鈴蛍

久遠

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 その日の夕方、二人はウメに連れられて村の北東にある畑へ行った。この時期、ウメは真昼の暑い時間帯を避け、早朝か夕方を選んで畑仕事に出掛けていた。
 途中までは、小浜への道を辿って行き、小浜の少し手前で山道に入り、しばらく分け入ったところに恵比寿家の畑があった。
 そこは丘の斜面を開墾したものだったので、下方の比較的なだらかな斜面を畑として使用し、上方には蜜柑の木を三十本ばかり植えていた。南向きで日当たりも良く、毎年かなりの収穫があった。
 夏時分の畑では、西瓜はもちろんのこと、きゅうりやたまねぎ、トマトやなす、そして瓜などが採れた。ウメは、捥ぎりたてのそれらを、傍らを流れる小川で洗い、二人に食べさせた。とくに、瓜は『金瓜(きんうり)』といって、熟れると皮が黄色になり、メロンのような味は絶品だった。
 洋平と美鈴は段々畑に腰を下ろし、美保浦湾を眺めながらそれらを食した。
 眼下には、木々の隙間から小浜のブイが見え隠れし、遠く視線を対岸にやれば、二人で初めて磯釣りをした小瀬を望むことができた。
 小瀬の右手には永楽寺の姿があった。本堂と、大日如来を特別に祭った大日堂が並立していた。この小さな村には不釣合いなほどに壮麗な二つのお堂は、村の人々の信心深さを表すのに不足はなかった。
 さらに視線を右にやると、数人の漁師たちが慌しく漁へ出る支度をしている様子が目に入った。ちょうど、二艘のやや小型の船のエンジンが掛かり、艫綱が外されて岸壁を離れ出したところだった。
 この二艘の小型船は、探索船といって他の船に先んじて海に出て、魚の群れや種類を探知機で特定し、情報を無線で漁港に知らせる役目の船である。次いで、獲物に合う網を積んだ本隊の船団が出港し、最後に獲物を積載し、境港に水揚げするための母船が出港するのである。
 二人が注視する中、二艘の探索戦は、鮮やかな白い波しぶきを上げ、綺麗な幾何学模様の波を作りながら、日本海の大海原に乗り出していった。

「鈴ちゃん、あの頂上まで行ってみょいや」
 探索船が視界から消えると、洋平は翻って、丘の頂上を指差しながら美鈴を誘った。
「良いけど、あの頂上に何があるの?」
 怪訝そうに訊いた彼女に、洋平は意味深げに言葉を重ねた。
「行ってみればわかるけん、絶対に来て良かったって思うけん、行かい」
「そこまで言うなら、行ってみるけど……」
 美鈴は乗り気のない様子だったが、洋平の強い催促に渋々承諾した。
「お祖母ちゃん、鈴ちゃんと頂上に行って来るけん」
 洋平はそう言い残し、東に迂回しているなだらかな道を進んだ。畑の脇にも道があり、距離的には断然近かったが、急斜面で足腰にかなりの負担が掛かるうえに、多少の危険もあった。洋平は美鈴に配慮し、遠回りにはなるが、安全な道を選んだのだった。
 歩き始めてまもなくだった。
「ねえ、洋君……」
 呼び止める声に、洋平が後ろを振り返ると、美鈴が右手を差し出した。桜貝を散りばめたような指先が、洋平の目に向って伸びていた。
「洋君、引っ張って」
 洋平は一瞬たじろいだ。彼はこれまで、自らの意思で女の子の手に触れることなどなかった。まだ、それほどの道のりを歩いた訳でもなく、とうてい彼女が疲れているとは思えなかった。
 それが、あまり乗り気ではなかったため、駄々を捏ねてのものなのか、あるいは別の意図があってのものなのかはわからないが、いずれにせよ、洋平には簡単な行為ではなかった。
 だが、平然と手を出している美鈴を見ていると、照れたりする方が却って不自然に思われ、何気ない振りで彼女の手を取った。
 初めて繋いだその指はあまりに細かった。
 一緒に勉強をしているときに、見慣れていたはずだったが、実際に握ってみて、あまりの華奢な指に、力を入れると、折り紙のように壊れてしまうのではないかと、錯覚するほどだった。洋平の手には、今もそのときの儚い感触が残っている。
 頂上に近づくにつれて、二人の眼前に、空を押し上げるようにして日本海が悠然とその姿を現してきた。ちょうど、先ほどの二艘の探索船が左右に分かれて、走り始めたところだった。
 頂上の東端に立って対峙した大自然の眺望たるや圧巻の一言だった。
 南東の方角に美保浦の村落を望み、東に向かって美保浦湾が広がっている。この湾の波は、やがて日本海のそれと連なっていて、遠く水平線上の彼方に到っては、雲一つ無い空との境界線が識別しかねた。
 そこから左手の北方に視線をやると、遠い波の上に、うっすらと陽炎のように隠岐諸島が浮かんでいる。稀に、外洋遠く異国船が霧笛を鳴らしながら通る様は、まさに映画のワン・シーンのようであった。
 広大な海面は、陽光を反射して無数のダイヤの輝きを放ち、それが夕焼けともなり、一面黄金の煌めきに変わって行く様は例えようもなく壮大、且つ優美だった。
「うわあー。すごくきれい」
 美鈴は、圧倒的な大自然が織り成す美の極致に感動の声を上げた。
「すごいだあが。登って来て良かっただあが」
 洋平は、神に授かったこの絶景が、まるで自分の所有物のように自慢げに言った。

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