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第4章 赤く咲く花
第36話 まどろむような日々
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皇帝は飛んでやって来た。
今まで見たことのないくらいの上機嫌でにこにこと笑うと、自らの手で大量の衣を始水殿に運び入れた。
「いろいろと入り用になるだろう。何でも言え、なんでも用意させる。なるたけ健やかに過ごせ。そうだな、医官を常駐させよう」
凜凜に口を挟む隙さえ与えず皇帝はそう言った。
「幸い、お前につけた女官も宮女も宦官も私が選んだ信頼できる者ばかりだ。安心して産むがいい。とはいえ不満があればすぐに言え、クビにする。ああ、それとも、いっそ央麒殿に移るか、その方が目が行き届いてよい」
「いえ……ここで産みとうございます。ここにはまだ……雪英様がいてくれる気がするのです」
「……それは悪鬼ではないか?」
皇帝は少し顔を歪めた。
この人でもそのような迷信を信じるのかと凜凜は少しおかしく思った。
本当を言えば、凜凜はこの始水殿に雪英がいるなどとはつゆほども思っていなかった。
死者はどこにもいない。ここではないどこかに行ってしまった。そこは生きていては一生行き着けないところだろう。
ただの方便に、雪英を使った。
「……央角星の娘は、お前のことはともかくとして私のことは恨んでいるだろう。私の子であれば祟ってもおかしくはない……」
「雪英様をこれ以上貶めるのはおやめになってくださいませ」
凜凜は冷え切った声でそう言った。
「……すまぬ」
皇帝は素直に頭を下げた。
「あの方は……悪鬼になどなりません。あの死に際を見て、あの方を悪鬼になるなどと……思えはしません」
「そうか。そのような最期であったか」
皇帝は凜凜を気遣うようにそう言った。
しかしその声には雪英を悼む気持ちは含まれていない。あれほど雪英はこの人を待っていたのに。
凜凜はそんな思いを呑み込んで笑った。
「まあそういうことですから……しばらく安静に過ごさせてもらいます」
「ああ、もちろんだ。体を大事にしなさい」
皇帝はしばらく凜凜の居室に留まって、話をしていった。
懐妊がわかれば、房事はできない。そうなれば皇帝の訪れも遠ざかるだろう。
そう思っていた凜凜だったが、皇帝はむしろ足繁く始水殿に通うようになった。
ほとんど毎日のように始水殿を訪れ、たわいのない言葉を語らい、時折手ずから楽器を弾いた。
凜凜の前にいる皇帝はいつも嬉しそうに笑っていた。
凜凜はそれに合わせて笑った。
笑っているうちに、わからなくなっていった。
自分の中のわだかまりが、溶けていくような気がした。
心がずいぶんと穏やかになった。
こんな柔らかな時間が、自分に訪れるとは思わなかった。
腹はどんどんと膨らんでいき、自分の腹とは思えなくなっていった。
夏の暑さが過ぎ去る頃には、皇帝はほとんどの時間を始水殿で過ごしていた。
諫める声もあったが、皇帝は聞き入れなかった。
なんともいえない黒い不安が、一瞬だけ凜凜の胸中をよぎった。
今まで見たことのないくらいの上機嫌でにこにこと笑うと、自らの手で大量の衣を始水殿に運び入れた。
「いろいろと入り用になるだろう。何でも言え、なんでも用意させる。なるたけ健やかに過ごせ。そうだな、医官を常駐させよう」
凜凜に口を挟む隙さえ与えず皇帝はそう言った。
「幸い、お前につけた女官も宮女も宦官も私が選んだ信頼できる者ばかりだ。安心して産むがいい。とはいえ不満があればすぐに言え、クビにする。ああ、それとも、いっそ央麒殿に移るか、その方が目が行き届いてよい」
「いえ……ここで産みとうございます。ここにはまだ……雪英様がいてくれる気がするのです」
「……それは悪鬼ではないか?」
皇帝は少し顔を歪めた。
この人でもそのような迷信を信じるのかと凜凜は少しおかしく思った。
本当を言えば、凜凜はこの始水殿に雪英がいるなどとはつゆほども思っていなかった。
死者はどこにもいない。ここではないどこかに行ってしまった。そこは生きていては一生行き着けないところだろう。
ただの方便に、雪英を使った。
「……央角星の娘は、お前のことはともかくとして私のことは恨んでいるだろう。私の子であれば祟ってもおかしくはない……」
「雪英様をこれ以上貶めるのはおやめになってくださいませ」
凜凜は冷え切った声でそう言った。
「……すまぬ」
皇帝は素直に頭を下げた。
「あの方は……悪鬼になどなりません。あの死に際を見て、あの方を悪鬼になるなどと……思えはしません」
「そうか。そのような最期であったか」
皇帝は凜凜を気遣うようにそう言った。
しかしその声には雪英を悼む気持ちは含まれていない。あれほど雪英はこの人を待っていたのに。
凜凜はそんな思いを呑み込んで笑った。
「まあそういうことですから……しばらく安静に過ごさせてもらいます」
「ああ、もちろんだ。体を大事にしなさい」
皇帝はしばらく凜凜の居室に留まって、話をしていった。
懐妊がわかれば、房事はできない。そうなれば皇帝の訪れも遠ざかるだろう。
そう思っていた凜凜だったが、皇帝はむしろ足繁く始水殿に通うようになった。
ほとんど毎日のように始水殿を訪れ、たわいのない言葉を語らい、時折手ずから楽器を弾いた。
凜凜の前にいる皇帝はいつも嬉しそうに笑っていた。
凜凜はそれに合わせて笑った。
笑っているうちに、わからなくなっていった。
自分の中のわだかまりが、溶けていくような気がした。
心がずいぶんと穏やかになった。
こんな柔らかな時間が、自分に訪れるとは思わなかった。
腹はどんどんと膨らんでいき、自分の腹とは思えなくなっていった。
夏の暑さが過ぎ去る頃には、皇帝はほとんどの時間を始水殿で過ごしていた。
諫める声もあったが、皇帝は聞き入れなかった。
なんともいえない黒い不安が、一瞬だけ凜凜の胸中をよぎった。
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