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2 笑うと美人が加速する
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結局昨晩は追い返された。
なぜエレノアが怒りだしたのか分からない。このオレに迫られて喜ばない女がいるのだろうか。理解不能だ。
第一、面と向かって愛していないと言われるなんて思いもよらなかった。
顔を合わせるのが億劫で、朝食は部屋で取った。
「ヒース、早くこっちへいらっしゃい」
ベッドに横たわりながら、「何をもったいぶっているの」とリリアは言うが、その甘ったるい声色は少しも魅力に感じない。
かつてあれほど美しいと思ったこの女は、今はただの年増にしか見えなかった。
第一呼んでもいないのに毎日オレの部屋に通って来やがって。
独身ならともかく、今のオレは人の旦那だ。エレノアが屋敷の案内をされており、ここにくる心配がないのが幸いだが、当然ながら不倫である。
「なあリリア」
鏡を見ながらオレは言った。
「なあに?」
「どうすれば女は喜ぶんだ?」
リリアの顔が綻ぶ。
「今まではどうしていたの?」
「さあ、喜ばせようと思ったことがない」
エレノアの顔を思い浮かべながらオレは答えた。どうやったらあの鉄仮面を破顔させられるのだろうか。
「じゃあ初めてわたしを喜ばせたいと思ったのね」
「お前を?」
驚いて振り返った。
「誰がお前だと言ったんだ?」喜ばせたくもない女が勘違いしているのは不愉快だった。
扉が叩かれたのはリリアが叫んだのとちょうど同じだった。
「最低の男だわ。人間失格よ!」
「ヒース様、いらっしゃいますか。昨晩のことを、謝ろうと思って」
オレが素っ裸のリリアに平手打ちされたのと、エレノアが扉を開いたのは、ちょうど同じだった。
――違うんだ!
叫びそうになるのを押しとどめたのは好きでもない女にへりくだってたまるかというプライドだけで、でなければ即座弁明しただろう。
オレはリリアなんて好きではない。オレが口説き落としたいのは、エレノア、君だけだ。と。
だがそれを伝えることはついに叶わない。すっと冷たい目になると、エレノアは黙って去ってしまったからだ。
*
まずいぞ、ヒース。
リリアを追い出した後で、オレは鏡に話しかけた。
「どうにかするんだ、ヒース。お前、王家を追い出される前は、それなりに秀才でやっていただろう?」
このままではエレノアはウィリアムへの未練を断ち切れず、毒を盛ってしまう。そうしたら、このオレは死んでしまう。
二度と死んでなるものか。
首に向かって降ってきたあの刃を思い出す。ぞっとする。首の皮を切る、冷たい金属。あらがいようがなく、死が訪れた。
生きるためには彼女の心をオレに向けさせなければなるまいが、新婚早々不倫を目撃されては、百年の愛も溶けてなくなるというものだ。
どうにかせねば。
どうにか――。
だが結局、大した案も浮かばないまま、夜になった。
「ヒース様」
さすがに夕食くらいは一緒にとらねばと思い同席すると、あろうことか彼女の方から話しかけてきた。
前にはなかった展開だと思ったが、そもそも、一緒に夕食をとってもいなかったことを思い出す。かつてのオレは孤高の男なのだった。
「ヒース様、お話したいことがあるのです」
顔を上げると、結婚式と同じく無表情の彼女がいた。怒っているのか、悲しんでいるのか、それともこれが平常なのか、鉄面皮の下の本心はまるで読み取れない。
だが、相変わらず顔立ちは整っている。
氷像のように冷たい態度でなければ、言い寄ってくる男は多いのではないか。
それなのに、なぜよりにもよってウィリアムなんぞに入れ込むのだろう。オレの方が遙かにいい男であるというのに。
「話すことはない」
「ですが大切なことですわ」
「大したことじゃない」
浮気を問い詰められたくはない。毅然とした態度でオレは言う。
「オレのプライベートなことで、君が気にする話でもない」
「ですがヒース様」
「差し出がましいぞ。何様のつもりだ、君には関係ないことだ!」
「家のことです! リリア様とのことではございません!」
きっぱりと言い切ったエレノアに、少しは嫉妬を覚えてもよいのではないかと内心寂しい思いを抱えたが、おくびにも出さずにオレは彼女を見つめた。彼女もまた、まっすぐにオレの目を見て言った。
「お金が不正に使われています」
「――金?」
予期せぬ話に、動揺してしまう。
「今日、事業の帳簿を見させていただきました」
「勝手に何を」
「ほんの少しですわ。それに、あなたの事業で得た財は、これから先は、わたくしの財産でもあるのです。見るのはおかしなことではございませんわ」
それで、と彼女は言う。
「勘定が合わない部分があります」
「思い違いだろう」
「いつも誰に会計を任せているんです?」
「共同経営者だが……」
リリアの夫だった。
「……まさか、そいつが不正を働いているのか」
「可能性はあると思います。他の帳簿も見るべきかと。それを申し上げたかったのです」
だがオレは渋る。
「金勘定は苦手だ。だから信頼できる人間に任せているんだ」
「では、わたしが見ましょう」
少なからず驚いた。
彼女は貴族の令嬢で、貴族の令嬢と言えば、頭に花が沸いているかのようにふわふわしていて、そんな能力があるとも思えなかった。
だが彼女は、かしこそうな瞳で見つめ返す。
「こういったことは得意なのです」
*
翌朝目覚め、気に掛かり、書斎に行って仰天した。
エレノアが、起きて机に向かっていたからだ。昨晩寝る前に見た姿と一緒だった。
「一晩中起きていたのか?」
「はい、やっと今終わりました。やりがいのある仕事でしたわ」
彼女の前には、山のような書類が積み上げられていた。
「やっぱり不正が行われているようです。問い詰めに参りましょう」
今まで一度も見せたことのない極上の笑顔で、彼女はそう言った。
信頼していた仕事のパートナーは、つめよるとあっけなく吐いた。
オレが金に疎いと見抜き、今までも相当な金額を懐に入れていたらしい。リリアをけしかけたのも、作戦の一環だったのかもしれない。
ここまでこけにされると、怒りさえ沸かなかった。
だがそいつと今まで通り組むことはできない。
事業はオレ一人でになっていかねばならなかった。
「ではわたしが、パートナーになりますわ」
そいつを訪ねた帰りの馬車で、エレノアがおずおずと言った。
「君が?」
「学校で政治と経済学を履修していました。評価は『優良』です」
そのスミレ色の瞳は、今まで見たこともないほど輝いていた。
変な女だった。
浮いた言葉では喜ばず、仕事に熱意を燃やすとは。
確かに一晩であの量の帳簿をいなしてしまったし、彼女の能力は認めざるを得ない。
黙っていると、肯定と受け取ったのかエレノアは嬉しそうにはにかんだ。笑うと美人が加速するな、とオレはただそれだけ思った。
「貴族の令嬢というものは、頭が空っぽで、ただ男の気を引くことだけに幸福を感じている能なし者だとばかり思っていた。君のようなタイプは初めてだ」
「男性を立て、従える女性が一番かしこいのですわ、ヒース様。そういう女性が、本当は素晴らしいのです」
「君はそうじゃないな」
オレはむっつりと言った。
せまい馬車で、彼女の華奢さばかりが気になる。揺れる度に、押しつぶしてしまいそうだった。
「妻としては無能でも、仕事の相棒としては優秀だと思いますわ」
「別に、君を無能だとは思っていない。今まで見たこともないほどに、優れた女性だ」
思わず出た言葉に、エレノアは驚いたような顔をしたし、オレ自身さえ驚いていた。
なんてこった、オレは彼女を褒めたのか?
なぜエレノアが怒りだしたのか分からない。このオレに迫られて喜ばない女がいるのだろうか。理解不能だ。
第一、面と向かって愛していないと言われるなんて思いもよらなかった。
顔を合わせるのが億劫で、朝食は部屋で取った。
「ヒース、早くこっちへいらっしゃい」
ベッドに横たわりながら、「何をもったいぶっているの」とリリアは言うが、その甘ったるい声色は少しも魅力に感じない。
かつてあれほど美しいと思ったこの女は、今はただの年増にしか見えなかった。
第一呼んでもいないのに毎日オレの部屋に通って来やがって。
独身ならともかく、今のオレは人の旦那だ。エレノアが屋敷の案内をされており、ここにくる心配がないのが幸いだが、当然ながら不倫である。
「なあリリア」
鏡を見ながらオレは言った。
「なあに?」
「どうすれば女は喜ぶんだ?」
リリアの顔が綻ぶ。
「今まではどうしていたの?」
「さあ、喜ばせようと思ったことがない」
エレノアの顔を思い浮かべながらオレは答えた。どうやったらあの鉄仮面を破顔させられるのだろうか。
「じゃあ初めてわたしを喜ばせたいと思ったのね」
「お前を?」
驚いて振り返った。
「誰がお前だと言ったんだ?」喜ばせたくもない女が勘違いしているのは不愉快だった。
扉が叩かれたのはリリアが叫んだのとちょうど同じだった。
「最低の男だわ。人間失格よ!」
「ヒース様、いらっしゃいますか。昨晩のことを、謝ろうと思って」
オレが素っ裸のリリアに平手打ちされたのと、エレノアが扉を開いたのは、ちょうど同じだった。
――違うんだ!
叫びそうになるのを押しとどめたのは好きでもない女にへりくだってたまるかというプライドだけで、でなければ即座弁明しただろう。
オレはリリアなんて好きではない。オレが口説き落としたいのは、エレノア、君だけだ。と。
だがそれを伝えることはついに叶わない。すっと冷たい目になると、エレノアは黙って去ってしまったからだ。
*
まずいぞ、ヒース。
リリアを追い出した後で、オレは鏡に話しかけた。
「どうにかするんだ、ヒース。お前、王家を追い出される前は、それなりに秀才でやっていただろう?」
このままではエレノアはウィリアムへの未練を断ち切れず、毒を盛ってしまう。そうしたら、このオレは死んでしまう。
二度と死んでなるものか。
首に向かって降ってきたあの刃を思い出す。ぞっとする。首の皮を切る、冷たい金属。あらがいようがなく、死が訪れた。
生きるためには彼女の心をオレに向けさせなければなるまいが、新婚早々不倫を目撃されては、百年の愛も溶けてなくなるというものだ。
どうにかせねば。
どうにか――。
だが結局、大した案も浮かばないまま、夜になった。
「ヒース様」
さすがに夕食くらいは一緒にとらねばと思い同席すると、あろうことか彼女の方から話しかけてきた。
前にはなかった展開だと思ったが、そもそも、一緒に夕食をとってもいなかったことを思い出す。かつてのオレは孤高の男なのだった。
「ヒース様、お話したいことがあるのです」
顔を上げると、結婚式と同じく無表情の彼女がいた。怒っているのか、悲しんでいるのか、それともこれが平常なのか、鉄面皮の下の本心はまるで読み取れない。
だが、相変わらず顔立ちは整っている。
氷像のように冷たい態度でなければ、言い寄ってくる男は多いのではないか。
それなのに、なぜよりにもよってウィリアムなんぞに入れ込むのだろう。オレの方が遙かにいい男であるというのに。
「話すことはない」
「ですが大切なことですわ」
「大したことじゃない」
浮気を問い詰められたくはない。毅然とした態度でオレは言う。
「オレのプライベートなことで、君が気にする話でもない」
「ですがヒース様」
「差し出がましいぞ。何様のつもりだ、君には関係ないことだ!」
「家のことです! リリア様とのことではございません!」
きっぱりと言い切ったエレノアに、少しは嫉妬を覚えてもよいのではないかと内心寂しい思いを抱えたが、おくびにも出さずにオレは彼女を見つめた。彼女もまた、まっすぐにオレの目を見て言った。
「お金が不正に使われています」
「――金?」
予期せぬ話に、動揺してしまう。
「今日、事業の帳簿を見させていただきました」
「勝手に何を」
「ほんの少しですわ。それに、あなたの事業で得た財は、これから先は、わたくしの財産でもあるのです。見るのはおかしなことではございませんわ」
それで、と彼女は言う。
「勘定が合わない部分があります」
「思い違いだろう」
「いつも誰に会計を任せているんです?」
「共同経営者だが……」
リリアの夫だった。
「……まさか、そいつが不正を働いているのか」
「可能性はあると思います。他の帳簿も見るべきかと。それを申し上げたかったのです」
だがオレは渋る。
「金勘定は苦手だ。だから信頼できる人間に任せているんだ」
「では、わたしが見ましょう」
少なからず驚いた。
彼女は貴族の令嬢で、貴族の令嬢と言えば、頭に花が沸いているかのようにふわふわしていて、そんな能力があるとも思えなかった。
だが彼女は、かしこそうな瞳で見つめ返す。
「こういったことは得意なのです」
*
翌朝目覚め、気に掛かり、書斎に行って仰天した。
エレノアが、起きて机に向かっていたからだ。昨晩寝る前に見た姿と一緒だった。
「一晩中起きていたのか?」
「はい、やっと今終わりました。やりがいのある仕事でしたわ」
彼女の前には、山のような書類が積み上げられていた。
「やっぱり不正が行われているようです。問い詰めに参りましょう」
今まで一度も見せたことのない極上の笑顔で、彼女はそう言った。
信頼していた仕事のパートナーは、つめよるとあっけなく吐いた。
オレが金に疎いと見抜き、今までも相当な金額を懐に入れていたらしい。リリアをけしかけたのも、作戦の一環だったのかもしれない。
ここまでこけにされると、怒りさえ沸かなかった。
だがそいつと今まで通り組むことはできない。
事業はオレ一人でになっていかねばならなかった。
「ではわたしが、パートナーになりますわ」
そいつを訪ねた帰りの馬車で、エレノアがおずおずと言った。
「君が?」
「学校で政治と経済学を履修していました。評価は『優良』です」
そのスミレ色の瞳は、今まで見たこともないほど輝いていた。
変な女だった。
浮いた言葉では喜ばず、仕事に熱意を燃やすとは。
確かに一晩であの量の帳簿をいなしてしまったし、彼女の能力は認めざるを得ない。
黙っていると、肯定と受け取ったのかエレノアは嬉しそうにはにかんだ。笑うと美人が加速するな、とオレはただそれだけ思った。
「貴族の令嬢というものは、頭が空っぽで、ただ男の気を引くことだけに幸福を感じている能なし者だとばかり思っていた。君のようなタイプは初めてだ」
「男性を立て、従える女性が一番かしこいのですわ、ヒース様。そういう女性が、本当は素晴らしいのです」
「君はそうじゃないな」
オレはむっつりと言った。
せまい馬車で、彼女の華奢さばかりが気になる。揺れる度に、押しつぶしてしまいそうだった。
「妻としては無能でも、仕事の相棒としては優秀だと思いますわ」
「別に、君を無能だとは思っていない。今まで見たこともないほどに、優れた女性だ」
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