上 下
1 / 20
第一章 宿命を背負う男

(1)

しおりを挟む
 陽春の朝の陽射しが薄白く差し込んでいる。
 地上二百五十メートルの高さを誇り、東京湾を見下ろすように建つ湾岸タワービル。昨年、都内港区に建設されたばかりの、真新しい高層マンションの最上階から、南東の方角に広がる房総灘の果てを眺めている男がいた。
 目元には精気が宿り、全身に気力を漲らせている男の名は別当光智(べっとうみつとも)。我が国最高学府・帝都大学法学部の三回生である。彼の視線の先、生まれたての太陽が放つ白光を浴びた銀面には、薄っすらと朝靄が横たわっていた。
 光智が住むこのペントハウスは、二百坪ほどの広さがあった。広めのベッドルームが三部屋あって、そのうち二部屋はトイレとシャワールームが備わった来客用である。他に和室が二間、応接室、書斎、八十畳のリビング、ダイニングキッチンにジャグジー付の風呂とトイレが三つあった。
 そしてもう一部屋―-。
 彼が何人たりとも中に通したことのない秘密の部屋がある。
 東に面した二十畳もの広さがあるその一室は、最新の情報機器で溢れていた。大画面パソコン十五台をルーターで結び、内一台をサーバーにしていた。他にFAXと多機能プリンターが揃っている、個人としては相当に大掛かりな設備は、小さな街の証券会社の店頭と比較しても遜色がないほどであった。
 その十四台のパソコンのモニター画面は徐々に動きを止め始めていた。壁掛けの時計の針は、午前六時を少し回ったところを指している。ちょうど、ニューヨーク株式市場が閉じたところだった。
 二〇〇一年四月十四日。
 この日のダウ平均は、企業の設備投資指数が落ち込んだのを嫌気して、三百ドル以上の大幅な下げを記録した。
 よし! 光智は気合を入れると、携帯電話を手に取り、村井という男に『牧野モーター』の買い増しを指示した。
 牧野モーターは、産業ロボット用超小型モーターの世界シェアーが三十パーセント強を誇る世界的優良企業だった。その割には、資本金・六百五十億円、発行株数・三千六百二十万株、時価総額・一千億円強の中型株で、そのうえ浮動株が約三十七パーセントもあり、買収するには手ごろな企業だった。新技術の開発に成功し、急成長した企業に多いケースである。
 日本の株式市場は、恐ろしいほどにニューヨーク市場と連動する。まるで合わせ鏡のように同じ動きに終始するため、ニューヨーク市場さえ注視すれば、日本市場は見なくても事足りると言う投資家もいるくらいである。
 光智もその一人だった。しかも、この日の大幅下落の要因が、企業の設備投資指数の弱含みを受けてのものだったため、牧野モーターのような設備投資関連株が下落することは、子供にも分かる道理なのである。
 携帯を切ると、彼は手早く身支度を済ませ部屋を出た。愛車のフェラーリー・テスタロッサを転がし、大学から一駅離れた駐車場に止めると、そこで自転車に乗り換え、学生専用アパートに入って行った。
 築四十年。木造二階立ての二〇三号室。トイレは付いているが風呂は無く、家賃が月額三万八千円の安アパート。ここが彼のもう一つのねぐらである。彼は、大学へ顔を出すときはこの部屋を使っているため、誰一人として彼の正体に気付いている者はいない。

しおりを挟む

処理中です...