。
 賭博の胴元には二種類の形態がある。
 一つは、所謂『てら銭』を取る形式で、日本の公営ギャンブルは全てこの形式である。掛け金から一定額を差し引いた残額を払い戻しに充当するため、胴元には必ず利益が残ることになる。
 もう一つは、胴元自ら掛けを引き受ける形式である。この場合は初期段階でハンデが付くことが多い。
 例えば、大相撲で横綱誰某が優勝するかしないかという賭けがあったとしよう。てら銭形式だと、掛け金に応じて、払い戻し率が随時変動するが、これをどちらになっても、ハンデを含めた払い戻し率を一定にするため、胴元自らが支持率の低い方に掛けて調整するのである。
 仮に、横綱誰某が『優勝する』方の掛け金が圧倒的に多かったとしよう。胴元は、一定の配当率に調整するため、大金を『優勝しない』方に掛けることになるので、もし横綱誰某が優勝すれば胴元は大損し、優勝できなければ大利を得ることになる。
 それこそ一か八かの大博打であり、胴元には損失を補填できるだけの体力が必要となる。八百長の多くは、こうした掛け方式を資金力に乏無い胴元が仕切った場合によく起こる。
 ともかく前者の方法ならば、上納の五パーセントに必要経費と利益を乗せた数字をてら銭にすれば、薄利ではあるが確実に利益は上がることになる。
「親父さん。ただいまのお言葉は、この先代替わりしても保証して頂けますか」
 森岡は恐る恐る訊いた。堅気が、神王組の頂点に立つ男を問い質すなど無謀極まりないことだった。
 だが、蜂矢は機嫌を損ねるどころか、
「未来のことを百パーセント保証することはできん。せやけど、何事も無ければわしの跡目はこの寺島が継ぐ。仁義に厚いこの男が、あんたを裏切ることはないやろ。そして寺島は、自分の眼鏡に適った男に後を継がせるだろう。あんたにはそれを信じてもらうしかない」
 とむしろ誠実な言葉を返した。大抵の者がそうするように、言葉巧みに丸め込もうともせず、保証はできないと正直に言ったのである。森岡は、その物言いに信頼感を抱いた。
 
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