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欲望の果 第七章・傷心(10)
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「私も一つお聞きしても良いですか」
「もちろんです」
「森岡さんは、どうしてここまで良くして下さるのですか」
鴻上としては当然の疑問であろう。
ははは……と森岡は笑い出した。
「理由は三つ。一つは私の道楽です」
「道楽?」
「道楽というのは失礼ですが、私は、これはと思う人物には金を惜しまない性格なのです」
「私がそうだと」
はい、と森岡は肯いた。
「貴方が、ただ単に帝都大学法学部卒のエリートでしたら歯牙にも掛けなかったでしょうが、幸いと言って良いかどうか、大きな挫折を味わわれた。これが気に入りました」
「……」
鴻上は複雑な表情で聞いている。
「挫折というのは人の心を強くします。たとえば、土壇場に追い込まれたときでも、簡単に屈することなく、粘り強く対処法を考えるようになります。要は胆力が錬られるということです。帝都大法学部卒の頭脳優秀な貴方に強靭な胆力が加われば、まさに鬼に金棒というやつですよ」
「なんともはや、そのようなものですか」
鴻上は曰く言い難い顔つきをした。
彼の心中には、
――目の前にいる男は自分より一歳年下のはずである。自慢ではないが、学力という点に限れば、帝都大法学部卒の自分がこの男に劣るとは思えないその男に講釈を垂れられて、少しも反発心がわかないのはなぜだ。
という不思議な思いが駆け巡っていたのである。
「二つ目は、貴方にその挫折を与える片棒を担いだ美佐子というホステスの贖罪のためです」
えっ? と鴻上の目が点になった。
「森岡さんは彼女をご存知なのですか」
「ひょんなことで知り合いました」
腑に落ちない様子の鴻上に、
「誤解しないで下さい。彼女の悪事は私が彼女を知る前のことですから」
と言葉を加えた。
「それはもう」
承知していると鴻上は頷く。
「それにしても、彼女の贖罪を肩代わりされるとは、いったい彼女は森岡さんの何なのですか」
「情報源といったところでしょうか」
「単なる情報源ですか」
「彼女が気になりますか」
「いえ。もうきっぱりと諦めました。というか、夢から覚めました。ただ、彼女が惚れるとしたら森岡さんのような男かもしれないと思ったものですから」
「ははは……私はそれほどもてやしませんよ」
笑いながら顔の前で手を振った森岡に、
「三つ目は」
と、鴻上が訊いた。
「それは墓場まで持って行きます」
森岡は明言を避けた。まさか、婚約中だった貴方の元奥さんと、昔一夜を共にしたなどと言えるはずがなかった。
「それより最後に一つだけ、本拠地は大阪になりますが、大丈夫ですか」
と、森岡は本題に戻した。
「大阪? 東京ではないのですか」
「東京は日本の政治、経済、文化、スポーツ等々あらゆる分野の中心ですが、一つだけ関西に後塵を拝しているものがあります」
「あっ、私としたことがお恥ずかしい」
鴻上は頭を掻くと、
「関西移住に問題はありません」
きっぱりと言った。
奈良、京都だけでなく、和歌山の高野山と滋賀の比叡山を抱える関西は紛れもなく日本仏教の中心地である。さらに伊勢神宮を加えれば、日本人の精神の故郷とも言えるだろう。
「でしたら、差し出がましいようですが、この際近況を報告して奥様と復縁なさったらどうですか」
鴻上は気恥ずかしい顔つきになった。
「私もそう考えていたところです」
「では世間、いや辰巳さんを見返すよう頑張って下さい」
森岡の目に、私も協力しますよ、との意を感じた鴻上は感謝の頭を垂れた。
「では、こちらの担当を紹介します」
と言って森岡は坂根好之を呼び入れた。
「今後は、万事この男と図って進めて下さい」
「この若さで企画部長さんですか」
鴻上は受け取った名刺を見て驚いた。
「肩書きだけは立派ですが、未熟者ですので宜しくご指導下さい」
坂根は丁重に頭を下げた。
――さてと、筧に目に物を見せてやるか。
森岡は心の中で呟いた。
「鴻上さん、一つお願いがあるのですが」
「私にできることであれば、何でも致します」
鴻上は返礼とばかりに意気込んだ。
「そう難しいことではないのですが」
森岡は言葉を切った。
「どうされました」
「貴方にとって後味の悪いことなのです」
「どうぞ、遠慮なくおっしゃって下さい」
「筧克至を呼び出してもらえませんか」
鴻上は苦い顔をした。瞬時にその意味を理解したのである。
「貴方にそのような役目を押し付けるのは心苦しいのですが、今筧と接触できるは貴方しかいないのです」
「何をされるのですか」
鴻上は思い切って訊いた。筧に何度も苦汁を飲まされたことを聞いた鴻上は、森岡がいかなる報復に出るのか気になった。その片棒を担ぐことには忸怩たるものがある。
「心配には及びません。暴力的なことは極力控えますし、鴻上さんには迷惑が掛からないようにします」
「そういうことでしたら、協力します」
鴻上は安堵した表情で言った。
後日、事の顛末を聞いた吉永幹子は、森岡の厚情に涙して頭を垂れた。むろん、彼女に畑違いの事業に参画する気はなく、寺院ネットワーク事業から手を引いた。その代わりとして森岡は事業拡大、とくに関西進出の際には資金協力すると申し出た。
鴻上との共同事業は、早晩千鶴にも伝わることだろう。
森岡は、自己満足に過ぎないことを承知していたが、それでも彼女への罪悪感が薄らいだ気がした。
「もちろんです」
「森岡さんは、どうしてここまで良くして下さるのですか」
鴻上としては当然の疑問であろう。
ははは……と森岡は笑い出した。
「理由は三つ。一つは私の道楽です」
「道楽?」
「道楽というのは失礼ですが、私は、これはと思う人物には金を惜しまない性格なのです」
「私がそうだと」
はい、と森岡は肯いた。
「貴方が、ただ単に帝都大学法学部卒のエリートでしたら歯牙にも掛けなかったでしょうが、幸いと言って良いかどうか、大きな挫折を味わわれた。これが気に入りました」
「……」
鴻上は複雑な表情で聞いている。
「挫折というのは人の心を強くします。たとえば、土壇場に追い込まれたときでも、簡単に屈することなく、粘り強く対処法を考えるようになります。要は胆力が錬られるということです。帝都大法学部卒の頭脳優秀な貴方に強靭な胆力が加われば、まさに鬼に金棒というやつですよ」
「なんともはや、そのようなものですか」
鴻上は曰く言い難い顔つきをした。
彼の心中には、
――目の前にいる男は自分より一歳年下のはずである。自慢ではないが、学力という点に限れば、帝都大法学部卒の自分がこの男に劣るとは思えないその男に講釈を垂れられて、少しも反発心がわかないのはなぜだ。
という不思議な思いが駆け巡っていたのである。
「二つ目は、貴方にその挫折を与える片棒を担いだ美佐子というホステスの贖罪のためです」
えっ? と鴻上の目が点になった。
「森岡さんは彼女をご存知なのですか」
「ひょんなことで知り合いました」
腑に落ちない様子の鴻上に、
「誤解しないで下さい。彼女の悪事は私が彼女を知る前のことですから」
と言葉を加えた。
「それはもう」
承知していると鴻上は頷く。
「それにしても、彼女の贖罪を肩代わりされるとは、いったい彼女は森岡さんの何なのですか」
「情報源といったところでしょうか」
「単なる情報源ですか」
「彼女が気になりますか」
「いえ。もうきっぱりと諦めました。というか、夢から覚めました。ただ、彼女が惚れるとしたら森岡さんのような男かもしれないと思ったものですから」
「ははは……私はそれほどもてやしませんよ」
笑いながら顔の前で手を振った森岡に、
「三つ目は」
と、鴻上が訊いた。
「それは墓場まで持って行きます」
森岡は明言を避けた。まさか、婚約中だった貴方の元奥さんと、昔一夜を共にしたなどと言えるはずがなかった。
「それより最後に一つだけ、本拠地は大阪になりますが、大丈夫ですか」
と、森岡は本題に戻した。
「大阪? 東京ではないのですか」
「東京は日本の政治、経済、文化、スポーツ等々あらゆる分野の中心ですが、一つだけ関西に後塵を拝しているものがあります」
「あっ、私としたことがお恥ずかしい」
鴻上は頭を掻くと、
「関西移住に問題はありません」
きっぱりと言った。
奈良、京都だけでなく、和歌山の高野山と滋賀の比叡山を抱える関西は紛れもなく日本仏教の中心地である。さらに伊勢神宮を加えれば、日本人の精神の故郷とも言えるだろう。
「でしたら、差し出がましいようですが、この際近況を報告して奥様と復縁なさったらどうですか」
鴻上は気恥ずかしい顔つきになった。
「私もそう考えていたところです」
「では世間、いや辰巳さんを見返すよう頑張って下さい」
森岡の目に、私も協力しますよ、との意を感じた鴻上は感謝の頭を垂れた。
「では、こちらの担当を紹介します」
と言って森岡は坂根好之を呼び入れた。
「今後は、万事この男と図って進めて下さい」
「この若さで企画部長さんですか」
鴻上は受け取った名刺を見て驚いた。
「肩書きだけは立派ですが、未熟者ですので宜しくご指導下さい」
坂根は丁重に頭を下げた。
――さてと、筧に目に物を見せてやるか。
森岡は心の中で呟いた。
「鴻上さん、一つお願いがあるのですが」
「私にできることであれば、何でも致します」
鴻上は返礼とばかりに意気込んだ。
「そう難しいことではないのですが」
森岡は言葉を切った。
「どうされました」
「貴方にとって後味の悪いことなのです」
「どうぞ、遠慮なくおっしゃって下さい」
「筧克至を呼び出してもらえませんか」
鴻上は苦い顔をした。瞬時にその意味を理解したのである。
「貴方にそのような役目を押し付けるのは心苦しいのですが、今筧と接触できるは貴方しかいないのです」
「何をされるのですか」
鴻上は思い切って訊いた。筧に何度も苦汁を飲まされたことを聞いた鴻上は、森岡がいかなる報復に出るのか気になった。その片棒を担ぐことには忸怩たるものがある。
「心配には及びません。暴力的なことは極力控えますし、鴻上さんには迷惑が掛からないようにします」
「そういうことでしたら、協力します」
鴻上は安堵した表情で言った。
後日、事の顛末を聞いた吉永幹子は、森岡の厚情に涙して頭を垂れた。むろん、彼女に畑違いの事業に参画する気はなく、寺院ネットワーク事業から手を引いた。その代わりとして森岡は事業拡大、とくに関西進出の際には資金協力すると申し出た。
鴻上との共同事業は、早晩千鶴にも伝わることだろう。
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