黒い聖域

久遠

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修羅の道 第四章・家門(7)

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 待望の跡継ぎ誕生に、灘屋は喜びに溢れかえった。
 とくに祖父洋吾郎のそれは尋常でなく、どこへ行くのも何をするのも片時も傍らから離さなかった。洋介は小学校に入る前に、すでに小学三年生程度の学力を備えていたほどの秀才で、街に出たときには駅やバス停、百貨店の商品の漢字などを読んだため、驚嘆する周囲の反応に洋吾郎は得意になったものだった。
 だが、洋吾郎はただ甘やかして育てたのではない。躾は厳しく、目上の者に対する言葉使いや、弱き者への慈愛の心など、ときに優しく、ときに厳しく灘屋の総領としてまさに帝王学を授けるかのごとく養育した。
 あるとき、友人に唆されて他家所有の山に入り、洋吾郎の好物である筍を取って帰ったときのことである。意気揚々と筍を差し出した洋介を、洋吾郎は烈火の如く叱り付け、不服顔を見るや平手打ちまでした。堪らず周囲の者がそこまで叱らなくてもと庇ったり、あるいは山の所有者が却って恐縮したりするほどの躾振りだった。
 その結果、洋介は強い者や上の者を挫き、弱い者や下の者に手を差し伸べるという仁義に厚く、不義不正を嫌う少年に育った。
「こういう逸話がありますでの」
 道恵が愛しみの表情を浮かべた。
「村の子供は数が少ないけん、小学生は上級生から下級生まで一緒に遊ぶことが多いのですが、秋になると、この裏山に分け入ってあけびや栗を採りに行ったものです。といっても、下級生は足手まといになるだけじゃが、穴場を伝えたり、採取方法を教えたりせんといかんのでの、連れて行くわけです。山から戻ると、大概この境内で収穫したものを山分けするですが、当然上級生が良いあけび、大きい栗を取り、下級生は残った屑のような物を与えられるだけでした。まあ、何の役にも立たんのじゃから仕方がないですがの」
「はい」
 茜はこくりと肯いた。
「ところがです。総領さんが最年長になると、様子が変わりました。収穫物を人数分に均等に振り分け、ジャンケンをして勝った者から選ぶようにしたのです。時には、最年少の子供が一番に勝ち、総領さんが最後っ屁になることもあったのですが、そのようなときでも、総領さんはにこにことしておられました。物影から様子を見ていた私は、感心したものでしたわい」
 その奇特な心根が捻じ曲がってしまった転機が、母の男との駆け落ち失踪だった。この事件が森岡の心に暗い影を落とし、卑屈な猜疑心という芽を伸ばしてしまった。しかし、それも神村との出会いによって少しずつ消え失せて行き、本来の義理人情に厚く、正義を尊び、不正を憎む性格に戻っていったのである。
「洋介さんは幼い頃から、欲が無かったのですね」
「総領さんのようなお方が我々の世界に入られれば、救われる者も多いと思いますがのう」
 道恵はしみじみと言った。
 茜は、神村をはじめ榊原荘太郎や福地正勝もまた、洋介の真の姿を見抜き、彼を慈しみ、手塩に掛けたいという欲求に駆られたのだろうと思った。
「茜さんは、総領さんの身に降り掛かった不幸をご存知かな」
「過日聞きました」
「そうですか。総領さんは話されましたか。余程貴女を愛していらっしゃるとみえる」
「まあ」
 茜は少女のように恥じらった。
「小学校の六年生といえば、立て続けの不幸が総領さんを襲った頃でした。それにも拘らず、下の者を慈しむ心をお持ちでした。将来、何者になるかと期待しておりましたが、現在の総領さんを見れば、洋吾郎さんをはじめ、冥途にいらっしゃる灘屋の皆様も喜んでおいででしょう」
 道恵は感慨に耽るように言うと、
「茜さんも相当苦労されたようですな」
 と、茜の目を見つめた。
「おわかりになるのですか」
 茜が優しく見つめ返した。
「はい。総領さんも貴方も、両眼の黒目の端に白い斑点があります。これは苦労をした者に出る斑点なのです」
「……」
 茜は、まさかという顔をした。
「本当ですよ。ただし、見える者にしか見えません」
 道恵は、暗に修行を積んだ者にしか見えないと示唆したのである。
「信じます」
 茜が神妙に言うと、
「素直で宜しい。総領さんとなら、必ずやお幸せになられますよ」
 道恵は慈愛溢れる声で言った。
「有難うございます」
 茜は胸を詰まらせながら頭を下げた。そこへ、洋介が応接間から戻って来た。
「大日堂を改築なさるそうですね」
 洋介は座るや否や道恵に言った。
「金の無心に遭いましたかな」
 道恵は気の毒そうな顔をした。
「ほんの少々」
 洋介は事もなさげな口調で答えた。
「少々とはいかほど」
「七千万ほど寄進のお約束を致しました」
「七千万?」
 道恵は、驚き入った様子で言うと、
「それでは、不足分のほとんどを総領さんに甘えたのですな」
 居住まいをあらため、両手を膝に置いて頭を下げた。
「御先代様、頭をお上げ下さい。私は祖父や父が生きていれば、そうしたであろうことをしたまでです。それに、大日堂は私にとっても思い出深いお堂です」
 洋介は鷹揚に笑った。
「おうおう、そうでした、そうでした」
 道恵もやんやと笑い、何度も両手を打った。
「お二人だけおわかりになるなんてずるいです。私にもお聞かせ下さい」
 茜の催促に、
「いや、大日堂では毎年春と秋の二回、お祭りがありましての、夜店も出て賑やかになるのですが、夜通しでお籠もりがあるのです」
「お籠もり?」
「お堂に籠もって、ひたすら読経を繰り返すんだ」
 と、洋介が言う。
「総領さんが、五歳のときでしたか、洋吾郎さんに連れられて大日堂前の沿道の夜店に参られたのですが、何せ人混みが凄くて、逸れてしまわれたのです。屋敷にお帰りになった洋吾郎さんは、総領さんが帰っておられないのを知って、たちまち蒼白になり、大事な孫が人攫いに遭ったか、海に落ちてしまったと、それはもうおろおろしておられた。落ち着き払っておられた洋一さんも意外でしたが、日頃威風堂々とされていた洋吾郎さんの、あのようなお姿は後にも先のもあの時限りでしたのう」
「お父様は豪胆な方だったのですね」
「いえ、豪胆なのは洋吾郎さんの方で、洋一さんは繊細な方でした。ですから、まるでお二人の人格が入れ替わったのかと思いましたよ。ともかく、警察はもちろん、村の青年団、婦人会と村人総出の探索になりましてな。漁師は船を出して湾内を捜索し、消防団は山狩りまでするという大騒動でした」
「それで?」
 茜はごくり、と唾を飲んだ。このとき茜は、道恵の話に夢中のあまり、洋介が一瞬だけ見せた陰鬱な顔を見逃した。
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