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第一章 黒井令一郎(14)三毛猫になる

――過去の終わりと現在の始まり――

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「うわっ――」

 大げさな声が教室前の廊下に響く。
 ふと見ると、ある女の子の真横に太った男児が立っていて、ニヤニヤと口元を歪めながらその子の顔を覗き込んでいる。

「うわあ! キモ! 何その目、宇宙人?」

 そう罵倒された女の子は涙目になって俯いていたが、そんなことはお構いなしに彼は更に追い打ちをかけるように言葉を続ける。

「キモキモキモキモ! 見ろよ、皆! キモいからさ! てか宇宙人なら早く本当の姿に変身してくんない?」

 そう言うと彼は両手を合わせてそこから何かを放つようなポーズを取る。昨日放映していたアニメのポーズの真似だな、とすぐにわかった。
 その子は耐えきれないように逃げ出す。しかし、彼は迷わず追いかけまわす。
 僕は面倒くさいなと思いながら、きっと――腹を立てていたんだと思う。
 止めておけば良かったのに、彼らの後を追って、校舎と体育館の間の通用路まで来てしまった。

 入学式の後――クラスでの説明が終わった後の僅かな交流時間が終わったら、真っすぐに帰るつもりだったのだ。それなのに、僕はここまで来てしまった。
 明け方からの雨。空を見ると、それはもう晴れようとしている。
 叔母は今外へ車を回してくれているはずだ、それに乗って帰るだけ――だったのに。
 追い詰められた彼女は男児にさらに髪を掴まれる。

「逃げんなよ! ほら、もっと見せろよ! とっとと変身しろよ~化け物!」

 心無い言葉が彼女の顔を歪めていく。僕は――僕は――

「やめろ」
「――あ?」

 引き返せなかった。
 何処か自分の意志とは違うところ――自分の背後から声が出たような気すらした。
 僕の足は自然に前に出ていた。
 激しい口論に興味本位のヤジが飛び交う中――

 ――お化け――

 その言葉が男児から漏れた時、僕は意識を失っていた。
 
     ※※※

「――にゃあ」

 目覚めると――誰もベッドにはいなかった。

「――にゃあ」

 もう一度、鳴いてみるが、誰も応えない。僕は――ゆっくりと背を伸ばすと部屋のドアの下にあった猫用の窓から外へ出る。

「――にゃうん」

 誰も声に応えない。僕はすっかり上手になったと思いながら、階段を降りる。

「にゃあん」

 鳴き声だけが空しく暗い廊下に響く。
 暖炉のある居間に行ってみるが、やはりここにも誰もいない。 
 残るは――

「にゃあ」

 勝手口の下にある小さなペット用の窓だ。そう、ここだけ猫が外と行き来できるようにしているのだ。

「にゃうん……」

 しかし、出ようとして僕は躊躇う。今まで、この姿になって外に出たことはなかったからだ。
 家の中なら良いけど、外はちょっと怖い。猫の姿に成ってもそれは変わらない。人の姿の時だって、僕は雨の日にしか外に出ない。そう、姿ではなく――これは単に『僕』に刷り込まれた運命なのだ。

「――」

 そう思ったら、声にならない声が出た。

 あまりにも――哀しくて。

 どうしてあんな夢を見たのだろう。思い出したくもない、嫌な思い出を。
 あの時助けた少女の泣き声が、遠くから木霊する。

 一歩、だけ――

「――にゃ」

 僕は、一歩だけ、前に出た。

「――にゃ」

 もう一歩。

「――にゃ」

 もう――一歩。
 目の前にはもう、薄い壁が一枚あるだけ――

「……にゃ!」

 意を決し――目を瞑る。
 僕は外の世界へと飛び出した。すると――

「にゃ!?」

 べちゃ――

 身体が冷たい。
 水しぶきが全身を濡らす。
 僕は思い切り、水たまりに身体ごと突っ込んでしまっていた。

「にゃ……にゃ?」

 雨が降っていたのだろう。地面はぬかるみ、そこかしこに水たまりを作っていた。
 しかし、空を見上げると、もう雨は止んでいた。
 空の雲間からは綺麗な月が覗き、水たまりを照らしている。

(綺麗だ)

 僕は水たまりから身体を起こすと、ぶるん、と身体を振る。
 水しぶきが水たまりに波紋を広げ、月の姿を滲ませる。

(どうしよう)

 外へ出て、最初に出てきた感想はそれだった。
 ただ、出ようと思って出てきただけで、特に目的など無かった。

(戻るか? でも――)

 戻ったところで、今日の家には誰もいない。暗闇の中、一人で、いや一匹で待つのも退屈の極みではある。なら――

「にゃ」

 上を見上げると、高い塀がそびえ立っている。飛べるの? と一瞬考えるが、えいとばかりにジャンプしてみると――ギリギリ、塀の上に手が掛った。

「にゃんっ」

 僕は塀の上でバランスを取り、胸を反らす。案外簡単じゃないか。
 得意満面で僕は空の月を見つめようと首を捻り――

「――」

 声にならない声が、口から勝手に漏れる。

「――」

 もう一度、僕は眼前の建物に――そう、よく見たことのある洋館に目を凝らす。

 ――馬鹿な。

 そこにあったのは紛うことなき、僕の――家だった。

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