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修羅の道 第五章・結縁(2)
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離れから母屋に戻ると、酒宴が再開されていた。
洋介と茜が座に戻ったときだった。また玄関に来客があった。
宴会が始まってまもなくの頃から、遠縁の者、近所の者、洋介の同級生、幼馴染たちが酒や肴を手に手に訪れていた。皆、洋介の帰郷を知り、一目顔を見たいと願う者たちだった。彼らも、酒宴に加わっていたため、さらに二間の障子を外して宴場を拡げていた。
修二の妻照美に案内されて座敷に入って来たのは、島根県議会議員の船越だった。船越は、島根半島出身では唯一の県会議員で、浜浦生まれであった。
「総領さんが帰省されたと伺い、歓談中とは思いましたがご挨拶に参りました」
船越は一番下座に正座し、上座の洋介に挨拶をした。
「船越さん、そげんとこはいかん。こっちに来てごしない」
洋介の叔父である森岡忠洋(ただひろ)が船越を上座に誘った。洋一の末弟の忠洋は、松江市役所勤めをしている関係で、船越とはとくに付き合いが深かった。
船越は洋介の隣に座ると、名刺を差し出し、
「洋吾郎さんには、私が県会議員に初当選した頃から、大変お世話になりました」
と言って頭を下げた。
「微かに憶えています」
洋介が記憶を辿ると、
「総領さんは、まだ小学校に上がる前だと思います。いつも洋吾郎さんの胡坐の上に座っていらっしゃいました」
船越も懐かしげな顔になった。
「そういえば、船越さんだけじゃなかったのう」
森岡忠洋がぽつりと零した。
「そうじゃった。お祖父さんが元気な頃は、それこそ大臣や偉い役人だってて頭を下げに来たがの」
誰かがそう言うと、
「伯耆信用金庫の頭取や支店長、農協の組合長、郵便局長も金目当てによう来とったがな」
とまた誰かが呼応した。
洋介は幼少の頃を想起した。
祖父洋吾郎の胡坐の上に座っていると、相手はいつも頭を下げていた。祖父の威厳に胸を高鳴らせ、胡坐の上で自身も得意満面になったものである。
「それがのう。お祖父さんや叔父さんが亡くなると、これまでの恩を忘れ、手のひら返したような態度を取りくさって」
門脇孝明が吐き棄てるように言った。洋吾郎の長女の息子、洋介にとっては従兄である。
その怒声が洋介を現実に引き戻した。
「どげなことだかい」
「それがのう、洋介……」
孝明が言い掛けたとき、
「孝兄ちゃん、それは止めてごしない」
と、修二があわてて口止めした。その厳しい目は、孝明だけでなく、その場にいた者皆の口を封じたため、洋介もそれ以上問うことはしなかった。
「すまん、すまん。座が白けてしまったの。さあさ、飲み直さい」
修二は頭を下げながら、酌をして廻った。
三十分も経ったであろうか、さらに三人連れの来客があった。
応対に出た照美には面識のない男たちだった。一瞬警戒した照美に、腰の曲がった老人が穏やかな笑みを向け、
「総領さんが戻っておいでのようですな」
と訊いた。
「はい。戻っておられますが、どちら様でしょうか」
「ほうほう、申し遅れました。総領さんに『足立の爺』が参ったとお伝え下さらんか」
照美はあっと目を剥いた。
「足立様とは……これは大変失礼しました」
平身低頭で詫び、少々お待ち下さい、と言って座敷に消えたかと思うと、洋介が小走りで玄関にやって来て叫んだ。
「足立の糞じじいか!」
「おう。この糞童(くそわっぱ)が、ずいぶんと立派になったものよ」
糞じじいと呼ばれた老人が相好を崩した。
「何年ぶりかな」
「ウメさんの葬儀以来じゃから、十六年振りかの」
祖母ウメは、洋介が浪速大学に入学した年の初夏に心筋梗塞で突然死していた。洋介を送り出し、一人暮らしになった故の悲劇だった。
「そないになるか。しかし爺さんは元気そうでなりよりだ」
洋介は、曲がった腰を伸ばした老人の肩を叩いて喜びを露にした。
「総領の活躍はわしの耳にも届いているぞ」
足立と名乗った老人はそう言い、
「洋吾郎さんや洋一さんが生きておられれば……」
と涙ぐんだ。
「爺は幾つになった」
「来年、卒寿じゃ」
「おお、九十歳か。長生きしたの」
実の祖父に語り掛けるような親身の情に溢れている。
「なんの、わし如きが長生きしても何の役にもたたんわい。洋吾郎さんが長生きしておられたら、さぞかし世の為、人の為になったであろうにの」
と、老人は鼻水を流して哭いた。洋介は込み上げる想いをぐっと胸に押し込み、
「昔話は後だ。さあ、爺さん。上がれ、上がれ」
と自ら手を引いた。そのとき、壮年の男と目が合った。
「万亀男おじさんもお久しぶりです」
洋介が声を掛けると、男は険しい顔つきで洋介に近づき、
「洋介君、後で話があります」
と耳元で囁いた。
「この青年は?」
軽く肯いた洋介は、もう一人の若者に目を遣った。
「孫の統万(とうま)じゃ」
「統万? ああ、一度だけ会ったことがある。ある、といってもまだ赤子だったが……」
洋介は、万亀男の後ろで軽く会釈した青年を懐かしげに見て言った。
「総領、早速じゃが、酒を飲む前にちと頼みがある」
「なんじゃ、あらたまって」
「この孫をそばに置いてやってもらえんかの」
「俺に預ける、ってか」
洋介は暫し沈思した。
「統万はいくつになった」
「二十八歳です」
「五年、いや三年でええ。是非、頼む」
と、老人は曲がった腰をさらに折った。
「命の保証はできんで」
洋介は真顔で釘を刺した。
「一旦預けたからには、総領の好きにしたらええ」
老人が言い切ると、万亀男も承知しているという目をして肯いた。
「そうなら話は早い。では爺さん、明後日大阪に連れて帰っても良いか」
「統万、そうして貰え」
有無も言わさぬ体で命じた老人に はいと統万が緊張の顔で頷いた。
「よっしゃ、これで決まりやな。とりあえず、一週間ほど俺のマンションに泊まって貰うから、身の回りの物だけを用意したらええで」
「総領のマンションに、ってか、それは……」
老人が恐縮そうに言う。
「今さら、遠慮はいらんがな。その間に新居を用意しよう」
「総領、このとおりじゃ」
と言って、老人は曲がった腰をさらに深く折った。
洋介と茜が座に戻ったときだった。また玄関に来客があった。
宴会が始まってまもなくの頃から、遠縁の者、近所の者、洋介の同級生、幼馴染たちが酒や肴を手に手に訪れていた。皆、洋介の帰郷を知り、一目顔を見たいと願う者たちだった。彼らも、酒宴に加わっていたため、さらに二間の障子を外して宴場を拡げていた。
修二の妻照美に案内されて座敷に入って来たのは、島根県議会議員の船越だった。船越は、島根半島出身では唯一の県会議員で、浜浦生まれであった。
「総領さんが帰省されたと伺い、歓談中とは思いましたがご挨拶に参りました」
船越は一番下座に正座し、上座の洋介に挨拶をした。
「船越さん、そげんとこはいかん。こっちに来てごしない」
洋介の叔父である森岡忠洋(ただひろ)が船越を上座に誘った。洋一の末弟の忠洋は、松江市役所勤めをしている関係で、船越とはとくに付き合いが深かった。
船越は洋介の隣に座ると、名刺を差し出し、
「洋吾郎さんには、私が県会議員に初当選した頃から、大変お世話になりました」
と言って頭を下げた。
「微かに憶えています」
洋介が記憶を辿ると、
「総領さんは、まだ小学校に上がる前だと思います。いつも洋吾郎さんの胡坐の上に座っていらっしゃいました」
船越も懐かしげな顔になった。
「そういえば、船越さんだけじゃなかったのう」
森岡忠洋がぽつりと零した。
「そうじゃった。お祖父さんが元気な頃は、それこそ大臣や偉い役人だってて頭を下げに来たがの」
誰かがそう言うと、
「伯耆信用金庫の頭取や支店長、農協の組合長、郵便局長も金目当てによう来とったがな」
とまた誰かが呼応した。
洋介は幼少の頃を想起した。
祖父洋吾郎の胡坐の上に座っていると、相手はいつも頭を下げていた。祖父の威厳に胸を高鳴らせ、胡坐の上で自身も得意満面になったものである。
「それがのう。お祖父さんや叔父さんが亡くなると、これまでの恩を忘れ、手のひら返したような態度を取りくさって」
門脇孝明が吐き棄てるように言った。洋吾郎の長女の息子、洋介にとっては従兄である。
その怒声が洋介を現実に引き戻した。
「どげなことだかい」
「それがのう、洋介……」
孝明が言い掛けたとき、
「孝兄ちゃん、それは止めてごしない」
と、修二があわてて口止めした。その厳しい目は、孝明だけでなく、その場にいた者皆の口を封じたため、洋介もそれ以上問うことはしなかった。
「すまん、すまん。座が白けてしまったの。さあさ、飲み直さい」
修二は頭を下げながら、酌をして廻った。
三十分も経ったであろうか、さらに三人連れの来客があった。
応対に出た照美には面識のない男たちだった。一瞬警戒した照美に、腰の曲がった老人が穏やかな笑みを向け、
「総領さんが戻っておいでのようですな」
と訊いた。
「はい。戻っておられますが、どちら様でしょうか」
「ほうほう、申し遅れました。総領さんに『足立の爺』が参ったとお伝え下さらんか」
照美はあっと目を剥いた。
「足立様とは……これは大変失礼しました」
平身低頭で詫び、少々お待ち下さい、と言って座敷に消えたかと思うと、洋介が小走りで玄関にやって来て叫んだ。
「足立の糞じじいか!」
「おう。この糞童(くそわっぱ)が、ずいぶんと立派になったものよ」
糞じじいと呼ばれた老人が相好を崩した。
「何年ぶりかな」
「ウメさんの葬儀以来じゃから、十六年振りかの」
祖母ウメは、洋介が浪速大学に入学した年の初夏に心筋梗塞で突然死していた。洋介を送り出し、一人暮らしになった故の悲劇だった。
「そないになるか。しかし爺さんは元気そうでなりよりだ」
洋介は、曲がった腰を伸ばした老人の肩を叩いて喜びを露にした。
「総領の活躍はわしの耳にも届いているぞ」
足立と名乗った老人はそう言い、
「洋吾郎さんや洋一さんが生きておられれば……」
と涙ぐんだ。
「爺は幾つになった」
「来年、卒寿じゃ」
「おお、九十歳か。長生きしたの」
実の祖父に語り掛けるような親身の情に溢れている。
「なんの、わし如きが長生きしても何の役にもたたんわい。洋吾郎さんが長生きしておられたら、さぞかし世の為、人の為になったであろうにの」
と、老人は鼻水を流して哭いた。洋介は込み上げる想いをぐっと胸に押し込み、
「昔話は後だ。さあ、爺さん。上がれ、上がれ」
と自ら手を引いた。そのとき、壮年の男と目が合った。
「万亀男おじさんもお久しぶりです」
洋介が声を掛けると、男は険しい顔つきで洋介に近づき、
「洋介君、後で話があります」
と耳元で囁いた。
「この青年は?」
軽く肯いた洋介は、もう一人の若者に目を遣った。
「孫の統万(とうま)じゃ」
「統万? ああ、一度だけ会ったことがある。ある、といってもまだ赤子だったが……」
洋介は、万亀男の後ろで軽く会釈した青年を懐かしげに見て言った。
「総領、早速じゃが、酒を飲む前にちと頼みがある」
「なんじゃ、あらたまって」
「この孫をそばに置いてやってもらえんかの」
「俺に預ける、ってか」
洋介は暫し沈思した。
「統万はいくつになった」
「二十八歳です」
「五年、いや三年でええ。是非、頼む」
と、老人は曲がった腰をさらに折った。
「命の保証はできんで」
洋介は真顔で釘を刺した。
「一旦預けたからには、総領の好きにしたらええ」
老人が言い切ると、万亀男も承知しているという目をして肯いた。
「そうなら話は早い。では爺さん、明後日大阪に連れて帰っても良いか」
「統万、そうして貰え」
有無も言わさぬ体で命じた老人に はいと統万が緊張の顔で頷いた。
「よっしゃ、これで決まりやな。とりあえず、一週間ほど俺のマンションに泊まって貰うから、身の回りの物だけを用意したらええで」
「総領のマンションに、ってか、それは……」
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