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修羅の道 第五章・結縁(5)
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翌朝の五時過ぎに洋介は目を覚ました。
真夏の時期、田舎の朝はすこぶる早い。朝の涼しい間に、農作業を済ませようとするからだ。屋敷の周囲のあちらこちらから生活音が聞こえ始め、洋介はすっかり目が冴えてしまった。
横を見ると、茜は穏やかな寝息を立てていた。
洋介は、気疲れしたであろう彼女を気遣い、静かに起き上がると、南側の奥の間に移動した。
奥の間とは、母屋の玄関から一番奥、つまり西側にあたり、十二畳の広さに加えて床の間があった。畳敷きではあったが、絨毯を敷きソファーとテーブルが置いてあり、かつて洋吾郎が接客に使っていた部屋だった。奥の間の西続きに幅広の縁側があり、戸を全開にすると、午前中は涼しい風が吹き抜けたためとても快適だった。
小学生の頃、夏休みになると午前中はこの奥の間で宿題に取り組み、午後は海水浴、夕方には南側の縁側でロッキングチェアーに腰掛けて本を読み、あれこれ空想をしながら転寝をする。それが洋介のお気に入りの過ごし方だった。
母屋には、玄関から見て南北それぞれに座敷、次の間、中の間、奥中の間、奥の間と続いており、平屋建てではあったが十部屋あった。
洋介が移った南側の奥の間と対になっている北側の部屋が、生前の祖父の書斎だった。昨夜、洋介と茜はその部屋で就寝した。
しばらく、奥の間で寝そべっていると、修二の妻照美が小皿を手にやって来た。
「眠れませんか」
照美は気遣いの言葉を掛けた。
「いえ。よく眠れましたが、子供の頃の習性なのか、物音に目が冴えてしまいました」
「広い屋敷なのに、外の物音がよく響きますからね」
照美も苦笑いをしながら相槌を打った。
「これ、珍しいでしょう。食べてごしない」
照美が差し出した小皿には、瓜が乗せてあった。
「おお、金瓜ですね。これは懐かしい」
洋介は、思わず舌なめずりをした。
熟れると皮が黄色に変色するため、この界隈では金瓜「きんうり」と呼んだ。味はマスクメロンに似て、甘くて美味しい。
洋介が子供の頃は、小腹が空くと、畑で捥ぎ取ったこの金瓜を小川で洗い、小刀で割ってかぶりついたものだった。
金瓜だけではない。山野に入っては西瓜、苺、枇杷、無花果、柿、梨、桑の実、山葡萄などの様々な果実類を、潮に浸かってはサザエやトコブシ、ウニなど新鮮な魚介類を食していた。トコブシとは小型のアワビのような貝である。当時はまだ乱獲前だったので、小振りなものであれば、泳ぎの苦手な洋介でさえ獲ることができた。
「最近、漁はどげですか」
「あんまり、ええことないです」
「そうですか。まあ、漁は水物ですからね。辛抱も大事でしょう」
洋介の慰めがありきたりだったのか、
「ええ、まあ」
と、照美は冴えない表情になった。
――他に何か、悩み事でもあるのか。
懸念を抱いた洋介の前から、照美は逃げるように立ち去って行った。
やがて、茜が姿を見せ、続けて洋美がやって来た。
「洋介おじさん、一緒にラジオ体操に行かん?」
「まだ、やっちょうかね。どこかな」
「大日さんだよ」
洋美は愛くるしい笑顔を見せた。
大日とは、園方寺に隣接する大日堂のことである。
「昔と同じだね。茜、散歩がてら行ってみるか」
はい、と茜は快く応じた。
門を出ると、大勢の子供に交じって大人も大日堂に向かっていた。
洋介と茜は、洋美がラジオ体操をしている間、大日堂の周囲を散策した。
「こんなところに墓石があるのね」
茜が大日堂の裏手の角にある古い石塔を見つけたようだ。
「ああ、その墓は吉三(きちざ)の墓だ」
「きちざ?」
「そうか、茜は知らんわな。八百屋お七の恋人と言ったら、わかるかな」
「八百屋お七って、江戸時代、火付けをして江戸の町を大火に包んだ罪で、火炙りの刑になったという、あのお七かしら」
「それや」
「へえ、お七の恋人って吉三っていう人だったの。でも、どうして江戸に住んでいた吉三の墓が浜浦にあるの?」
「それがな、お七は当時、数え年の十六歳だったということやから、満年齢では十四、五歳ということになるな」
「そんなに子供だったの」
「当時、十五歳以下は死罪にはならへんかったということや」
「現在の少年法みたいなものね」
「そういうことやな。当時は出生年なんていい加減なもんだったやろうから、お七が十五歳と言えば、死罪にはならなかったんやが、真っ正直に十六歳と言い張ったらしい」
「どうしてかしら」
「吉三に会えんのやったら、死んだ方がましと思ったのかもしれんな」
「一途だったのね」
「そういうことなろうな。それで、お七の処刑に責任を感じた吉三は彼女の魂を鎮めるべく、西国巡礼の旅に出たというわけや」
「その終焉の地がこの浜浦だったということね」
茜が察したように言った。
「そういうことらしい」
洋介は吉三の墓石に両手を合わせた。茜もしゃがみ込むと同じようにお祈りを捧げた。
「横にあるのは誰のお墓なの」
茜の視線が傍らの石塔に向いていた。
「それは大田何某という公家の墓や」
「お公家さん?」
茜は信じられないという顔をした。
「高貴な身分の墓が、こんな片田舎にあるのは不思議か」
「いえ……ええ、まあ」
茜は口籠もった。
「昨日の仏間でも言ったやろ、隠岐があるからや」
「後鳥羽上皇や後醍醐天皇が配流されたのですね」
うん、と洋介は肯く。
「せやから、近臣のやんごとなき身分の者も一緒に流されとるんや。そういった者の中には、途中で落命した者もいたんやな」
「そういうことですか」
茜はようやく得心したようだった。
「浜浦だけやない。この界隈には仏国寺の他にも少なからず史跡があるんやで」
洋介は茜の方に顔を突き出すと、
「案外、この俺にも高貴な身分の血が流れているかもしれんぞ」
と怪しい笑みを浮かべて言った。
「まあ……」
茜が口をあんぐりとしたとき、
「洋介おじさん、茜おねえちゃん、どこにいるの?」
ラジオ体操を終えた洋美の声が届いた。
洋介は冗談を言ったつもりであろうが、実は満更的外れでもなかった。高貴というのは言葉が過ぎるが、灘屋が身分の高い武家の亜流であることに間違いはなかったのである。
もちろん、洋介も全く知らない事実であり、一言付記すれば、本流には太平洋戦争開始以前から今日に至るまで、文字通り日本の精神的支柱である偉大な兄弟を輩出していた。
真夏の時期、田舎の朝はすこぶる早い。朝の涼しい間に、農作業を済ませようとするからだ。屋敷の周囲のあちらこちらから生活音が聞こえ始め、洋介はすっかり目が冴えてしまった。
横を見ると、茜は穏やかな寝息を立てていた。
洋介は、気疲れしたであろう彼女を気遣い、静かに起き上がると、南側の奥の間に移動した。
奥の間とは、母屋の玄関から一番奥、つまり西側にあたり、十二畳の広さに加えて床の間があった。畳敷きではあったが、絨毯を敷きソファーとテーブルが置いてあり、かつて洋吾郎が接客に使っていた部屋だった。奥の間の西続きに幅広の縁側があり、戸を全開にすると、午前中は涼しい風が吹き抜けたためとても快適だった。
小学生の頃、夏休みになると午前中はこの奥の間で宿題に取り組み、午後は海水浴、夕方には南側の縁側でロッキングチェアーに腰掛けて本を読み、あれこれ空想をしながら転寝をする。それが洋介のお気に入りの過ごし方だった。
母屋には、玄関から見て南北それぞれに座敷、次の間、中の間、奥中の間、奥の間と続いており、平屋建てではあったが十部屋あった。
洋介が移った南側の奥の間と対になっている北側の部屋が、生前の祖父の書斎だった。昨夜、洋介と茜はその部屋で就寝した。
しばらく、奥の間で寝そべっていると、修二の妻照美が小皿を手にやって来た。
「眠れませんか」
照美は気遣いの言葉を掛けた。
「いえ。よく眠れましたが、子供の頃の習性なのか、物音に目が冴えてしまいました」
「広い屋敷なのに、外の物音がよく響きますからね」
照美も苦笑いをしながら相槌を打った。
「これ、珍しいでしょう。食べてごしない」
照美が差し出した小皿には、瓜が乗せてあった。
「おお、金瓜ですね。これは懐かしい」
洋介は、思わず舌なめずりをした。
熟れると皮が黄色に変色するため、この界隈では金瓜「きんうり」と呼んだ。味はマスクメロンに似て、甘くて美味しい。
洋介が子供の頃は、小腹が空くと、畑で捥ぎ取ったこの金瓜を小川で洗い、小刀で割ってかぶりついたものだった。
金瓜だけではない。山野に入っては西瓜、苺、枇杷、無花果、柿、梨、桑の実、山葡萄などの様々な果実類を、潮に浸かってはサザエやトコブシ、ウニなど新鮮な魚介類を食していた。トコブシとは小型のアワビのような貝である。当時はまだ乱獲前だったので、小振りなものであれば、泳ぎの苦手な洋介でさえ獲ることができた。
「最近、漁はどげですか」
「あんまり、ええことないです」
「そうですか。まあ、漁は水物ですからね。辛抱も大事でしょう」
洋介の慰めがありきたりだったのか、
「ええ、まあ」
と、照美は冴えない表情になった。
――他に何か、悩み事でもあるのか。
懸念を抱いた洋介の前から、照美は逃げるように立ち去って行った。
やがて、茜が姿を見せ、続けて洋美がやって来た。
「洋介おじさん、一緒にラジオ体操に行かん?」
「まだ、やっちょうかね。どこかな」
「大日さんだよ」
洋美は愛くるしい笑顔を見せた。
大日とは、園方寺に隣接する大日堂のことである。
「昔と同じだね。茜、散歩がてら行ってみるか」
はい、と茜は快く応じた。
門を出ると、大勢の子供に交じって大人も大日堂に向かっていた。
洋介と茜は、洋美がラジオ体操をしている間、大日堂の周囲を散策した。
「こんなところに墓石があるのね」
茜が大日堂の裏手の角にある古い石塔を見つけたようだ。
「ああ、その墓は吉三(きちざ)の墓だ」
「きちざ?」
「そうか、茜は知らんわな。八百屋お七の恋人と言ったら、わかるかな」
「八百屋お七って、江戸時代、火付けをして江戸の町を大火に包んだ罪で、火炙りの刑になったという、あのお七かしら」
「それや」
「へえ、お七の恋人って吉三っていう人だったの。でも、どうして江戸に住んでいた吉三の墓が浜浦にあるの?」
「それがな、お七は当時、数え年の十六歳だったということやから、満年齢では十四、五歳ということになるな」
「そんなに子供だったの」
「当時、十五歳以下は死罪にはならへんかったということや」
「現在の少年法みたいなものね」
「そういうことやな。当時は出生年なんていい加減なもんだったやろうから、お七が十五歳と言えば、死罪にはならなかったんやが、真っ正直に十六歳と言い張ったらしい」
「どうしてかしら」
「吉三に会えんのやったら、死んだ方がましと思ったのかもしれんな」
「一途だったのね」
「そういうことなろうな。それで、お七の処刑に責任を感じた吉三は彼女の魂を鎮めるべく、西国巡礼の旅に出たというわけや」
「その終焉の地がこの浜浦だったということね」
茜が察したように言った。
「そういうことらしい」
洋介は吉三の墓石に両手を合わせた。茜もしゃがみ込むと同じようにお祈りを捧げた。
「横にあるのは誰のお墓なの」
茜の視線が傍らの石塔に向いていた。
「それは大田何某という公家の墓や」
「お公家さん?」
茜は信じられないという顔をした。
「高貴な身分の墓が、こんな片田舎にあるのは不思議か」
「いえ……ええ、まあ」
茜は口籠もった。
「昨日の仏間でも言ったやろ、隠岐があるからや」
「後鳥羽上皇や後醍醐天皇が配流されたのですね」
うん、と洋介は肯く。
「せやから、近臣のやんごとなき身分の者も一緒に流されとるんや。そういった者の中には、途中で落命した者もいたんやな」
「そういうことですか」
茜はようやく得心したようだった。
「浜浦だけやない。この界隈には仏国寺の他にも少なからず史跡があるんやで」
洋介は茜の方に顔を突き出すと、
「案外、この俺にも高貴な身分の血が流れているかもしれんぞ」
と怪しい笑みを浮かべて言った。
「まあ……」
茜が口をあんぐりとしたとき、
「洋介おじさん、茜おねえちゃん、どこにいるの?」
ラジオ体操を終えた洋美の声が届いた。
洋介は冗談を言ったつもりであろうが、実は満更的外れでもなかった。高貴というのは言葉が過ぎるが、灘屋が身分の高い武家の亜流であることに間違いはなかったのである。
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