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修羅の道 第五章・結縁(9)
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利二は堪え切れず、
「無理だわな。虫のええ話だわなあ」
と落胆の声で呟いた。
やがて、洋介はふうーと息を吐いて、おもむろに目を開けた。
「このこと、寿美子さんは知っちょうかい」
洋介は、実の妹に『さん』付けした。いきなり顔も見たこともない妹の存在を知らされたのである。戸惑いは当然だろう。
「いや、寿美子夫婦は何も知らん。というか、小夜姉さんは灘屋のことは胸に仕舞って何も話しちょらんけん、お前と兄妹だということも知らん」
そうか、と洋介は呟くと、
「利叔父さん。悪いけんど、おらはこの世には血の繋がりよりも、もっと大事なものがあると思っちょう」
「うっ」
利二は、洋介の血を吐くような言葉に答える術を持たなかった。慶吾と達也も断られたと思った。
ところが、同じ口から意外な言葉が出た。
「ええよ。一億円用立てるが」
「一億?」
利二は目を剥いた。
「あい。口座番号を教えてごしない。そこに振り込むけん」
「いや、一億もいらんけん。五千万でええだが」
利二は、喜びと困惑の入り混じった顔で遠慮した。
「心臓移植となりゃ、後々も金が掛かるかもしれん。その度に、無心に来られても迷惑だが」
洋介はつれない素振りを見せた。浜崎屋の三人は戸惑いを隠せなかった。
「この先、何があっても二度とお前には迷惑を掛けんけん」
利二が念を押すように言った。
その必死の形相に、
「叔父さん。洋介さんの本心は別ですよ」
と、茜が穏やかな声を掛けた。彼女には、照れ隠しだということがわかっていたのである。
茜の言葉の意味に気づいた利二は、
「おお、ほんなら、後で電話するけん、頼むわ」
と顔の前で両手を合わせ、拝むようにした。
「ただし、条件が一つある」
利二は息を呑んだ。
「どげなことだ」
「寿美子には俺が用立てたことを黙っていてごしない」
「しかし……」
言い澱んだ利二は、助けを求めるように慶吾を見た。寿美子から、どのように金の工面をしたのか、と問われたとき答える術がないのである。
「浜浦出身の資産家に頭を下げたとでも言えばええがの」
「それで、寿美子が納得するだらか」
利二が不安な顔を覗かせた。
「出来ないのなら、悪いけどこの話は無し、ということになるが」
「わ、わかった。何とかするけん。援助してくれ」
利二があわてて頭を下げた。
だが……と洋介が首を捻った。
「なんでおらに頼もうと思っただかい」
洋介が資産家になった事実は、門脇修二ら父方の親戚と菩提寺の道恵、道仙父子しか知らないはずだと訝った。父方、母方の親戚筋は互いに疎遠のはずであるし、道恵と道仙は口が堅いと承知していた。
「おらが、ITの専門雑誌を見ての。お前が何百億の資産を手にすると知っただが」
初めて達也が口を開いた。
何百億円というのは少し誤解がある。全額を現金で手に入れることはないからだ。その大半は保有する自社株の時価総額であり、会社を手離す気がない限り、売却することはないのだ。だが、洋介は細々しい説明を避けた。
「達兄ちゃんが、なんでITの雑誌を?」
読むのかと訊いた。達也はトラック輸送の仕事に就いているはずである。
「仕事の暇潰しに読むのだが、どうせなら、くだらん週刊誌よりITを勉強しようと思っての……この年でパソコンも触っているだが」
「ふーん」
と鼻で返事をした洋介に、達也は恐縮した。目の前にいるのはITのプロ中のプロなのである。
「そいだいてが、お前に頼むのは虫が良過ぎるちゅうことは重々わかっちょる」
すかさず利二が弁明した。洋介が達也に立腹していると誤解したのである。
「利叔父さん、それはもう気にせんでええだが」
洋介は微笑しながら言った。
利二は、ふうと安堵の息を吐くと、
「そげか。そげなら……」
「どげしたかい」
利二が神妙な顔つきになった。
「そげなら、一度小夜姉さんに会ってやってごさんかい」
「お袋に? お袋はどこにおるだかい」
「浜崎屋(うち)に泊まっちょうだが」
「浜浦に戻っちょっただかい」
極めて冷静な声だった。その落ち着いた響きは浜崎屋の三人、そして茜にも意外なものだった。
――やはり、あれはお袋だったか。
洋介は、昨夕の墓参帰りの視線を思い出していた。
「おらがの、連れて帰ったんよ」
これまで沈黙を通していた慶吾が気まずそうに口を開いた。
「慶叔父さんが」
「小夜姉さんたちはの、浜浦を出たものの行く当てがなくて、俺を頼って広島に来たんよ。俺が仕事の世話をしてやって、住むところも近所に見つけてやったんよ」
小夜子と駆け落ちした男は境港に住んでいたが、浜浦と近いということで仕事を止めて広島に移ったのだという。
「慶叔父さんに世話になっちょったらかい」
「世話っちゅうほどでもないけど、そういうわけで小夜子姉さんの家の事情は何でもわかったんよ。なもんで、洋介君に頼んでみたらどうやって助言したのも俺なんよ」
慶吾が極度に緊張していた理由だった。
「ということは、お袋は現在のおらのことも知っちょうだの」
「ああ、がいに出世したと喜んじょうがの」
利二が顔を綻ばせる。
「自分が引き取らんで良かったとも言っちょった」
「引き取る?」
「ウメさんから聞いちょらんかったかい」
「いや、何も」
洋介は困惑の顔で言った。
「無理だわな。虫のええ話だわなあ」
と落胆の声で呟いた。
やがて、洋介はふうーと息を吐いて、おもむろに目を開けた。
「このこと、寿美子さんは知っちょうかい」
洋介は、実の妹に『さん』付けした。いきなり顔も見たこともない妹の存在を知らされたのである。戸惑いは当然だろう。
「いや、寿美子夫婦は何も知らん。というか、小夜姉さんは灘屋のことは胸に仕舞って何も話しちょらんけん、お前と兄妹だということも知らん」
そうか、と洋介は呟くと、
「利叔父さん。悪いけんど、おらはこの世には血の繋がりよりも、もっと大事なものがあると思っちょう」
「うっ」
利二は、洋介の血を吐くような言葉に答える術を持たなかった。慶吾と達也も断られたと思った。
ところが、同じ口から意外な言葉が出た。
「ええよ。一億円用立てるが」
「一億?」
利二は目を剥いた。
「あい。口座番号を教えてごしない。そこに振り込むけん」
「いや、一億もいらんけん。五千万でええだが」
利二は、喜びと困惑の入り混じった顔で遠慮した。
「心臓移植となりゃ、後々も金が掛かるかもしれん。その度に、無心に来られても迷惑だが」
洋介はつれない素振りを見せた。浜崎屋の三人は戸惑いを隠せなかった。
「この先、何があっても二度とお前には迷惑を掛けんけん」
利二が念を押すように言った。
その必死の形相に、
「叔父さん。洋介さんの本心は別ですよ」
と、茜が穏やかな声を掛けた。彼女には、照れ隠しだということがわかっていたのである。
茜の言葉の意味に気づいた利二は、
「おお、ほんなら、後で電話するけん、頼むわ」
と顔の前で両手を合わせ、拝むようにした。
「ただし、条件が一つある」
利二は息を呑んだ。
「どげなことだ」
「寿美子には俺が用立てたことを黙っていてごしない」
「しかし……」
言い澱んだ利二は、助けを求めるように慶吾を見た。寿美子から、どのように金の工面をしたのか、と問われたとき答える術がないのである。
「浜浦出身の資産家に頭を下げたとでも言えばええがの」
「それで、寿美子が納得するだらか」
利二が不安な顔を覗かせた。
「出来ないのなら、悪いけどこの話は無し、ということになるが」
「わ、わかった。何とかするけん。援助してくれ」
利二があわてて頭を下げた。
だが……と洋介が首を捻った。
「なんでおらに頼もうと思っただかい」
洋介が資産家になった事実は、門脇修二ら父方の親戚と菩提寺の道恵、道仙父子しか知らないはずだと訝った。父方、母方の親戚筋は互いに疎遠のはずであるし、道恵と道仙は口が堅いと承知していた。
「おらが、ITの専門雑誌を見ての。お前が何百億の資産を手にすると知っただが」
初めて達也が口を開いた。
何百億円というのは少し誤解がある。全額を現金で手に入れることはないからだ。その大半は保有する自社株の時価総額であり、会社を手離す気がない限り、売却することはないのだ。だが、洋介は細々しい説明を避けた。
「達兄ちゃんが、なんでITの雑誌を?」
読むのかと訊いた。達也はトラック輸送の仕事に就いているはずである。
「仕事の暇潰しに読むのだが、どうせなら、くだらん週刊誌よりITを勉強しようと思っての……この年でパソコンも触っているだが」
「ふーん」
と鼻で返事をした洋介に、達也は恐縮した。目の前にいるのはITのプロ中のプロなのである。
「そいだいてが、お前に頼むのは虫が良過ぎるちゅうことは重々わかっちょる」
すかさず利二が弁明した。洋介が達也に立腹していると誤解したのである。
「利叔父さん、それはもう気にせんでええだが」
洋介は微笑しながら言った。
利二は、ふうと安堵の息を吐くと、
「そげか。そげなら……」
「どげしたかい」
利二が神妙な顔つきになった。
「そげなら、一度小夜姉さんに会ってやってごさんかい」
「お袋に? お袋はどこにおるだかい」
「浜崎屋(うち)に泊まっちょうだが」
「浜浦に戻っちょっただかい」
極めて冷静な声だった。その落ち着いた響きは浜崎屋の三人、そして茜にも意外なものだった。
――やはり、あれはお袋だったか。
洋介は、昨夕の墓参帰りの視線を思い出していた。
「おらがの、連れて帰ったんよ」
これまで沈黙を通していた慶吾が気まずそうに口を開いた。
「慶叔父さんが」
「小夜姉さんたちはの、浜浦を出たものの行く当てがなくて、俺を頼って広島に来たんよ。俺が仕事の世話をしてやって、住むところも近所に見つけてやったんよ」
小夜子と駆け落ちした男は境港に住んでいたが、浜浦と近いということで仕事を止めて広島に移ったのだという。
「慶叔父さんに世話になっちょったらかい」
「世話っちゅうほどでもないけど、そういうわけで小夜子姉さんの家の事情は何でもわかったんよ。なもんで、洋介君に頼んでみたらどうやって助言したのも俺なんよ」
慶吾が極度に緊張していた理由だった。
「ということは、お袋は現在のおらのことも知っちょうだの」
「ああ、がいに出世したと喜んじょうがの」
利二が顔を綻ばせる。
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「いや、何も」
洋介は困惑の顔で言った。
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