鈴蛍

久遠

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 夜の気配と共に美鈴が訪れた。
 夜空に浮かぶ星の数は、両手で足りるほどだったが、幸いにも雨は落ちておらず、花火大会は予定通りの運びとなっていた。洋平は、一刻を争う事態に、いまさらながら自転車が調達できなかったことを悔やんだ。
 ところが、その痛手は思わぬ形で手当てがなされた。
 二人は降雨のことを考えて、少し早めに冒険計画の遂行に移った。
「お母ちゃん、鈴ちゃんと花火を見に行ってくるけん」
 洋平は何食わぬ顔で言った。
「おや、今年は屋根に上がらんだか?」
 母の問いは想定していた。
「鈴ちゃんがおるけん。危ないことはしない」
「そげだな、その方がええ。だいてが早くないかい」
 当然の指摘にも、洋平は言い訳を用意していた。
「早めに言って、良い場所を取るけん」
「そげか、そげか。そいなら、気を付けや」
 優しい里恵の声に、洋平は心に痛みを覚えずにはいられなかった。
 二人は、いとこたちにも十分注意を払った。美鈴に興味を抱いている彼らの目を盗むことは、ある意味で最大の難関かもしれなかった。誰か一人にでも興味を抱かれれば、全てがご破算になってしまいかねないのだ。
 二人は彼らの行動に神経を尖らせながら、首尾良く門を出た。
「洋君、これ」
 その直後、美鈴が指差した先に自転車があった。しかも車体の低い子供用である。
「これ、どうしたの」
 洋平の声が思わず裏返った。
「うちの親戚から借りてきたの、どう、これで良い?」
「もちろん、ええよ。鈴ちゃん、だんだん、だんだん」
 洋平の胸は熱くなった。時間との争いに役立つということもあったが、それよりもまして、彼女の心遣いが嬉しかった。
 とはいえ、喜びに浸っている暇はなかった。冒険は、たった今始まったばかりで、しかも天敵の雨はすぐそこまで迫っているのだ。
 二人は海岸を背にして進み、屋敷の裏手に回った。裏門は鍵が外れたままになっていた。
 納屋に入り、着替えを始めた。
「洋君、あっちを向いていて。絶対、良いって言うまでこっちを向かないでね」
「わかっちょうけん」
 美鈴の懸念など全く意識の外にあった洋平だったが、その一言で却って邪な衝動に駆られてしまった。
 一瞬、美鈴の目を盗んで振り向きそうになったが、
――駄目だ、駄目だ。今はこの計画を遂行することに集中しよう。
 と雑念を振り払った。

 二人は、笹竹切りと同じ出で立ちになり、自転車に乗って出発した。
 ほどなく墓地の裾野に入った。砂利道なので、車輪がくぼ地を通る度に振動でヘッドライドが点滅した。
 美鈴は洋平の背中にしがみついていた。それが振動のせいなのか、それとも暗闇の恐怖のせいなのかはわからない。洋平もまた必死の思いだったので、彼女の身体の温もりを背中に感じる余裕などなかった。
 墓地の裾野を過ぎると、小学校までは池の横を通る一本道となった。
 ここまで誰一人として出会うことがなく、見咎められずに済んだ。たまに宴会の歓声が漏れ聞こえるだけだった。怪しい空模様に、皆が家の中で様子見をしていたことが幸いしていた。
 小学校に着いた二人は、そのまま正門から入り校庭の中を体育館まで一気に走り抜けた。体育館の傍らにはポンプ式の井戸があった。
 二人は井戸端に自転車を置き、冷たい水で渇いた喉を潤した。
 洋平が何気に振り向くと、そこには一つだけ点った裸電球の灯りに、木造の校舎がまるで廃屋のように浮かび上がっていた。
 美鈴は風に叩かれ、悲鳴を上げる窓硝子にたじろいだが、洋平はしばしば友人と共に校舎に宿泊していたので、その際の肝試しの体験からこの種の恐怖には慣れていた。 
 彼が真に恐怖と感じるのは、休日に皆が遊んでいるものと思い込んでやって来たものの、誰一人として姿がなく、深閑とした広い校庭に一人だけ取り残されてしまった孤独感だった。
 ところが、体育館の裏手を通り、田んぼのあぜ道に一歩足を踏み入れた途端、まるで別世界にワープしたかのように空気が一変した。その五感に受ける寒々とした感触は、これまでとは比べようもない恐怖心との戦いが待ち受けていることを洋平に予感させた。数日前、笹竹を切りに行ったときと同じ道なのだが、昼と夜とでは、その趣は全く異なっていた。

 雲の流れに、明暗が去来していた。
 月が顔を覗かせているときは、薄明かりに周囲が何となくわかったが、雲に隠れて全くの暗闇になると、懐中電灯の光が一部分だけをくっきりと照らし出すという、異様な空間となった。
 辺りに民家の灯りなどあるはずもなく、深々とした闇夜に、蛙の鳴き声が響き渡っていた。遠く山の方で風にたなびく木々の音は、山奥を住処とする悪鬼羅刹の類か、あるいはあの世からの警告のように聞こえていた。
 昼間は、小鳥のさえずりのように心地良い小川のせせらぎさえも、今は地獄へと引きずり込もうとする、下心を押し隠した悪霊の猫なで声のようにも聞こえ、これらがこの闇を一層不気味なものにした。
「はあ……」
 思わず洋平の口から溜息が出る。
 美鈴はそっと洋平の手を握った。その温もりは洋平に勇気を与えた。
「鈴ちゃん、行こう」
 二人はゆっくりと歩き出した。
 歩みを進める先々で、眠りの邪魔をする気配に反応した、何者かの蠢く様子が伝わってきた。水辺の飛び込む音、山側での草を踏みしめる音……。その度に懐中電灯を向けるが、彼らの正体を見定めることができず、気味悪さだけが増幅していった。
 中でも水の上を滑る音は、蛇が泳いでいることを想像させ、鳥肌が立つほどだった。
 多くの敵に囲まれながら、何一つとして自分の目で捉えることができず、一方的な監視の中を進まねばならなかった。そのため、わずか三百メートルほどの道のりだというのに、洋平には果てしない暗黒の世界を突き進んでいるように思えてならなかった。
 この圧倒的な恐怖の前に、洋平は熱の汗とも、冷や汗とも区別の付かぬものを掻いていた。その肌を伝う汗に、雨を誘う湿気を含んだ生暖かい風が絡みつき、いっそう不快さを増した。
 一瞬、洋平は計らずも二人だけでやって来たことを後悔した。しかし、いまさら引き返すことはできなかった。それは美鈴に対する見栄ということだけでなく、すでに彼自身の問題に転化していたからである。
 洋平には、この場所にやって来て、腑に落ちたことがあった。
 隆夫の怪我を知ったとき、美鈴と二人だけの蛍狩りに拘った理由が、ようやくわかった気がしていた。彼は無意識のうちに、この冒険を己自身の試金石と捉えていたのだ。恵比寿家とは関わりのないこの冒険で、一己の人間として自らを試そうとしていたのである。
 したがって、もしここで引き返せば、彼はこの先自分自身の力のみでは、何事も乗り越えることができなくなるのではないか、という漠然とした未来への恐怖を感じていた。
 洋平は、内面から沸き起こるもう一つの恐怖を払拭するためにも、今対峙している自然の恐怖に打ち勝たなければならなかったのである。
 いつしか、美鈴が洋平の腕にしがみついていた。
「鈴ちゃん、大丈夫? 怖くない」
 洋平は、自身の葛藤の中で訊ねた。
「怖いけど、洋君と一緒だから……」
 美鈴は、洋平の腕を一段と強く締め付けた。彼女の手に触れて伝わった温もりが、洋平の挫けそうになる気持ちを奮い立たせた。

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