4 / 43
第1章 雪と石と
第4話 取り付けた約束
しおりを挟む
「みな、顔を上げよ。仕事に戻れ」
若い男の声が凜凜たちに降り注ぐ。
宦官が凜凜の頭から手をどける。それと同時に慌てたように凜凜の手の中の湯呑みを筒袖の中に隠した。
あれは偉い人に見られると怒られるようなことだったのだと、凜凜はようやっと気付いた。
「いささか喉がかすれていてな。喉に効く茶の葉をもらいに来た」
「は、はい、ではこちらに……そ、そこに皇帝陛下が腰掛けるので、お前はどきなさい」
年老いた宦官が慌てて凜凜にそう言った。
「いや、構わんよ」
皇帝がそう言うのと凜凜が直立不動で立ち上がるのは同時だった。
「くくっ」
皇帝は凜凜の慌てぶりにそれはそれはおかしそうに笑った。
その後ろには武装した宦官がついている。
「では、お前が温めてくれた椅子に座らせてもらうとするか」
皇帝はそう言って凜凜が座っていた椅子に腰掛けた。
「…………」
凜凜は直立不動のままその姿を見ていた。
長い黒髪。白い肌。切れ長の目。微笑みをたたえた口元。
黄赤色の豪奢な交領の着物をゆるりと着こなしている。
皇帝陛下とは幻の生き物ではなかったのだな、と凜凜はぼんやり思った。
「お前はどこのものだ?」
「げ、玄冬殿の央賢妃様の使いで参りました」
「ああ、央角星の娘の……」
雪英を皇帝が知っている。そのことに凜凜は少し安堵する。
誰だそれは、などと言われていたら、雪英どころか凜凜だって立ち直れなかっただろう。
「央賢妃はどこか悪いのか」
「寒くなってきたので……その、予防です」
具合が悪いと正直に言えばただでさえ寄り付いてくれぬお方だ。より雪英が遠ざけられよう。凜凜は浅知恵をめぐらし、そう答えていた。
「そうか。お前、名前は」
「凜凜でございます」
「お前も体には気をつけなさい」
「あ、ありがとうございます」
凜凜は思いがけない皇帝からの思いやりに、深々と頭を下げた。
「陛下、お茶っ葉の支度がととのいました」
医官が皇帝に声をかける。皇帝はお茶っ葉の入った壺を覗き込んで香りを確かめる。
「うむ。包んでくれ」
「はい」
それを包み終えれば、皇帝は去ってしまう。せっかく得た接点がかき消えてしまう。凜凜は意を決した。
「へ、陛下!」
彼女の声はひっくり返っていた。
「どうした」
少しおかしそうな顔で皇帝が応える。
「お、央賢妃様の元を……一度訪ねてはくださいませんか」
控えていた宦官の顔が青ざめる。
一介の宮女が皇帝の行いを指図するなど、あってはならないことである。
そのようなことは凜凜とてわきまえていた。
それでもすさんでいく雪英を思うと、言わずにはいられなかった。
「……ふむ、考えておこう」
皇帝はそれまでと特に色の変わらぬ淡々とした声でそう言った。
凜凜は怒られなかったことにほっとした。凜凜の失態は下手を打てば雪英の評判も落としかねないから。
そして皇帝は医局を去っていった。
医局の中に弛緩した空気が漂う。
「先触れを出してくださればよいものを」
「どう考えてもありゃ視察だ」
「ほら仕事に戻れ、お前たち」
そう囁き合う医官の声を聞きながら、凜凜は渡された薬を胸に抱き、弾む足で雪英の元へと帰っていった。
「……陛下、あまり安請け合いはせぬほうが。あれではあの宮女が……無礼なことをしたとはいえ……かわいそうです」
宦官の諌める言葉に皇帝は笑ってみせた。
「できぬ約束はしないよ」
「はあ……」
宦官は複雑な顔で皇帝を見つめた。
「いずれ訪ねる。いずれな」
そうして皇帝は寒さに体を震わせた。
本格的な冬が後宮に近づこうとしていた。
若い男の声が凜凜たちに降り注ぐ。
宦官が凜凜の頭から手をどける。それと同時に慌てたように凜凜の手の中の湯呑みを筒袖の中に隠した。
あれは偉い人に見られると怒られるようなことだったのだと、凜凜はようやっと気付いた。
「いささか喉がかすれていてな。喉に効く茶の葉をもらいに来た」
「は、はい、ではこちらに……そ、そこに皇帝陛下が腰掛けるので、お前はどきなさい」
年老いた宦官が慌てて凜凜にそう言った。
「いや、構わんよ」
皇帝がそう言うのと凜凜が直立不動で立ち上がるのは同時だった。
「くくっ」
皇帝は凜凜の慌てぶりにそれはそれはおかしそうに笑った。
その後ろには武装した宦官がついている。
「では、お前が温めてくれた椅子に座らせてもらうとするか」
皇帝はそう言って凜凜が座っていた椅子に腰掛けた。
「…………」
凜凜は直立不動のままその姿を見ていた。
長い黒髪。白い肌。切れ長の目。微笑みをたたえた口元。
黄赤色の豪奢な交領の着物をゆるりと着こなしている。
皇帝陛下とは幻の生き物ではなかったのだな、と凜凜はぼんやり思った。
「お前はどこのものだ?」
「げ、玄冬殿の央賢妃様の使いで参りました」
「ああ、央角星の娘の……」
雪英を皇帝が知っている。そのことに凜凜は少し安堵する。
誰だそれは、などと言われていたら、雪英どころか凜凜だって立ち直れなかっただろう。
「央賢妃はどこか悪いのか」
「寒くなってきたので……その、予防です」
具合が悪いと正直に言えばただでさえ寄り付いてくれぬお方だ。より雪英が遠ざけられよう。凜凜は浅知恵をめぐらし、そう答えていた。
「そうか。お前、名前は」
「凜凜でございます」
「お前も体には気をつけなさい」
「あ、ありがとうございます」
凜凜は思いがけない皇帝からの思いやりに、深々と頭を下げた。
「陛下、お茶っ葉の支度がととのいました」
医官が皇帝に声をかける。皇帝はお茶っ葉の入った壺を覗き込んで香りを確かめる。
「うむ。包んでくれ」
「はい」
それを包み終えれば、皇帝は去ってしまう。せっかく得た接点がかき消えてしまう。凜凜は意を決した。
「へ、陛下!」
彼女の声はひっくり返っていた。
「どうした」
少しおかしそうな顔で皇帝が応える。
「お、央賢妃様の元を……一度訪ねてはくださいませんか」
控えていた宦官の顔が青ざめる。
一介の宮女が皇帝の行いを指図するなど、あってはならないことである。
そのようなことは凜凜とてわきまえていた。
それでもすさんでいく雪英を思うと、言わずにはいられなかった。
「……ふむ、考えておこう」
皇帝はそれまでと特に色の変わらぬ淡々とした声でそう言った。
凜凜は怒られなかったことにほっとした。凜凜の失態は下手を打てば雪英の評判も落としかねないから。
そして皇帝は医局を去っていった。
医局の中に弛緩した空気が漂う。
「先触れを出してくださればよいものを」
「どう考えてもありゃ視察だ」
「ほら仕事に戻れ、お前たち」
そう囁き合う医官の声を聞きながら、凜凜は渡された薬を胸に抱き、弾む足で雪英の元へと帰っていった。
「……陛下、あまり安請け合いはせぬほうが。あれではあの宮女が……無礼なことをしたとはいえ……かわいそうです」
宦官の諌める言葉に皇帝は笑ってみせた。
「できぬ約束はしないよ」
「はあ……」
宦官は複雑な顔で皇帝を見つめた。
「いずれ訪ねる。いずれな」
そうして皇帝は寒さに体を震わせた。
本格的な冬が後宮に近づこうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる
春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。
夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。
形のない愛は信じない。
でも、出来立ての肉は信じてしまう。
肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。
これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。
天然の仮面を被った令嬢は、すべてを賭けて傭兵領主に嫁ぐ──愛と復讐を誓う、たったひとりのあなたへ
葵 すみれ
恋愛
没落貴族の令嬢パメラは、売られるように元傭兵の成り上がり領主に嫁がされる。
──けれどそれは、たったひとつ残された自分自身を賭けた、最後の勝負でもあった。
冷たく迎えられた屋敷、素性を隠す夫。
けれど、微笑みの仮面の下で牙を研ぐパメラもまた、彼を利用する覚悟を秘めていた。
ただの偽りの夫婦──そう思っていたはずなのに。
重ねた誓いの先で、ふたりの心はひとつになる。
そして、交わした誓いはただひとつ。
「奪われたすべてを、取り戻す」
これは、仮面を被った令嬢と傭兵領主が、愛を知り、復讐に挑む物語。
(他サイトにも掲載しています)
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ロザリーの新婚生活
緑谷めい
恋愛
主人公はアンペール伯爵家長女ロザリー。17歳。
アンペール伯爵家は領地で自然災害が続き、多額の復興費用を必要としていた。ロザリーはその費用を得る為、財力に富むベルクール伯爵家の跡取り息子セストと結婚する。
このお話は、そんな政略結婚をしたロザリーとセストの新婚生活の物語。
【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。
銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。
しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。
しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……
聖女は歌う 復讐の歌を
奏千歌
恋愛
[悠久を生きる魔女①]
*②と②´まとめました。バッドエンドです。後味が悪い部分があります。ご注意ください。
幼なじみの令嬢との婚約を解消して、新たに聖女と王太子が婚約した。といった騒動があった事は私には関係の無いことだと思っていた。
ドンドンと扉を叩く音が聞こえ、薬草を調合する手を止め、エプロンを外しながら玄関に向かった。
こんな森の中の辺鄙な場所に誰がきたのかと、首を傾げながら取っ手を掴んだ。
そもそも、人避けの結界を張っているのに、そんな場所に侵入できるのは限られている。
カチャっと扉を開くと、予想通りの人の姿を認めた。
「エカチェリーナ、助けて!」
開けるなり飛び込んで来たのは、この国の王太子と婚約したばかりの聖女、ヴェロニカさんだった。
コテンと首を傾げた私に彼女が頼んできたことは、第二王子を救うことをだった。
彼女に同行して、城で私が見たものは…………
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる