黒い聖域

久遠

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欲望の果 第四章・雄飛(2)

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 この時代の台湾へは、まだ短期滞在査証(ビザ)が必要だった。ビザが発給されるとすぐに、森岡と榊原そして林の三人は台湾の地に立った。
 森岡に同伴したのは、坂根、南目、蒲生と足立の四人である。峰松重一は神栄会の護衛を申し出たが、森岡はこれを固辞した。その代わりとして、伊能の人選で交流のある警備会社から選りすぐりの警護者を三名同行させた。
 週末を含む二泊三日の強行日程の宿泊地は、グランドホテル台北、通称『圓山大飯店』である。この世界に名立たる名物ホテルは台北市でもっとも眩しいランドマークであるだけでなく、東洋と西洋の設計美学を融合した現代における宮殿建築の代表でもある。
 故に、宿泊予約は取り難いホテルとしても有名でもあるが、そこは台湾でも屈指の大企業である天礼銘茶の社長直々のお声掛りである。森岡と榊原が泊まるスイートルームと隣接するツイン部屋四室も確保していた。
 圓山大飯店は、元は神社であった。日清戦争の結果、下関条約によって清朝より割譲されたのであるが、一九〇一年に台湾神社として建立された。戦後、神社は廃止され、ホテルが建設されたのである。
 その夜は、天礼銘茶本社会長・林海偉主催のウェルカムパーティが開かれた。会場はホテル内にある飲茶が絶品と評判の広東料理レストラン『鳳龍廳(ほうりゅうちょう)』である。
 林海偉は、この台湾全土でも有名な名店を貸切にしていた。
 森岡ら一行は九名。
 一方、天礼銘茶側は林海偉、海徳をはじめ、副総経理の要職にある海偉の息子海登(カイトウ)ら二十名を超えていた。どうやら、天礼銘茶以外からも参加しているようであった。その中に異色の人物が混じっていた。痩身の中背で浅黒い顔に目つきの暗い男は明らかに裏社会の人物とわかる。
 尚、総経理とは社長のことである。
 林海偉は非常に小柄な老人であった。
 年齢は六十五歳。従兄弟の海徳とは一回り以上年が離れていた。
 小柄とはいえ、さすがに世界最大のウーロン茶製造販売会社を作り上げた人物である。海偉には相手を威する存在感があった。白髪で柔和な笑みを浮かべてはいるが、眼鏡の奥の瞳は痛みを覚えるほど鋭い。
 森岡はその一種冷徹な光は、裏社会の人間が宿すそれに似ていると思った。
 台湾は中国ほどではないが、表と裏の社会の境界線が曖昧な国である。ちょうど、昭和三十年代の日本の社会構造に近いとみて良いだろう。政界、財界との繋がりが太く、したがって企業人の中にも裏社会からの転身者も多い。林海偉がそうかどうかはわからないが、目つきの暗い男を同伴していることからも裏社会と全くの無縁であるとは考え難かった。
 林海偉が伴った者の大半は彼の仕事仲間であった。言うなれば、これから共同事業を展開する森岡のお披露目と、同時に値踏みをしようというわけである。
「ようやくお会いすることができました」
 海偉が流暢な日本語で握手を求めて来た。台湾の七十歳代以上は、日本統治時代の名残りからほとんどの者が日本語を話せる。それ以下の年代でも、社会的立場の高い者は日本語の話せる者が多い。
「ずいんぶんとお待たせしました」
 森岡は軽く頭を下げて海偉の手を両手で握った。
 寺院ネットワーク事業の発案からすでに一年が経っていた。原因は森岡の部下だった筧克至とギャルソンの柿沢康弘が結託しての裏切りだった。森岡はそのことに少なからず負い目を感じていた。
「まずはお近づきの印に一献」
 と、林海偉がビールの入ったグラスを差し出した。
 このとき、海偉は『乾杯』とは言わなかった。このような場合、日本では乾杯と言うが、台湾でいう乾杯は『杯を乾、つまり空にする』という意味であるから、グラスなり杯なりを飲み干さなければならない。
「皆を紹介する前に一つだけ言いたいことがあります」
 海偉があらたまった。
 森岡はグラスをテーブルの上に置いた。
「なんでしょう」
「今回、ようやく事業展開に目途が付いたとはいえ、私は一年も待ちました。これは事業利益を失ったとも言えるが、森岡さんはどうお考えになりますかな」
 口調は柔らかだが、突き刺すような言葉であった。隣席の海徳も思わぬ発言に顔色を失っていた。
「おっしゃるとおり、一年という時間を無駄にしたのは利益の損失も同然です。私が責を負いますので、何なりとおっしゃって下さい」
 森岡は淡々と言った。
「ならば、損害金として二億円を支払って頂けますかな」
「わかりました」
 森岡は眉ひとつ動かさずに即答したが、
 海偉の、
「もう一つ。彩華堂とかいう和菓子屋が参画するそうですが、遠慮してもらいたい」
 乾いた言葉には、さすがに苦い顔になった。
「理由を聞かせてもらえますか」
「事情は知らないが、ギャルソンという彩華堂の数倍も大きな会社を断っておきながら、いまさら彩華堂でもないでしょう」
「おっしゃることは理解できますが、そうしますと、振出しに戻ってしまい、また一から協賛会社を探さなければなりませんが」
「そのことなら心配ない。私の方で見つけておきました」
 海偉は同行者から一人の男を指さした。陳建銘(チンケンメイ)という五十歳台の男だった。受け取った名刺の肩書は『羅林食品有限公司』の総経理とあった。何を作っているかは知る由もないが、食品会社であることだけはわかる。
「日本でも評判のパイナップルケーキを製造しています」
「なるほど」
 と言った後、森岡は数瞬思考した。
「林さん。今二億円を支払うと申しましたが、今回の事業は白紙に戻したいと思いますので、墨を探して頂いた件も含めて、この際賠償金を明示して下さい」
「お、おい、洋介」
 榊原壮太郎が青ざめた顔で声を掛けた。
「爺ちゃん、すまんがこの話は無かったことにしたい」
 森岡は小さく頭を下げた。
「私たちとは手を切るということですな」
 海偉が低い声で訊いた。
「残念ですが、そういうことです」
「福建銘茶ですかな」
 海偉が鋭い眼で睨み付ける。
「あまり見縊らないで頂きたい」
 森岡も睨み返した。裏切りではないと訴えていた。
 その奥底に漂う鈍い光に、海偉は思わず身震いした。
――さすがだ……あの男が全幅の信頼を置くのもわかる。
 海偉は心の中で頷きながら、
「理由を聞かせてもらえませんか」
「貴方と私とでは、人生哲学が違うとわかったからです」
「な、哲学とな」
「甘い、とお笑いになるかもしれませんが、私は目先の利益より義と情を重んじます。その方がいずれ大利を生むと信じているからです。彩華堂の南目社長は私の窮地を救って下さいました。そのような恩人を切り捨てるのは人の道に悖るというものです」
「なるほど。たしかに青臭い」
 海偉は鼻で笑った。
「では、十億円を頂きましょうかな」
「承知しました。日本へ帰りましたらすぐに振り込みましょう」
 森岡はそう言って席を立った。
「爺ちゃんはこれまで通りの付き合いをしたらええ。だが、俺は今後一切、御免蒙る」
 森岡は坂根らに目配せをした。
 坂根、南目、蒲生、足立と護衛三人が一斉に席を立った。
 そのときである。
 あははは……と林海偉の笑い声が高らかに鳴り響いた。
 林海徳や榊原が目を丸くして見つめている中、森岡は厳しい視線を海偉に送っていた。
「いやあ、申し訳ありません」
 海偉は席を立って深々と頭を下げた。
「まさに、郭さんの言われたとおりの人物だ」
「総経理もお人が悪い。彼を試されたのですか」
 郭さんと呼ばれた老人が笑顔を作りながら森岡に近づいて来た。海偉より年長である。
 森岡は微かに見覚えがあった。といっても、いつどこで出会ったのかは思い出せなかった。
「お忘れですか、神戸の華人会館ではお世話になりました」
「華人会館……ああ、銘傑(メイケツ)さんのお父上様ですね」
 はい、と老人は肯いた。
 
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