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第13話 愛する人
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ハンはしばらくして目を覚まし、私を守れなかったことを、こちらが恐縮するほどに謝ってきた。
御者も無事だった。二人とも、今、屋敷で手当を受けている。
レイズナーが現れたのは、用事を終えて、私が先に帰ったのを知り、追ったためだった。彼がいなければ、私は死んでいたかもしれなかった。
黒い影がなんだったのかは分からない。あれが死に神や、あるいは死、そのものの姿だろうか。
「そんな曖昧なものはこの世にはいない。誰かが明確な意思を持って、君を殺そうとしていたんだ。魔法や、呪いの類いだろう」
レイズナーは調べると言った。
誰かが私を殺そうとしているなら、今までの死も、全てその誰かによってもたらされたものかもしれない。
私はすっかり震え上がっていた。アイラはハンと御者の世話でてんてこ舞いだったから、一晩中着いていてほしいとは言えない。
不安と奮闘していると、控えめなノックの後でレイズナーの声がした。
「ヴィクトリカ、気分はどうだ? 入れてもらえないだろうか」
許可など求めずに入ってくればいいものを、それでもいつだって私にお伺いを立てるのが彼だった。
私が扉を開けると、上着だけ脱いだ外出着のままのレイズナーがそこにいた。着替える暇さえ無いほど屋敷の中は騒ぎだったらしい。
レイズナーの視線が、私の全身の上を撫でるように動いた。
途端、自分を覆っている一枚の寝間着が心許なく感じる。
「何のご用?」
「様子を見に来たんだ。今日は一晩、君の側にいてもいいかい」
今度は許可をする前に、レイズナーは部屋に入ってきた。身を固くしている私を見て笑うと、彼は言う。
「俺は椅子にでも座っていることにするよ」
「……夫をそんなところで寝かせられないわ」
王女の沽券に関わることだ。たとえ元王女だとしても、仮にも夫である男を一晩中椅子に座らせ、自分はベッドですやすや眠るなんてできない。おまけに彼は、私を守るためにそうするのだ。
「眠るつもりはないよ」
レイズナーは微笑んだ。
私がベッドに入ってからも、彼が見つめているのが分かる。壁時計が時を刻む音だけが部屋に流れていた。当然、眠れるはずがない。耐えきれず、私は言った。
「ベッドに来てもいいわよ」
自分でも、とても大胆なことを言っていると気がついていた。レイズナーは、真意を探るように私を見る。
「手を握っていてほしいの」
片手を伸ばすと、ゆっくりと彼は立ち上がる。いつもの自信に溢れた彼ではない。迷うように私の手を握ると、ベッドに腰掛け、その後ようやく横になった。
彼をベッドに来させるために手を握らせたのに、その大きな手に包まれていると、不安が薄れていくようだった。誰が私の命を狙っているのか分からない。お兄様もポーリーナも、誰にも心を許せない中で、レイズナーだけが側にいてくれる。
「私、子供みたいだわ」
寝転がるレイズナーは言う。
「誰だってそうなるさ。怖い思いをしたんだから。今日は、ずっとこうしているよ――もちろん、友人として」
緩やかな動作で、彼が抱きしめてきた。たまらず顔を背けると、背後から抱きすくめられるような形になる。
「これも友人にすること?」
「する人もいるさ」
彼の体は熱いほどだ。早まっている心臓の鼓動が、自分か彼か、判断がつかない。
「昨日、死が怖いのかって聞いたわね」
ぽつりと、私は言った。
「怖いわ。とても、怖いの」
言うべきか迷ったのは一瞬だけだった。レイズナーは本気で私の身を案じている。先の言葉を待つように、彼からの返答はない。私も、覚悟を決めた。
「私のこと、頭がおかしいと思うでしょ。でもね、何度も死んでるの。そしてまた、死ぬ前に、時間を戻ってきているの。
あの日よ、あなたとの結婚式の日。あの日を何度も何度も繰り返したの。結婚が嫌で逃げ出したら死んじゃった。だけどあなたと結婚したら、死ななかった。あなたとの結婚に、私が思ったのは、もう死ななくていいんだわって、それだけだった。あなたを認めたわけじゃない。自分が死ぬのが怖かっただけなの」
これは罪の告白だった。結婚をしたのは、レイズナーを受け入れたわけじゃないということを、本人に伝えたのだから。
レイズナーが、私の言葉を信じたのかは分からない。少なくとも、否定はしなかった。
「一人の戦いは孤独だっただろう。もう怖がらなくていい。君は一人じゃないんだから」
彼の手が、私の髪を優しく撫でた。
子供の頃、泣き虫だった私を慰めるように、お兄様もよくこうしてくれたのを思い出した。今はもう、虫けらを見るような目で見られるだけだけど。
レイズナーが、笑った気配がした。
「婚約パーティが終わったら、渡したい物があるんだ。楽しみにしていてくれ」
「何かしら」
「まだ秘密さ。喜んでくれるといんだが、君のこととなると、俺は喜ばせ方が全く分からないから」
ふいに彼がどんな顔をしているのか知りたくなって、向きを変えた。息すらかかりそうな至近距離で、彼はじっと私を見つめている。
私は彼のことを知りたくなった。
「あなたはどこで生まれたの?」
突然、彼は顔を強張らせた。まるでそこに触れてはいけない傷があるかのように。
「知っているだろ、この国で一番最低な貧民街だ」
彼の美しい緑色の瞳が、すぐ近くにある。輝く光彩までもよく見えた。
「才能だけで上り詰めたの?」
「運が良かったんだ。君は信じられないかもしれないが、陛下と俺は、本当に友人だったんだよ」
「お兄様と、どこで知り合ったの」
「学校さ。子供の頃、勉強がしたくて忍び込んだ。だけどそこは寄宿制でね、生徒全員が顔見知り、おまけに貴族専門だったから、身なりですぐにばれ、叩き殺されそうになった。そこを陛下に救われたんだ」
「信じるわ。昔のお兄様は優しかったもの。今は変わってしまったけど」
「陛下が孤独を好むようになったのは、先代の宮廷魔法使いブラクストンが亡くなった頃だろうな。彼は陛下の師だった。父のように慕っていたのを、俺も覚えている」
わずかな沈黙の後で、私は言う。
「あなたも勉強がしたかったなんて知らなかったわ。私も、叶うことなら学校に通い続けたかった」
「通えばいいじゃないか」
さらりと言うレイズナーの言葉が、本心かどうか分からない。私は彼に言い聞かせた。
「だって、女に学は必要ないのよ? 多くの場合、男の方が優秀だもの」
だが彼は一蹴する。
「くだらない。俺はアイラにいつかやり返そうと考えているが、彼女の能力が俺より劣っているとは考えたこともない。それはそのまま、君にも言えることだ。
学校へ行きたいなら行けばいい。君を襲った犯人を捕まえてからの話だけどね」
なんてことはないように、レイズナーは言った。ぐっと、胸に込みあげる愛情を、愚かにも私は、押さえつけることができない。
衝動だった。
自分でも信じられないことに、私は彼に唇を重ねていた。
心臓が、不安と期待で大きくはねる。
だって他の誰が、こんなことを言ってくれた?
彼はなされるがままで、抵抗しない。この優秀で尊大な男を、自分の好きなようにしていいということ? しばらくの間、私は彼の唇を思うさまいたぶった。やがてレイズナーの手が、いさめるように肩に置かれる。
「よしてくれヴィクトリカ」
一瞬、拒否されたのかと恐怖した。だが彼の言葉は続く。
「それ以上されたら、俺は紳士でいられない。君のことが狂おしいほど好きだということを、どうか忘れないでくれ」
レイズナーはぎこちなく笑った。
体に雷が走ったかのようだった。
彼の笑みは破滅的なほど魅力がある。
鋭い眼光さえも蠱惑的だった。
彼は私を物として見ていない。一人の人間として、私の言葉に耳を傾けてくれていて、そのことに、私がどれほどの喜びを覚えているか、気付いてさえいないのだ。
「私は、友人の唇にキスなんてしないわ」
この感情の先にあるものの正体を突き止めたい。彼と一緒ならば、分かる気がする。
レイズナーの目が私を逃がすまいと見つめている。肩に置かれた手が、頭の後ろに移動した。
彼が再び唇を重ね、私に覆い被さった。
自分でも呆れたことに、彼を愛さないという決意は、たった五日で崩れ去ってしまった。
御者も無事だった。二人とも、今、屋敷で手当を受けている。
レイズナーが現れたのは、用事を終えて、私が先に帰ったのを知り、追ったためだった。彼がいなければ、私は死んでいたかもしれなかった。
黒い影がなんだったのかは分からない。あれが死に神や、あるいは死、そのものの姿だろうか。
「そんな曖昧なものはこの世にはいない。誰かが明確な意思を持って、君を殺そうとしていたんだ。魔法や、呪いの類いだろう」
レイズナーは調べると言った。
誰かが私を殺そうとしているなら、今までの死も、全てその誰かによってもたらされたものかもしれない。
私はすっかり震え上がっていた。アイラはハンと御者の世話でてんてこ舞いだったから、一晩中着いていてほしいとは言えない。
不安と奮闘していると、控えめなノックの後でレイズナーの声がした。
「ヴィクトリカ、気分はどうだ? 入れてもらえないだろうか」
許可など求めずに入ってくればいいものを、それでもいつだって私にお伺いを立てるのが彼だった。
私が扉を開けると、上着だけ脱いだ外出着のままのレイズナーがそこにいた。着替える暇さえ無いほど屋敷の中は騒ぎだったらしい。
レイズナーの視線が、私の全身の上を撫でるように動いた。
途端、自分を覆っている一枚の寝間着が心許なく感じる。
「何のご用?」
「様子を見に来たんだ。今日は一晩、君の側にいてもいいかい」
今度は許可をする前に、レイズナーは部屋に入ってきた。身を固くしている私を見て笑うと、彼は言う。
「俺は椅子にでも座っていることにするよ」
「……夫をそんなところで寝かせられないわ」
王女の沽券に関わることだ。たとえ元王女だとしても、仮にも夫である男を一晩中椅子に座らせ、自分はベッドですやすや眠るなんてできない。おまけに彼は、私を守るためにそうするのだ。
「眠るつもりはないよ」
レイズナーは微笑んだ。
私がベッドに入ってからも、彼が見つめているのが分かる。壁時計が時を刻む音だけが部屋に流れていた。当然、眠れるはずがない。耐えきれず、私は言った。
「ベッドに来てもいいわよ」
自分でも、とても大胆なことを言っていると気がついていた。レイズナーは、真意を探るように私を見る。
「手を握っていてほしいの」
片手を伸ばすと、ゆっくりと彼は立ち上がる。いつもの自信に溢れた彼ではない。迷うように私の手を握ると、ベッドに腰掛け、その後ようやく横になった。
彼をベッドに来させるために手を握らせたのに、その大きな手に包まれていると、不安が薄れていくようだった。誰が私の命を狙っているのか分からない。お兄様もポーリーナも、誰にも心を許せない中で、レイズナーだけが側にいてくれる。
「私、子供みたいだわ」
寝転がるレイズナーは言う。
「誰だってそうなるさ。怖い思いをしたんだから。今日は、ずっとこうしているよ――もちろん、友人として」
緩やかな動作で、彼が抱きしめてきた。たまらず顔を背けると、背後から抱きすくめられるような形になる。
「これも友人にすること?」
「する人もいるさ」
彼の体は熱いほどだ。早まっている心臓の鼓動が、自分か彼か、判断がつかない。
「昨日、死が怖いのかって聞いたわね」
ぽつりと、私は言った。
「怖いわ。とても、怖いの」
言うべきか迷ったのは一瞬だけだった。レイズナーは本気で私の身を案じている。先の言葉を待つように、彼からの返答はない。私も、覚悟を決めた。
「私のこと、頭がおかしいと思うでしょ。でもね、何度も死んでるの。そしてまた、死ぬ前に、時間を戻ってきているの。
あの日よ、あなたとの結婚式の日。あの日を何度も何度も繰り返したの。結婚が嫌で逃げ出したら死んじゃった。だけどあなたと結婚したら、死ななかった。あなたとの結婚に、私が思ったのは、もう死ななくていいんだわって、それだけだった。あなたを認めたわけじゃない。自分が死ぬのが怖かっただけなの」
これは罪の告白だった。結婚をしたのは、レイズナーを受け入れたわけじゃないということを、本人に伝えたのだから。
レイズナーが、私の言葉を信じたのかは分からない。少なくとも、否定はしなかった。
「一人の戦いは孤独だっただろう。もう怖がらなくていい。君は一人じゃないんだから」
彼の手が、私の髪を優しく撫でた。
子供の頃、泣き虫だった私を慰めるように、お兄様もよくこうしてくれたのを思い出した。今はもう、虫けらを見るような目で見られるだけだけど。
レイズナーが、笑った気配がした。
「婚約パーティが終わったら、渡したい物があるんだ。楽しみにしていてくれ」
「何かしら」
「まだ秘密さ。喜んでくれるといんだが、君のこととなると、俺は喜ばせ方が全く分からないから」
ふいに彼がどんな顔をしているのか知りたくなって、向きを変えた。息すらかかりそうな至近距離で、彼はじっと私を見つめている。
私は彼のことを知りたくなった。
「あなたはどこで生まれたの?」
突然、彼は顔を強張らせた。まるでそこに触れてはいけない傷があるかのように。
「知っているだろ、この国で一番最低な貧民街だ」
彼の美しい緑色の瞳が、すぐ近くにある。輝く光彩までもよく見えた。
「才能だけで上り詰めたの?」
「運が良かったんだ。君は信じられないかもしれないが、陛下と俺は、本当に友人だったんだよ」
「お兄様と、どこで知り合ったの」
「学校さ。子供の頃、勉強がしたくて忍び込んだ。だけどそこは寄宿制でね、生徒全員が顔見知り、おまけに貴族専門だったから、身なりですぐにばれ、叩き殺されそうになった。そこを陛下に救われたんだ」
「信じるわ。昔のお兄様は優しかったもの。今は変わってしまったけど」
「陛下が孤独を好むようになったのは、先代の宮廷魔法使いブラクストンが亡くなった頃だろうな。彼は陛下の師だった。父のように慕っていたのを、俺も覚えている」
わずかな沈黙の後で、私は言う。
「あなたも勉強がしたかったなんて知らなかったわ。私も、叶うことなら学校に通い続けたかった」
「通えばいいじゃないか」
さらりと言うレイズナーの言葉が、本心かどうか分からない。私は彼に言い聞かせた。
「だって、女に学は必要ないのよ? 多くの場合、男の方が優秀だもの」
だが彼は一蹴する。
「くだらない。俺はアイラにいつかやり返そうと考えているが、彼女の能力が俺より劣っているとは考えたこともない。それはそのまま、君にも言えることだ。
学校へ行きたいなら行けばいい。君を襲った犯人を捕まえてからの話だけどね」
なんてことはないように、レイズナーは言った。ぐっと、胸に込みあげる愛情を、愚かにも私は、押さえつけることができない。
衝動だった。
自分でも信じられないことに、私は彼に唇を重ねていた。
心臓が、不安と期待で大きくはねる。
だって他の誰が、こんなことを言ってくれた?
彼はなされるがままで、抵抗しない。この優秀で尊大な男を、自分の好きなようにしていいということ? しばらくの間、私は彼の唇を思うさまいたぶった。やがてレイズナーの手が、いさめるように肩に置かれる。
「よしてくれヴィクトリカ」
一瞬、拒否されたのかと恐怖した。だが彼の言葉は続く。
「それ以上されたら、俺は紳士でいられない。君のことが狂おしいほど好きだということを、どうか忘れないでくれ」
レイズナーはぎこちなく笑った。
体に雷が走ったかのようだった。
彼の笑みは破滅的なほど魅力がある。
鋭い眼光さえも蠱惑的だった。
彼は私を物として見ていない。一人の人間として、私の言葉に耳を傾けてくれていて、そのことに、私がどれほどの喜びを覚えているか、気付いてさえいないのだ。
「私は、友人の唇にキスなんてしないわ」
この感情の先にあるものの正体を突き止めたい。彼と一緒ならば、分かる気がする。
レイズナーの目が私を逃がすまいと見つめている。肩に置かれた手が、頭の後ろに移動した。
彼が再び唇を重ね、私に覆い被さった。
自分でも呆れたことに、彼を愛さないという決意は、たった五日で崩れ去ってしまった。
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