鈴蛍

久遠

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第十六章 精霊船(しゃーらぶね)流し(1)

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 人の世とは、実に理不尽なものである。
 否が応でも必ず時は刻まれ、日は去り行き、季節は巡る。それは、時として人の心を癒すこともあるが、そうでないこともある。
 それから半年が経ち、また灼熱の夏がやって来た。
 美鈴の幻影が鮮烈に甦る夏休みである。彼女と一緒に過ごした日々が、洋平の脳を勝手に駆け巡り、いちいち記憶を呼び起した。彼女の面影が浮かび上がる度に、素手で心臓を鷲掴にされたかのような痛みが奔る。
 洋平は心の中から美鈴を消し去ろうとした。だが、その都度罪悪感に苛まれた。彼女のことを忘れ果てる行為は背信であり、純粋な精神を裏切る行為だ、と責め立てるもう一人の自分がいて、ジレンマに陥るのである。

 洋平は、大工屋から美鈴の初盆に呼ばれていた。
 呼ばれずして参列しても一様に感謝される葬儀とは異なり、本来であれば、初盆には親戚筋しか回向しないものである。
 洋平は縁者ではないので、当然場違いであったが、美鈴の両親のたっての要望と、重宝なもので恵比寿家の総領という立場が、それほどの違和感もなく彼をその場に居させた。
 美保浦に縁の薄い親戚の中には、怪訝な表情をする者もいたが、それとて当主である万太郎の、洋平に接する態度を目の当たりした後は一切なくなった。
 洋平は、美鈴の仏壇に向かって正座をした。テーブルの上に曼荼羅を描いた金色の布地を敷いて作られた臨時の仏壇である。
 真っ先に遺影が目に入った洋平は、不覚にも胸を詰まらせてしまった。涙は流すまいと心に決めていた彼だったが、昨年の夏、事あるごとに撮っておいた写真の一枚を見て堪らなくなったのである。
 洋平は、唇を噛み締めながら、視線を遺影から中央の位牌に移した。
『桜光美優大姉』
 と文字が刻んであった。
 さしずめ、『陽の光に映える桜の花のように、美しく心優しい少女』という意味なのだろう。洋平は、彼女に相応しい戒名だと小さく頷いた。
 仏壇の両側には、三対の飾り盆提灯が並んでおり、花や星などの模様が回転している。それはまるで、洋平の脳裏に去来する彼女との思い出のように、浮かんでは消え、消えては浮かび上がっていた。
 飾り盆提灯の横に、美鈴の精霊舟が横たわっていた。おそらく、万太郎爺さんが可愛い孫娘のために、精魂込めて造ったのであろう。素人の洋平にも、これまでに見た精霊舟の中では、最も立派で精巧な造りであることが容易に看て取れた。
 一尋よりやや大きめで、骨組みは檜、側面は杉板を用いてあった。舟の中央にはマストに見立てた丸棒が立ててあり、その頂点より、舳先と艫にそれぞれ紐が伸びている。紐には、永楽寺から持ち帰った経文が書いてある十数枚の短冊が帆に見立てて飾り付けられていた。
 この短冊は、永楽寺での初盆会の合同供養の際、住職の読経の終了と同時に、本堂に吊るしてあるそれらを、出席していた家族、親族で奪い合いの末、持ち帰ったものである。
 故人のために、一枚でも多くの短冊を飾り付けたいと願う者たちが、身体を張ったため、度々怪我人が出たり、せっかくの有難い短冊が破損したりしたため、後年には初盆を迎えた各家に、公平に分配されることになった。
 精霊舟には、すでに木製の仮位牌と遺影代わりの小さな写真が入れてあった。
 洋平は、線香に火を点し、両手を合わせて拝んだ。
――鈴ちゃん、迷わずにちゃんと戻って来ている? 今年も、うちの庭に蛍が飛んでいるけんど、あの中に鈴ちゃんはいるのかな……。
 今年の夏も恵比寿家の庭に蛍を見つけていた洋平は、手紙にあった美鈴の言葉を思い出していた。
 これからの長い人生、お盆にお墓参りをする度に、あるいは庭で蛍を見つける度に、彼女のことを思い出すのであろうかと洋平は思った。もちろん、美鈴の遺言とも言える願いに応えるためにも、思い出すことはいっこうに構わない。いや、思い出したいのかもしれない。  
 だが、いつになればこの悲しみは消えるのだろう。悲しみが消え失せ、美しく懐かしい思い出に昇華するまでには、いったいどれだけの時を待てば良いというのだろうか。洋平は、この深くて計り知れない悲しみが、心の襞にこびり付いて永遠に拭い去れないのではないかとすら思えてならなかった。
 洋平は、彼女の前を去り、皆が酒を酌み交わしている場から離れたところに座った。彼らを責めるつもりなど毛頭ないが、とうてい談笑する座の中に入る気分にはなれなかった。
 すると、思いを同じくする人が彼に近づいて来た。
「洋平君。今日はご苦労様。本当にありがとうね」
 美鈴の母の美津子だった。
「まあ、一年経つとこれだけ大きくなるのね」
 驚きの顔の中に垣間見えた寂しげな表情が洋平の胸を打った。きっと、今は亡き愛娘を照らし合わせているに違いなかった。
 美津子が驚くのも無理はなかった。洋平はこの一年で、身長が十センチ以上も伸びていた。彼にしても、美鈴が生きていれば、きっと追い越していたであろう伸びた背に、虚しい時の流れを感じずにはいられなかった。
「洋平君も、是非美鈴の精霊舟流しに一緒して下さいね」
「はい」
 もとより、洋平は乗船を願い出るつもりだった。
 それからしばらくの間、美津子は大阪に戻った美鈴の様子を詳しく話した。
 洋平は、ただ黙って聞いていた。
 本音を言えば、洋平は耳にしたくなかった。いまさら彼女の様子を知ったところで、新たな悲しみを生むだけのことだからである。
 だがその一方で、少しでも美鈴の真実に触れることが、彼女への供養であり、己の使命でもあるという思いに至っていたのも事実だった。いや何よりも、洋平は一生懸命に愛娘の話をする美津子に対して、贖罪の気持ちがあった。
 彼は美鈴の両親に、大きな負い目を感じていた。
『昨年の夏、自分の取った行動が美鈴を死へと追い詰めたのではないか』
 という罪の意識を抱き続けていた。
 時にはそれが高じて、
『自分たちは出逢うべきではなかった』
 と運命すら呪うほどに見境がなくなってしまうことさえあった。
 洋平は、美津子の話を聞いている間、己の責任を問うべきか否か迷い続けていた。自分を恨んではいないか、彼女の本心が知りたかった。
 洋平は勇気を振り絞った。
「おばさん。一つお聞きしたいことがあるのですが」
「あらたまって、なにかしら」
「僕が、その、僕が美鈴さんの死を早めたのではないでしょうか」
「どういうことかしら?」
「昨年の夏休み、僕が、僕が彼女をあちこちに引っ張り出したのが原因で……、その、あの、は、発症を早めたのではないでしょうか」
 洋平は恐る恐る訊いた。
 彼の苦悩を察した美津子は、
「何を言っているの、洋平君。発症は止むを得ない運命だったのよ。手紙にも書いたように、美鈴本人も私たち夫婦も、洋平君にはとても感謝しているのよ」
 と叱咤するように言った。
「でも、安静に養生していれば、発症を遅らせたかもしれないと思うと、僕は、僕は……」
 洋平が思わず言葉を詰まらせる。
「まあ、かわいそうに。洋平君はずっと苦しんでいたのね」
 美津子は洋平の身体を抱きしめ、震える背を擦った。彼女の温もりに、洋平は美鈴を感じた。だが、それを以ってしても彼の心の闇を晴らすことはできなかった。
 洋平は、この先も心に十字架を背負って生きて行かねばならず、それを完全に払拭することができたのは、ずいぶんと長い年月を経た後だった。
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