幸せっていう怪物

内田ユライ

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第四章

間(あわい)……2

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 病室内を見渡すと白いもやが薄く満ち、まるで紗がかかったかのように映る。
 グレが出入り口の扉横に立っていた。アカネが文句をつける。

「グレ、あんたねぇ! なんでちゃんと自分のところでとどめとかないわけ? 素通りして流れてきたわよ! 先に入った意味が全然ないじゃない!」

 アカネの剣幕に、グレはこちらに視線を向けた。
 黙ったままのグレに、焦れた口調でアカネが言う。

「もう、話していいわよ」
「すみません、おのれを過分に見誤りました」

 しくじった、と言うばつの悪さが、強面の顔に分かりやすく表れている。
「私の許容量を軽く越え、半分……いや三分の一ほど、持て余しました」
「そんなに? 凄いの?」
「吸収しきれてません」病室内へと目を向ける。「まだ残ってますね」

「どういうこと?」

 アカネが問うと、グレが太い指で四方を示す。
「部屋全体が細い糸のような思念で覆われています。それに触れると、生者の認知が惑わされる」
 縦横にグレが目線を流す。

 修哉には見えない。無言でグレに近づき、巨軀をくぐり抜ける。瞬時に視界が暗くなった。強い負の感情が伝わって身がすくむ。

 他人だけでなく、自分にも向けられる嫌悪。心許すものがない。救いもない。そして強い拒絶の意志が伝わる。

 目を開くと、修哉はグレの視野を得ていた。
 手前はすべて取り払われているが、長方体となっている病室の奥、窓側の三分の一ほどに異常が残って視える。糸に似た線状のものが淡い白い光を発して、窓から床に、天井から壁、面から空間へ延び、ぴんと張られた糸が別の面に付着する。

 室内に入る者を確実に捕らえるべく、不規則に、何重にも張り巡らされている。

「修哉さん」
 グレが気遣う声を出した。大丈夫、と目配せし、声には出さずに応える。

 あそこです、とグレが指し示す先に目を向ける。

 梶山のベッド脇、地蜘蛛の巣のように発光する糸が絡み合い、密集している。やけにまぶしい光源が目を射る。
 思わず目を細めると光が弱まり、見やすくなる。

 上半身だけベッドを起こした梶山は、修哉が来たことに気づいていない。喫茶店で見た時のように、厭な感じがする暗い色に包まれている。
 梶山が身動きをすると、窓から入る光を反射して眼鏡の金属フレームがきらめく。気が抜けたような表情で、窓の外を眺めている。

 頭の包帯と、骨折で固定された右腕が痛々しい。傷のある顔側面が青痣となり、やや腫れている気がする。
 胸が締めつけられるような思いがした。

 誰が、どうして、こいつをこんな目にわせたんだ、と身の内から怒りが湧きあがる。
 生き霊に縛られて気力を奪われ、生死の境が揺らぐ。結果、梶山は怪我を負い、病院に運ばれても原因不明の症状が続いて退院できずにいる。

 光に隠れ、姿がよく見えない。いや、見せたくないのか。修哉は一歩、前に出た。絶対に確かめてやる。対象を凝視する。

 怒りは恐怖を退しりぞける。冷静さを失いはしても、行動へと直結する強い原動力となる。梶山の傍に歩み寄り、向こう側の窓とベッドの間に強く光を放つものをのぞきこむ。
 光なんかじゃない。あれは拒絶だ。こちらを見るなと言う、強い意志。

 窓から差す日差しに紛れようとするが、確かになにかがいる。

 輝く中心に影が見える。人のかたち。凝視を続けると次第に明らかになる。
 長い直毛、前髪がうつむいた顔にかかって表情が見えない。白いブラウスに黒いフレアスカート。線が細い。存在感が淡い。肩幅はあるが腕に肉がついておらず、重量を支えるには不向きに見えた。

 間違いない、この感じは――

 相手の身体がびくりと震えた。修哉の視線に気づいた。
 ゆっくりと目線を上げる。

 長い前髪の、透いた間に怯えた両眼があった。
 視線が合った。かち合う瞬間、無音の空間に静電気がぜたかのように感じた。その顔に驚愕が浮くのに時間はかからなかった。

 生き霊の本体。髪の長い、顔の見えない痩せた女。

「あんた、だれだ? どうしてここにいる?」

 修哉が言い切るまえに、女は跳ね飛ぶ勢いで立ち上がった。座っていた椅子が床を擦る、不快な音が響く。そのまま窓側の壁に当たり、ぶつかった。

 女のくちびるが動いているが、声が出ていない。やっと聞こえるほど小さく、かすれた発声をする。
「なんで、見えてる……?」

 女の声に、梶山が気づいた。ぼやけた視線で外を見ていたのが、急激に焦点が合った。ゆるんだ表情が締まり、女の声に反応する。

 視線が移動する。

 若い女は、周囲の視線を怖れている。
 自分に向けられた、修哉と梶山の視線から逃れようと顔を逸らした。動作と行動は素早かった。梶山のベッド脇から駆け出す。あっという間に修哉の立つ場所、一メートル手前の距離に迫る。

「待ってくれ!」梶山が叫ぶ。「――マサキ!」

 マサキと呼ばれた女の時が止まった。ぴたりと静止する。

 修哉の正面に立つ女の顔に、激しい嫌悪と憎悪が浮いた。そして、あまりに強いねたみの感情が表れた。それを目撃した修哉は、背筋にひどく冷たい戦慄が走るのを感じた。

 女は薄い唇を噛み、顔だけをゆっくりと梶山へと向ける。

「見分けもつかないくせに! おまえにその名を呼ぶ資格があるもんか!」

 低い怨嗟の叫び。ひどく恨みがましい声音。
 怒りに満ちた両眼にとらえられ、女の気迫に飲まれる。梶山は言葉を失った。

 女は梶山から顔を逸らすと、今度は修哉を見据える。
「邪魔しやがって」

 ぞわ、と女の剣幕に鳥肌が立った。修哉にぶつかりそうな距離を女がすり抜ける。長い髪を空中にたなびかせ、すれ違いざまになにか言うのが聞こえた。

「いっそ、――ばよかったのに」

 かかとで床を叩きつけ、靴音を響かせて出入り口に近づく。勢いよく右横へとスライドさせ、扉を開く。
 そのまま、振り返りもせずに出て行った。


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