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第5話 ポーリーナの襲来

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 就寝の準備なんて一人でしたことがなかったから、えらく手間取っているとアイラがまた、ノックなくやってきた。

「あのね、アイラ。部屋に入るときドアをノックして欲しいのよ」

「ドアをノック……?」

 まるで初めてそんな行為を聞いたかとでもいうように、アイラは目を数回しばたいた。やがて思い至ったかのように、神妙に頷く。

「なるほど、申し訳ありませんでした奥様。旦那様の部屋に入る時、ノックなんてしたことなかったので。これから、気をつけますわ」

 それはどういう意味なのだろう。
 考えるのも億劫だ。アイラは美人で賢く、きっぱりと物を言う女性だ。心の中に黒い靄が広がっていく。本当に、彼女はただのメイドなんだろうか。
 私は首を横に振る。
 レイブンが、どんな女性と親密になろうが関係のないことよ。どうせお姉様と会えれば、彼とはお別れなんだから。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、彼女の手に大小の箱が抱えられていることにようやく気がついた。

「旦那様から奥様へ、ということです」
 
 相変わらず無表情でアイラは言う。
 どうやらレイブンからの贈り物は花だけではないらしい。腹が立つのは、それをアイラに届けさせたことだ。

「自分で渡せと言っておいて」

 机の上に並べられた宝石やらを見ながら言う。顔色一つ変えずアイラは言った。

「わたくしもそう申し上げたのですが、奥様は自分に会いたくないだろうから、代わりにと仰せつかりました」

「どれもこれも、もっと上等な物を持っているわ。いらないと伝えて」

「もったいないですわ。物に罪はありませんもの」

 またしてもアイラの反撃に遭う。

「奥様が、欲しいものをおっしゃればよろしいのです」

「言ったわ」

「わたくしには拒絶の言葉に感じました」

 彼女はもしや、私を責めているのだろうか。驚いて見るが、その茶色の瞳は賢そうに光るだけだ。

「歩み寄られてはいかがでしょうか。旦那様は女性をいなすのは上手でも、あなた様の扱いには慣れていないのでしょうから。それに、奥様はそこらの町娘とはまるで違う、でしょう?」

 アイラはどのくらい、レイブンに仕えているのだろう。少なくとも私ではなく彼の味方のようだった。

「だけど奥様が旦那様に、少しは興味をお持ちのようで安心しましたわ」

「どこが! 彼は最低の人間だって、皆言ってるわ」

「彼がこの国の最下層の出身だからですか」

 きつい物言いに、ぎょっとして答える。

「ち、違うわ。いつも、恐ろしい噂がつきまとっているからよ。人を殺したこともあるとさえ言われているわ」

「だけど噂でしょう? 奥様は、本当の旦那様をご自分の目で確かめたことがおありですか?」

「本当の彼って?」

「愛する人に相手にされなくても、なんとか喜ばせたくて空回りしながら奮闘する男のことです」

 答えに詰まった。レイブンが奮闘しているようにはとても見えない。だけど、さっき確かに、傷ついたかのように見えた。

「……あの人、どういうつもりなのかしら」

「奥様に喜んでもらいたいだけですわ。大抵の男性は、好きな女性にそうしますよ」

 分かりきったことを子供に諭すかのように、アイラは言う。

 思わず考え込んでしまった。レイブンは、本当に私に好意があるの? いや、そんなはずはない。
 彼は私に好意をほのめかし、更なる財産をかすめ取ろうとしているに違いない。悪名高きレイズナー・レイブン。心を許してはいけない。
 
 ――翌朝目覚めると、ベッドの側脇の机の上に花瓶が置いてあり、彼が持ち帰った花が飾られていた。


 *


 相変わらず不味い朝食の席で、レイブンが馬を買いにいかないかと誘ってきた。

「馬を? どうして?」

「俺は不在にしがちだし、気が紛れるものがあるといいかと思ったんだ」

 乗馬は好きだけど、誰かに話したことはない。

「君は馬が好きだろう? 違うのかい」

「違わないわ!」

 嬉しくて、つい本心を口にしてしまった。

「なんて素敵なのかしら。ずっと自分の馬を持つのが夢だったの」
 
 お兄様は決して許さなかった。男達がこぞって遠乗りするのを、どれほど羨ましく思ったことだろう。彼らに劣らず乗れるのに、私が馬に乗るのはいつだって、誰かと一緒でなくてはいけなかった。

 微笑むと、彼も笑う。

「それに、もし子供ができたら一緒に遠乗りをしたい」

「こ、子供?」

「そのうちの話だ」

 レイブンは、どこまで本気で言っているんだろう。私と彼の子供? ――彼はそれを望んでいるというの。
 顔に出ていたのかも知れない。意外にも、困ったように彼は笑い、その表情に、たとえようもなく心が揺れ動いた。

「ポーリーナ王女がお見えです」

 アイラがそう声をかけたのは救いだったかもしれない。あやうく、切なげな視線の理由を問いただすところだった。

 妹といえど食卓に王女を通すわけにもいかず、私たちは客間へと移動する。火急の引っ越しでまだ整えられていなかったそこは、机とソファーだけが置かれた殺風景なものだった。

 ポーリーナは私と同じブロンドの髪を美しく編み込んでいて、よそ行きのドレスを来て現れた。結婚式の前日まで、私たちの仲は悪くなかったはずだ。唯一心を許し合っていた、血を分けた妹だった。 
 
 妹の姿を見て、私の胸はずきりと痛んだ。まるで他人に向けるような作り笑顔を、私に向けているのだから。

「用件があれば、こちらからお伺いしたというのに」

 レイブンがポーリーナを歓迎していないことはその表情から明らかだった。
 かつての私なら、その笑顔の下の本心に気付かなかっただろう。だけどこの二日、彼を観察していたから、このくらいの感情の変化なら、分かるようになってしまった。

「結婚のお祝いに来たのよ。急な式だったでしょう? お祝いも言えないままだったもの」

 にこりと笑うポーリーナに、レイブンも応じる。

「私も一緒にいても差し支えないでしょうか」

「あなたが? いいえ、嫌よ。下がりなさい」

 ぞっとしたのは、妹は、こんなに冷たい表情をする人間だっただろうかと思ったからだ。
 そう思うのは私が、もう王族ではないからだろうか。もしかすると私も、こんな目でレイブンを見たことがあったのかもしれない。考えると、また暗い靄に支配されそうだった。
 レイブンは、片方の眉を不愉快そうに吊り上げたが、結局は何も言わずに出て行った。
 バタリと扉が閉められ、二人きりになったところで、ポーリーナが言う。

「暮らしはどう?」

「たった二日じゃ、なにも分からないわ」

 妹がこんな作り笑顔をしていなかったら、私は彼女に助けを求めたかもしれない。だが目の前の、まるで別人のようなポーリーナに弱音を吐くことはできなかった。

「あの男との結婚を、ヴィクトリカお姉様が承諾するなんてね。何がいいの? 顔? 顔は確かに素敵だわ。それとも、別の理由があるの? 身分の低い人間は、動物的欲求が強いと聞くけど、彼はもうお姉様を、その体で虜にしたの?」

 好奇心と侮蔑が入り交じった表情で問うポーリーナに、やっと答える。

「結婚したのは、分かるでしょう? 他に、選択の余地なんてなかったのよ」

「へえ? それにしては楽しそうな声が食堂から漏れていたわね」

 明らかに納得していない。他に誰もいないというのに、ポーリーナは声を潜めた。自然、私たちの顔は近づく。

「騙されてはだめよ。レイブンはお姉様を愛していないわ。地位と持参金と、ヒースへの当てつけのためだけにお姉様を娶ったのだわ」

 そんなことは、言われなくても分かっていた。だけど私だって黙っていられない。

「でも彼は、私に歩み寄ろうとしているわ。少なくとも夫婦として、やっていこうとしているのよ」

 山のようなプレゼントも、馬を飼おうという申し出もその証拠だ。
 だがポーリーナは、勝ち誇ったかのように笑っている。

「可哀想なお姉様。いいことを教えてあげる。
 ……アイラとかいうメイドは、レイブンの愛人よ」
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