黒い聖域

久遠

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欲望の果 第六章・報復(6)

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 京都大本山本妙寺の新貫主選出の合議まで一か月半と迫っていた頃、鹿児島市冷泉寺の住職菊池龍峰の許へ一人の来客があった。
 冷泉寺の檀家役員且つ護山会会長の柚原幸宣(ゆずはらゆきのぶ)である。護山会の会長であれば日常の光景なのだが、この日山門を潜った柚原には緊張の面が看て取れた。
 柚原は、菊池にとって耳寄りな話を持ち込んだ。東京に住む彼の知人から二億円を寄付したいという申し出があったというのである。
 菊池は喜色を隠し切れなかった。
 ことさら彼が心を躍らせたのには理由があった。このとき菊池は、ある本山の貫主就任へ向けて確かな足掛かりを掴んでいた。
 森岡の介入によって『天山修行堂を我が物にし、天真宗の裏支配を……』との野望が潰えてしまった菊池龍峰は、すぐさま表世界での出世へと方針転換していた。したがって、金ならいくらあっても邪魔にならない彼にとっては、まさに棚からぼた餅の瑞兆話だったのである。
 いま一度説明しておくが、別格大本山法国寺以外の、大本山や本山の貫主人事は、基本的に現貫主の腹一つで決まる。
 常套なのは、後継者を執事長の職に据え、その者を後継とする旨の書類を総本山の宗務院に提出し、承認を得る方法でる。八割方がこのケースに当てはまる。
 現貫主の急逝などによって、宗務院の定めた書類の提出ができない場合でも、遺言書などの公文書に後継者の名が記載されていれば、就任へ向けての有力な支援材料となるが、それも無い場合は本妙寺での神村正遠のように関係各位の署名・捺印が必要となる。
 ただし、神村の例を挙げるまでもなく、思惑が絡み合う関係各位の推薦状を得るのはなかなかに難しく、結局のところは合議、引いては選挙投票ということになるのが大方であった。
 菊池龍峰は、現在大本山や本山の執事長の職になかったので、彼が貫主になるためには、選挙に立候補し、当選を勝ち取る場合に限られるのだが、いま菊池はその戦いの渦中にいたのである。
 一ヶ月前、宮崎県高千穂にある本山華法寺(かほうじ)の大平落(おおでらおとし)貫主が、九州南部を襲った地震の被災により、急逝してしまった。大平落は貫主になって僅か一年。執事長には、長年親交のあった弟弟子を据えていたが、彼は荒行を三回しか達成しておらず、貫主就任の資格がなかった。
 神村の場合は有資格者であったから、関係各位の署名・捺印の有無という段階を踏んだが、今回の場合は即時選挙という運びとなった。しかも、立候補の受付期間は一ヶ月間という短いものだった。
 締め切り一週間前の時点では、立候補者は一人であった。長崎に自坊を持つ、七十代後半の老僧である。しばらく様子を窺っていた菊池は、他に手の上がる気配がないことに、この老僧が相手ならば勝算有りと踏んで、華法寺の貫主就任選挙への出馬を決めた。
 全国に三十九寺ある本山のうち、九州地区には五ヶ寺しかなかった。そのため、貫主選挙に限り、中・四国地区を組み入れて実施されていた。すなわち、中国地方の三ヶ寺と四国地方の二ヶ寺を合わせた十ヶ寺から、当該の華法寺を除いた九ヶ寺の貫主の合議、または投票によって決することになったのである。
 菊池の自坊冷泉寺は間違いなく肉山であった。
 室町時代の前期に、領主である菊池家の一門が出家して開山された当寺は、代々領主の手厚い庇護の許で多くの信者を集め、繁栄の礎を築いた。
 敷地は八千坪もあり、本堂、歴代住職の霊廟、多宝塔の他に、参拝客の宿坊までが建立されるなど、地方の末寺にしては異例の壮麗さを誇っていた。現在でも、檀家数は千五百を有に超え、葬礼などによるお布施で潤っていた。
 そのうえ、森岡から搾り取る金が計算できる。札束戦に持ち込めば、菊池の優勢は明らかであった。だからこそ、菊池は景山が持ち込んだ『アメ』の話を断ったのであり、二億円でも十分と、森岡の減額提示もすんなりと受け入れたのである。

 ところが、菊池龍峰にとって想定外のことが起こる。
 締め切りの前日、忽然として仙台市北竜興寺の弓削広明(こうめい)が、貫主の座に名乗りを上げたのである。広明は弓削広大の実父である。
 この難敵出現の背後に、森岡洋介の影があるのは明白であった。森岡が、宝物の件の意趣返しのために、弓削広明を担ぎ出し、自身の行く手を阻害しようとしているのだと、菊池にも容易に想像できた。
 客観的に見れば、菊池龍峰の優位は揺るがなかった。
 戦いの舞台が、他所者の弓削広明とは異なり、菊池の御膝元である九州の中でも、さらに地下(じげ・地元)ともいえる高千穂の本山だったからである。
 また、九州地区寺院会副会長の地位を利用した政治活動が可能であるし、さらに大平落前貫主が、様々な会合において菊池を高く評価する発言をしていたことは、九州、中国、四国の各本山にも届いていた。
 心証からすれば菊池の優位は疑いようがなかった。
 だが、それでも当の菊池龍峰は相当の苦戦を覚悟した。
 その資金力もさることながら、森岡の智力が尋常でないことは、東京目黒澄福寺貫主の芦名泰山説得の際に痛感していた。
 しかも、法国寺の宝物紛失の一件で、影の法主の久田帝玄だけでなく、次期法主の藤井清堂までを味方に付けていることが判明した。それはつまり、此度の選挙と直接には関係なくとも、全国九ヶ寺の大本山の貫主たちまでが、彼の手中にあると見なければならないのである。
 まして、弓削広明の嫡男である広大は、青年僧侶の全国組織・妙智会の会長である。妙智会の力は、総本山宗務総長の永井大幹を通じて、総務清堂に圧力を掛けたことでも実証済みだった。
 菊池の不安は止まることがなかった。その不安を払拭するために、菊池は喉から手が出るほど金が欲しかった。森岡から毟り取った二億円では足らないと焦った。
 その焦りが、彼の冷静な判断を少しずつ狂わせて行った。
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