黒い聖域

久遠

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聖域の闇 第五章・秘宝(14)

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「ママ、俺の恩師の藤波先生だ」
 森岡が席に着いた茜に紹介すると、
「これは、まさに天女のような美しさだの」
 藤波は神妙な口調で言葉を紡いだ。
「まあ先生ったら、まるで神主様か何かのような口ぶりですね」
「ママ、本物の神主さんや。しかも、出雲風土記にも名がある由緒正しき古社やで」
「あら、これは大変失礼しました」
「さすがに天下に名高い北新地じゃの。ママさんだけでなく、皆美形揃いじゃ」
 恐縮して詫びる茜に、藤波が誉めた。
 茜は、ありがとうございます、と小さく頭を下げると、
「もしかして、先生が森岡さんの恩人というお方ですか」
 そうだ、と森岡は肯いた。
「お前、そんなことまで話しているのか。もしや、この別嬪さんはお前の……」
 恋人なのか、という顔の藤波に、
「まさか、私など見向きもされませんよ」
 と、森岡は大仰に手を振った。
 そうかな、と疑いの目をした藤波に、ふといたずら心が湧いた。
「まあ、良いわ。わしはこの別嬪さんと酒が飲めれば良い」
 上機嫌でそう言った後、
「それにしても、明日は楽しみだの、森岡君」
 とからかったのである。
「あら先生、明日は何かございますの」
 案の定、茜が敏感に反応した。
「うん。それがの、この男の『憧れの君』に会いに行くのじゃ」
「先生……」
 と泡を食ったように藤波の口を封じようとした森岡に、茜が詰め寄った。
「憧れの君ってどなたですの」
 目が吊り上がっていた。
 森岡は、背に冷や汗が伝うのを感じつつ、
「大昔のことだ。それに、明日は本妙寺の件に絡むことで相談したいことがあるからで、特別な感情など無い」
 と弁解に終始した。
「神村先生を盾にすれば、何事も罷り通るなどと思わないで下さいね」
 茜はすっかり女房気取りの口調である。傍から見れば、夫婦の痴話喧嘩だ。
 藤波はにやにやしながら、
――お嬢さんはがっかりするかもしれないが、先妻を亡くしたこいつも、やっと幸せになれるのか。
 と胸に熱いものを感じていた。

 日本歴史学芸館は京都市東山区にあった。この学芸館は政府の外郭団体ではなく、京都府、京都市、京都にある大学、民間企業が共同出資して、日本の歴史研究のために設立された組織である。
 とくに京都、奈良を中心に長らく日本の都があった畿内一円は、数多の古文書が残っている。その多くは私文書であるが、これらを解析することで、歴史の蓋然性の担保や当時の社会慣習、環境を推察することができるのである。
 目加戸瑠津は、この学芸館で主任研究員をしていた。
 二人は一階ロビーの喫茶室で彼女を待っていた。
「まあ」
 森岡を看留めた瑠津がその場で立ち竦んだ。
「先生も意地悪ですね。森岡君が同道するなんで、一言もおっしゃっていなかったでしょう」
 拗ねたような顔がまた魅惑的だった。彼女は二十年の時を重ね、大人の美を纏っていた。それは高校時代、童顔だった分だけ三十六歳にはとうてい思えない瑞々しい美しさだった。
「お前さんを驚かしてやろうと思ってな」
 藤波は、してやったりという目をして言った。
 瑠津は少し顔を赤らめて、
「森岡君、お久しぶり。貴方の活躍は耳にしているわよ」
 と微笑んだ。
「俺の活躍?」
「京都はね、広いようで案外狭いのよ」 
 不審の色を見せた森岡に、瑠津はもっともらしいことを言った後、
「実は、学芸館の後輩研究員の親戚に本妙寺の関係者がいるらしいの」
 と種を明かした。
「関係者?」
「確か、護寺院の会長さんって言っていたわ」
「相馬上人かい」
 そう、と瑠津は肯いた。
「後輩はその相馬さんの姪御さんなの」
「ふーん、たしかに世間は広いようで狭い。僕はこれまで何度も同じような経験をしている」
 森岡は吉永母娘、鴻上智之との関わり、ギャルソンの柿沢父子と勝部雅春や阿波野光高との因縁を脳裡に浮かべて言った。
「最初、やり手の若者で森岡って名が出たとき、貴方だなんて思わなかった。その後、詳しい話を聞いても貴方とイメージが重ならなかった」
「そりゃそうだろ。わしなんか、今でも信じられないもんな」
 藤波が同調した。
「でも、さらに話が深まって行くと、ふと貴方の姿が頭の片隅に浮かんだの」
「ほう。どうしてかの」
「先生、彼って異様に一途じゃありませんでした」
「なるほどの」
 藤波は何度も顎を上下させた。
「それで、今日はどういう御用かしら。まさか、その本妙寺の件じゃないわよね」
「そう言われてしまうと、話し辛くなる」
「あら、本当にそうなの」
 と、瑠津はつぶらな瞳をさらに丸くした。
「私に何を聞きたいの」
「天真宗が所有する枕木山を知っているかな」
「ごめん、知らない」
 瑠津は申し訳なさそうに言った。
「いや、それは構わないんだけど、その枕木山についての古文書があるかどうか調べて欲しいんだ」 
「どういった類のことなの」
「とくにこれ、というのはない。というより、どんな些細なことでも良いんだ」
「うーん」
 瑠津はしばらく沈思した。そして、
「枕木山がそうかどうかはわからないのだけど……」
 と前置きすると、耳寄りなことを口にした。
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