鈴蛍

久遠

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第二章 ときめき(1)

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 翌日の昼時、野田洋平は集合場所に向かってがむしゃらに走っていた。炎天下、ひたすら走り続けていた彼の体力は、限界を迎えようとしていた。
 これにはある事情があった。
 ほんの三十分前に、彼は菩提寺である永楽寺への使いを祖父に命ぜられたのである。彼にとって、洋太郎は絶対者であり、いかなる状況であっても、使いを断ることなど、許されるものではなかった。
 その使いとは、お盆のお布施の三十万円を事前に届けるというものだった。
 洋太郎が十二歳の彼に、そのような大金を持たせる理由は二つあった。
 一つは、一種の帝王学というべきものである。子供の時分より、町や村の権力者や有力な家々と、より近しい関係を築くためであり、葬祭を司る永楽寺もその一つだった。彼は永楽寺だけでなく、町長、郵便局長、小学校の校長や教頭、漁協や農協の組合長といった公職にある要人への使いも、度々言い付けられていた。
 帝王学という意味で言えば、彼らが恵比寿家へ相談事を持ち込んだときも、洋太郎は胡坐を掻いて、洋平をそこに座らせて応対をしていたので、彼は幼くして、ずいぶんと生臭い会話を耳にし、社会の裏側というものを垣間見ていた。
 もう一つは、この村が戦後一度も犯罪の無い、極めて平和で安全な村であり、盗難に合う事など全く考えられないということだった。洋太郎には、仮にそれを紛失したとしても、祭事などの特別な日でない限り、他所者がほとんど入り込まないこの村であれば、村人の手によって、必ずや駐在所に届けられるという確信があったのである。
 永楽寺は、鎌倉時代に建立された禅宗の古刹で、村の南東の外れにあり、恵比寿家からは、海水浴の集合場所と、ちょうど真反対に位置していた。
 実は、永楽寺は室町時代、尼子の世に戦火に巻き込まれ、一度全焼したことがあり、そのとき過去帖も同時に焼失してしまっていたので、恵比寿家は、実際にはさらに古くから続く家柄だと思われた。 
 ともかく、洋太郎に用事を言い使ったとき、時計の針は十二時を指していた。洋平にはあまりに時間がなかった。そのような次第で、すでに彼は永楽寺までの片道四百メートルほどの道のりを、全速力で往復走り終えていた。そして、今また集合場所への道を必死に走っていたのだった。
 洋平は走ること、特に長距離は得意だったが、さすがに夏真っ盛りの昼時、立て続けに四百メートル余りを三度目ともなると、相当に体力を消耗していたという訳なのだ。
 仮に、集合時間に間に合わなくても小浜へ行けなくはないが、その場合は、必ず高校生以上の大人が付き添わなければならないという村の決まりがあったため、現実にはそのような面倒なことは避け、明日を待てば良いということになった。
 このときの洋平にも、付き添ってくれる者の当てがなかった。だからこそ、彼は必死に走っていたのである。
 それほどまでに、洋平が海水浴に拘ったのは言うまでもない。はっきりと約束した訳ではなかったが、昨日の別れ際の会話が心に重く残っていた。今日、小浜へ行くことを美鈴に言ったからには、一度口にしたことは守りたいという気持ちがあった。
 また行けなくなった事情を、後でいちいち弁解すること自体潔いとは思わなかったし、何より今日の機会を逃せば、この先美鈴に再び会えるという保証など何処にもなかったからである。
――とにかく、今日会っておかなければ……。
 その一念が洋平の心を奮い立たせ、残っているわずかな力を搾り出していたのである。
 ようやく集合場所が近づいて来た。
 噴出した汗が風に散って目に入り、滲みていた。その痛みと体力の消耗から、視界はずいぶんと狭まっていたが、かすかに見えた引率者の動きで、参加者の人数を確認しているのがわかった。
「おーい。おらも行く」
 洋平は走りながら二、三度叫んだ。それはおそらく、彼が思うほどには声になっていなかったと思うが、幸いにも、その場にいた誰かが気付いてくれて、何とか集合時間に間に合った。
「遅うなって、すみません」
 洋平は、とりあえずそれだけ言うと、両膝に手をあて、前屈みになって呼吸をした。
 もう限界だった。まっすぐに立っていることさえままならない状態で、とにかく顔を下げて深呼吸を繰り返していたため、美鈴が来ているかどうかさえもわからなかった。
 すぐに出発の合図があった。
 洋平はまだ息が整ってはいなかったが、何とか顔を上げた。すると、かすんだ視界の中に、ぼやけた美鈴の姿が浮かんでいた。
「大丈夫?」
 彼女は心配そうに声を掛けた。
「うん、大丈夫」
 洋平は、そう答えるのが精一杯だった。目の前を、まるで蛍の明滅のように、無数の光の点が飛んでは消え、消えてはまた飛ぶという有様で、眼球を薄い光の膜が覆っていた。

 やっとの思いで小浜に着いた。
 洋平は、まず律子の姿を探した。洋平の言うことを信じたのか、彼女は来ていなかった。
 胸を撫で下ろした洋平は、しばらく浜で休むことにした。東側の木陰まで行き、なだれ込むように腰を下ろし、仰向けになった。木陰とは言うものの、真夏の太陽の日差しは、幾重にも重なる葉をも通す容赦のないものだった。彼は、照り付ける熱を避けるため、両目を手で覆っていた。
「洋平君、大丈夫?」
 真上から美鈴の声が聞こえた。目を塞いでいた指を広げると、その隙間から自分を覗き込むようにしている彼女の姿が見えた。
「うん、大丈夫、大丈夫」
 そう言いながら、洋平が身体を起こすと、美鈴がすぐ横に腰を下ろした。横を向くと、彼女の顔がすぐそこにあった。
 昨日、少し赤みを帯びていた頬が、時間の経過とともに薄い小麦色に変わっていた。透き通るような白い肌よりも、健康的な今の方が彼女の顔立ちには似合っていた。
 美鈴は、時が経つにつれて、ますます輝きを増していっていた。洋平は、つい魅入ってしまいそうになる自分を押さえ、無言で立ち上がり海に入った。体力は、まだ充分に回復していなかったが、彼はそうせざるを得なかった。
 美鈴が近くに座ったことはとても嬉しかったが、休憩時間ならまだしも、いま浜に上がっているのは自分たち二人だけであり、皆の注目を浴びてしまうことが容易に想像できた。彼は、それを避けたかったのである。
 この時はまだ、時と場合によって、勇敢者の意気と小心者の羞恥心が交互に彼の心を支配するという不安定な状態だった。
 海に入った洋平は、つれない態度を取ったことで、彼女の気分を害したのではないか、と気を病んでいた。しかし、洋平の懸念は、次の休憩時間に払拭された。美鈴が再びやって来て、肩と肩が触れ合うほどの近くに座ってくれたのだ。
 洋平は、今度は立ち上がって逃げ出したり、離れたりはしなかった。
「遅かったね。待っていてもなかなか来ないから、止めたのかと思って心配したよ」
 美鈴は安堵の表情を見せていた。
「そいがね、十二時頃になって、お祖父ちゃんに用事を言い付かったんだが。間に合うかどうかわからんかったけんど、昨日約束したけん必死で走っただ」
「なーんだ。そうだったの。もし、洋平君が来なければ、私も行くのを止めようと思っていたの。そしたら洋平君が走って来たので嬉しかった」
 美鈴は立てた両膝に頬を当て、洋平を見つめた。洋平は、彼女の仕草に戸惑を隠せなかった。純朴な彼に、彼女の心の内を推し量ることができるはずもないのだ。
 思いあぐねる洋平をよそに、彼女が思わぬことを言った。
「ところで、洋平君ちって、恵比寿さんと言って、すごく大きいおうちなんだってね」
「えっ!」
 洋平は、彼女が恵比寿家のことを知っていることに驚いた。
「まあ、そげだけど。なんで知っちょうの?」
「昨日、お祖父ちゃんに話をしたの。私と同じくらいの年で、野田洋平君という男の子と話をしたって。そして、今日も一緒に泳ぎに行くって……。そしたら、お祖父ちゃんが、その子は恵比寿さんちの総領さんだって言ったの。私が総領さんってなに、って聞くと、土地や財産をいっぱい持っていたり、村の有力者だったりするおうちの跡継ぎのことだよって教えてくれた」
 洋平は美鈴の言葉に納得した。言われてみれば、同じ年頃の子供どころか、この村に『のだようへい』という名前の者は彼しかいなかった。もちろんのこと、大工屋のお爺さんは彼を知っている訳だから、たちどころに美鈴の耳に入っても、何ら不思議ではなかった。
 自分の素性が明らかになったことで、洋平の心は軽くなった。彼女の身の上を訊ねても、差しさわりがなくなったと意を強くした。
 洋平は、昨日より気に掛かっていたことを訊ねた。
「ねぇ、美鈴ちゃん。美鈴ちゃんは何年生?」
「私? 私は六年生。洋平君は?」
「おらも、おらも六年生!」
 洋平は叫ぶように言うと、続けざまに疑問をぶつけた。
「美鈴ちゃん、盆と正月にはいつも帰って来ちょうの」
「お正月は毎年帰って来るけど、お盆はたまにしか帰って来ないかなあ」
「でも、これまで一度も出会ちょらんね」
「お盆は、お墓参りと花火大会を見に行くだけだし、お正月は寒いからずっと家の中に居て、外へは滅多に出ないから……」
「そいで、一度も出会わんかったんか」
 洋平は得心したように頷いた。
 彼は、お盆の花火大会は家の屋根に上がって見物していたので、美鈴と出会える機会はお墓参りのときしかなかった。それとて、恵比寿と大工屋とでは、墓地への道が異なっていたので、そもそも墓地の石段ですれ違うという、奇跡のような偶然しか機会はなかったのである。
――昨日、彼女が集合場所にいたのは、何という幸運だったろう。
 洋平は、神に感謝したい気持ちだった。
「そんなら、なんで今年は早く帰って来ちょうの?」
「だって、大阪にいてもつまんないし……」
「えっ、大阪? 東京じゃないだか」
「大阪に引っ越したの」
 美鈴は、東京で生まれ育ったのだが、父親の仕事の関係で、夏休み前大阪に引越をしたばかりだった。何日か大阪に居たが、母親もパートに出始めたため、昼間は一人きりになった。あいにく、引っ越したばかりで友人もおらず、近所の人も大阪の街もよく知らないので、それなら、いっそのこと田舎に帰った方が安心だということになり、本人の希望もあって、三日前にやって来たのだった。
 二人は泳ぐことも忘れ、互いの身の上について熱く語り合った。それはまるで、ようやく巡り会った彦星と織姫が、思いのたけを吐き出すかのようであった。
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