黒い聖域

久遠

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修羅の道 第四章・家門(9)

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 さて、道恵がこれほどまでに心を掛ける裏には灘屋の家格があった。
 代々灘屋は、界隈の大地主で網元だったが、経済力だけでなく政治的な影響力を持つようになったのは、ひとえに洋介の祖父洋吾郎の功績である。
 長年に亘って浜浦をはじめ近隣の村々の発展に寄与してきた洋吾郎だったが、それを決定付けたのは、ある権力者との出会いだった。
 島根県松江市を本拠とし山陰一帯に跨り、テレビ局、新聞社のマスコミ関係から、電鉄、バス、タクシーの運輸業、ホテル、ゴルフ場の不動産関連まで幅広く事業を展開している山陰興業グループというのがある。
 地域産業の発展はもちろんのこと、福祉や文化の向上にも大きく貢献している、いわゆる地方財閥であり、経営するのは終戦直後から今日まで、島根の政治経済の首領である設楽(しだら)家である。
 設楽家の先祖は、戦国時代の下克上で中国地方一帯を支配した毛利家の山奉行を務める重臣で、中国山地の材木の管理一切や、島根県の石見、兵庫県の生野の両銀山の差配も任されるという要職に就いていた。
 その後毛利家は、輝元が関が原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられたことから、徳川幕府によってそれまでの約百二十万石から周防、長門二国の約三十七万石という、実に三分の一以下の大減封の憂き目に遭ったが、短期間にも拘らず良質の石見銀によって設楽家は相当な蓄財に成功していた。
 明治維新で士分が剥奪されたとき、当時の設楽家の当主は迷うことなく林業に手を付けた。各樹木の分布図等、先祖が調べ上げた膨大且つ詳細な山野の調査資料が手元にあったからである。
 結果的にはこれが功を奏した。敗戦によるGHQの占領政策によって農地解放が行われたが、山林は対象外であったため、設楽家の資産はそのまま残ったのである。終戦後は、その資産を元手に現在のような事業展開を図ったという経緯だった。
 経済だけでなく、先代の当主・二十三代設楽幸右衛門基法(こうえもんもとのり)は、四期十六年の長きに亘り、県知事を務めたため、政治的な影響力も絶大であった。
 その権勢を端的に物語る逸話がある。
 後に首相を務めた竹山中が小学校六年生のときだった。たまたま、授業参観の様子を目にした幸右衛門基法は、竹山の利発さに感じ入り、彼が中学校を卒業すると同時に、書生として手元に置いた。
 竹山は地元の高校、大学を出た後、山陰新聞社に入社するや、ほどなく青年会議所の会頭に選出され、その後島根県議会議員を経て、四十歳で衆議院議員選挙に初当選した。
 これらは、全て設楽幸右衛門基法の引き立てによるものだった。国会議員になった竹山は、その後も順調に出世街道を驀進し、とうとう頂点である総理大臣まで上り詰めたのである。
 当時、島根では竹山中を『竹山さん』と呼び、設楽幸右衛門基法を『だんさん』と呼んだ。だんさんとは『旦那さん』、つまり一家の支柱という意味である。
 島根における序列は、一国の首相より島根の主の方が上ということなのだ。まさに設楽家の威光の程を物語る逸話であろう。
 その設楽幸右衛門基法と森岡洋吾郎の交誼は、洋吾郎が知事である幸右衛門基法へ陳情をしたことに始まる。
 浜浦は、島根半島の日本海側にある漁村である。近接の街までは、いくつもの山々を越えたため車でも一時間以上要した。村には小さな診療所があったが、重病や大きな怪我に対処することはできなかった。
 そのため、漁師が作業中に事故を起こしても、たとえば漁の最中であれば、そのまま船で街まで運んだが、港での作業中であれば、手遅れになることも多かった。むろん、そのような実情は浜浦に限ったことではなく、近隣の村々は同じ悩みを抱えていた。
 そのため、近隣の村人の総意として、浜浦から街までの四つの山々のうち、難所である二ヶ所のトンネル開通を町長が陳情した。しかし、権力者を前にして緊張の極みに達した時の町長は、十分な交渉もままならず、トンネル工事は後回しとなった。
 責任を感じた町長は、再度の陳情のとき洋吾郎に同伴を願った。洋吾郎は町の公的な役職にはなかったが、島根半島界隈の絶対的な実力者であり、町長ですら洋吾郎の後援なくしては当選しないという状況にあったため、その内情を知る幸右衛門基法は同席を承諾した。
 このとき、幸右衛門基法にはある思惑があった。
 子飼いである竹山中の国政への進出である。
 保守王国である島根は、選出議員四名全員が政府あるいは政権与党の幹部を務める重鎮ばかりで、それぞれ票田が区割りされていた。そういった状況下、いかに幸右衛門基法といえども、彼らの牙城を崩すのは容易ではなかったのである。
 例に洩れず、当時洋吾郎は政権与党である民自党総務会長の要職にある唐橋大蔵(からはしだいぞう)を後援していたため、島根半島界隈の票は、その大半が唐橋に流れていた。幸右衛門基法はそこに目を付けたのである。
 当時の島根県の人口は約七十万人、有権者は約五十万人であった。投票率は全国一位の八十パーセント超だったので、有効投票数は約四十万票強となる。
 選挙制度は中選挙区制の全県区で、当選者数は四名だった。したがって、当選ラインは約七万票となった。
 対して島根半島のうち、洋吾郎の威勢が届いた範囲の人口は約二万二千人、有権者数は約一万四千人、投票率は九十パーセントを超えていたので、有効投票数は約一万三千万票であった。このうち、確実に洋吾郎の影響が及ぶのは八割弱の一万票余りである。上下を考えれば、二万票余ということになる。実に、当選ラインの七万票の約三十パーセントに当たった。とてつもない大きな影響力だと言えるだろう。
 設楽幸右衛門基法は、トンネル工事の予算化の見返りとして、洋吾郎に選挙協力を求めた。
 方や長年の盟友である唐橋大蔵、方や村民の生命に関わる福祉、この両者の板挟みになった洋吾郎は悩みに悩んだ。

 だが、それから数日後、揺れる胸中の洋吾郎を震撼させる事故が起こる。灘屋のてご漁師の一人が、巻き網の機械に手首まで挟まれ、切断された挙句、出血多量で死亡してしまったのである。この惨劇に衝撃を受けた洋吾郎は、断腸の思いで『自主投票』という決断をしたのだった。
 洋吾郎は、唐橋大蔵に腹を割って虚心を述べた。土下座をして詫びる洋吾郎に、唐橋はこれまでの後援に謝意を述べただけで、恨み辛みは一言も口にしなかったという。
 洋吾郎自身はどちらにも与しなかったが、実娘の百合江、つまり洋介の叔母が婦人会を組織し、竹山中の票纏めに当たった。百合江は、その後も婦人会会長として、永らく竹山の後援会婦人部門を統括指導して行くことになるのである。
 唐橋大蔵は政権与党の重鎮ではあったが、島根の首領である設楽幸右衛門基法と面と向かって対立することはできなかった。自身の力量は互角でも、子孫のことを考慮しないわけにはいかなかったのである。
 結局、一年後の衆議員選挙では竹山が当選し、落選を気に唐橋は潔く政界から引退することとなった。しかし釣り好きの唐橋は、隠居後もしばしば浜浦を訪れ、洋吾郎と酒を酌み交わした。
 結果的に子飼いの竹山中が衆議院選挙に当選したことで、洋吾郎と設楽幸右衛門基法との蜜月時代が始まった。
 二ヶ所のトンネル工事に加え、浜浦界隈の全道の舗装化と道幅拡大、そして浜浦の港湾整備事業が開始された。これらの公共事業が、後に浜浦を中心として島根半島界隈全体に多大な恩恵を齎すことになるのである。
 それから五年後、洋吾郎は六十八歳でこの世を去ったが、その後も設楽幸右衛門基法は洋吾郎との約束を守り、島根半島地域の生活環境と福祉の充実に尽力した。
 さて、洋吾郎の葬儀に際して弔辞を読んだのは、日の出の勢いの竹山中ではなく、隠居した唐橋大蔵であった。洋吾郎の遺言だったのである。

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