鈴蛍

久遠

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 その日の午後、洋平と美鈴は『小瀬(こぜ)』という磯へ釣りに行くことになった。
 その頃は、魚を選り好みさえしなければ、湾のいたるところで釣りができた。遊びということで言えば、子供たちにとっては、それこそ岸壁に停留している船舶そのものが、最も近場で気軽に行ける格好の釣り場所だった。
 なぜなら、船内を洗浄した際の、海中に流れ出される小魚や、破損した魚の切り身などを目当てにして、様々な魚が集まっていたからである。小鰺や小鯖、カワハギ、鯔などに混じって、たまに海底を鮎魚女が回遊することもあった。
 しかも海中は透明度が高く、海底まで見通せたので、魚の当たりに合わせるといった高度な技術は必要なく、餌に食い付いたところを引き上げさえすれば良かった。船主たちは、余程の目に余る悪ささえしなければ、海の男に似つかわしい鷹揚さで船上を開放していた。
 二人は真昼の暑さを避け、十五時頃になって出かけた。
 小瀬は湾内の南側にある磯で、永楽寺を通り過ぎ、村中から外れ、小さな峠を一つ越えたところにあった。比較的水深が浅く、岩々が散在しており、カサゴやべらなどの雑魚はよく釣れたが、真鯛やチヌなどの高級魚は望むべくもなかった。そのため、大人たちがこの場所で釣りをすることはほとんど無く、水深の浅さという安全さもあって、専ら子供たちの釣り場となっていた。

 二人が小瀬に着くと先客がいた。同級生の寺本隆夫である。
 彼の姿を見た瞬間、ある懸念が過ぎった洋平は、この場所にやって来たことを悔やんだ。
 隆夫は、洋平が唯一気になる、言わばライバルのような存在だった。隆夫は、学校の成績は洋平に遠く及ばなかったが、身体が洋平より一回り大きく、運動は万能で、どんな種目でも一番だった。陸上競技から球技まで、ありとあらゆる種目で、洋平はどうしても彼に勝つことができず、いつも二番手に甘んじていた。
 町に六つあった小学校の対抗陸上大会には、毎年学年から洋平と隆夫が多くの種目の代表に選ばれたが、花形はいつも隆夫で、洋平は彼の露払いのような存在に過ぎなかった。
 隆夫は、はっきりとした目鼻立ちをしており、粗野ではあるが精悍さを持ち合わせていた。そのうえ、親分肌の気性で、皆を引きずっていく力があった。
 そうかと言って、他の者とたやすく馴れ合うようなこともなく、孤独を楽しむ一匹狼のようでもあった。この複雑で屈折した性格もまた、孤高の雰囲気を纏う彼の魅力の一つになっており、それが小学生とは思えない大人びた一面の要因にもなっていた。
 ありのままに言えば、洋平は隆夫に嫉妬していた。隆夫は女子には好かれ、男子からはある種の憧れを抱かれていた。小さな小学校なので、生徒の数は各学年とも一クラス四十名ほどずつしかおらず、必然的に二人は六年間同じクラスになったのだが、毎年学級委員長を決める際、一学期は洋平が選ばれ、二学期は必ず隆夫に白羽の矢が立った。成績は後ろの方だったが、それだけ人気があった。
 このことが、少なからず洋平に嫉妬心と劣等感を抱かせた。確かに、洋平は成績おいては常に一番だったが、一学期に学級委員長に選ばれるのは、多分に恵比寿家の総領という肩書きによるものだと思っていた。皆、自分個人ではなく、家柄に一目置いているのだと思っていたのだ。
 対して、隆夫は己自身の魅力で人気を勝ち取っていた。彼の小学生とは思えない逞しい肉体は、この漁業の村にあって、漁師として生き抜くために必要なものは何であるかを示していた。日本海という大自然を前にすれば、学校の知識など何ほどでもなく、ましてや家柄などでは断じてなかった。唯一、強靭な肉体と精神こそが、絶対条件であることを明白に物語っていたのである。
 洋平は、もし隆夫と同じ土俵に上がったならば、その人間的魅力において、遠く及ばない事を知っていた。だからこそ、彼が最も美鈴に会わせたくない男が、まさに目の前にいる隆夫だったのだ。

「よお、洋平。彼女連れとはやってくれるねえ」
 隆夫は二人を見るなり、挑発的な物言いをした。いつもの彼の調子である。
 洋平は腹立たしかったが、美鈴の手前、怒りを露にして狭量なところを見せることも、逆に全く無視したりする訳にもいかなかった。
 そうかと言って、まともに受け止めるのも馬鹿らしいので、そのことには触れずに、
「釣れたか?」
 と素っ気なく訊ねた。
「おお、ボッカを二十匹ほど釣ったがや」
 隆夫は、籠を二人に傾けながら自慢げに答えると、覗き込もうと近づいて行った彼女をまじまじと見つめ、確かめるような言葉を掛けた。
「あれ、美鈴じゃないかい? 美鈴じゃろ」
 洋平は、その口調に愕然となった。間違いなく親しみの色を帯びていたからだ。
「隆夫……君なの?」
 美鈴も隆夫を知っていた。そのお互いにただ知り合いという感じではなく、自分と彼女の間とは全く異なる、親近感に満ちた話振りは、洋平に失望と混乱を齎した。
――何ということだ。せっかく彼女とここまで親しくなったというのに……まさか、一瞬にして隆夫に追い越されてしまったのか?
 洋平は、隆夫の姿を見たときの懸念が、現実のものとなって行くことに不条理を感じていた。そして、自分をこのような心境に追い込んだ理由を知りたくなった。
「二人は知り合いけえ?」
「おお、大工屋の爺さんとおらの死んだ祖母ちゃんとは『兄妹』じゃけん。つまり、おらの親父と美鈴の親父は『従兄弟』、おらたちは『はとこ』、ということになるだが」
 日頃、口の重い隆夫にしては、珍しくもすらすらと説明をした。
――なるほど二人は親戚なのか……。
 事情は飲み込めたが、見るからに優越感に浸った隆夫の表情は、洋平の失望感をいっそう増幅させた。
 隆夫は、まるで洋平の心情を読み取っているのかのように、ますます饒舌になった。
「親父が生きちょったときは、盆や正月にはいつも遊びに来ちょったな。でも、わいはなんで今頃帰って来ちょるんだ?」
「ちょっとね……」
「一人で帰って来ただか?」
「……」
「そんで、何でわいたちが一緒なんだ?」
 隆夫は、畳み掛けるように訊ねてきた。
「まあ、どげ言うか……小浜で出会って……あれだ、釣りに行こうかということになったんだが……」
 洋平は、戸惑いを見せる美鈴に代わって答えようとしたが、結局のところ、彼も要領を得た返事をすることができなかった。
 初めて見た洋平のうろたえた様子に、隆夫は『ここぞ』と思ったのだろう、とうとう当て付けがましく、洋平の立ち入れない昔話まで持ち出した。
「なあ、美鈴。わいは小さい頃、うちに遊びに来ると、おらの傍をちっとも離れんかったなあ。大きくなったらおらの嫁さんになると言って、いつもおらの後を付いて来ちょった。両方の親も、将来おらたちを一緒にするつもりだったがや。わい、覚えちょうか」
 眼前の磯に脳天を打ちつけられたような衝撃が洋平を襲った。引き潮のように、全身から血の気が引いていくのがわかるほどだった。
 美鈴は恥じらうように俯いてしまった。その様子で、隆夫の言葉が事実であることを悟った洋平は、凍り付いた心に矢を射られたような痛みを感じた。
 真夏にもかかわらず、鳥肌が立つほどの寒々とした空気が洋平を取り巻いていた。後悔などと言う言葉ではとても言い表せないほど、完膚なきまでに打ちのめされていたのである。
 すると、洋平の顔色を見定めた隆夫は、
「まあ、どうでもええことやったけんどな。さて、おらは十分釣ったし、これから畑仕事があるけん先に帰るわ」
 まるで目的を達成したかのように、満足な表情を浮かべ、
 しかも、
「これ以上、洋平の邪魔をしちゃあ悪いけんな」
 と止めを刺すかのような皮肉も忘れずに立ち去った。
 洋平は、隆夫の仕打ちに怒る気力も湧かないほどに憔悴していた。たとえそれが、年端も行かぬ頃の、他愛のない告白であったとしても、すでに初恋という海原に、とっぷりと首まで浸かっていた彼であれば、深手を負わせるには充分な事実だったのである。
 しかしながら、負け犬のように、尻尾を巻いてこの場から逃げ出すこともできない。洋平は爪の先ほどしか残っていないわずかな気力を振り絞り、何事もなかったような素振りで言った。
「ああ、びっくりした。まさか隆夫と美鈴ちゃんが親戚だなんて知らんかった」
「でも、最後に会ったのは二年生のときだし、隆夫君、その頃とずいぶん変わっていたから、最初わからなかった」
「そ、そげか……」
 洋平は言葉を継ぐことができず、それっきり、二人の間に会話がなくなった。
 楽しいはずの釣りが、一転して重苦しい雰囲気に包まれていた。
 それはひとえに、洋平の失意と猜疑心によるものであり、美鈴も彼の心中を敏感に感じ取っていたに違いなかった。
 それでも、洋平に一つの救いがあったのは、このとき彼が本能的に、
『ここがおらの正念場だ』
 と感じ取っていたことだろう。以前の彼ならば、このような難局に直面したとき、頑なに心を閉ざして、嵐が過ぎ去るのを待つか、あるいは言い訳を取り繕って、さっさと逃げ出していたに違いなかった。
 彼の心をその場に繋ぎ止め、試練と向き合わせていたのは、まさしく美鈴への恋心に他ならなかった。
「じゃあ、釣ろうか」
 洋平は澱んだ空気を変えようと、精一杯の作り笑いを浮かべて言った。

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