甘い幻親痛

相間つくし

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3 家族が増えました

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 みつきを飼ってから、わたしの生活はみつきを中心に回るようになっていった。
 会社に行く前と家に帰ってから一日二度の餌やり、水換えは週に一度。インターネットで調べた知識と三上さんに教わった飼い方を参考にして、最初は自分の生活のサイクルにみつきの世話を少しずつ組み込んでいるだけだった。だがそのうち、だんだんと自分の思考の軸がみつきを中心に回っていくようになる。今日は元気に泳いでるかな、だとか、ちゃんと餌やってきたっけ、だとか、まるで自分に子供ができたような気分で毎日を過ごすようになった。もちろん子供にかかる手間はこんなものではないことは理解しているけれど、今まで生活に軸らしきものが何にもなかったわたしにとって、これは相当に大きな変化であり刺激だった。
 最初は何一つ分からず餌やり一つで緊張したり、みつきが少しゆっくり泳いでいるだけであたふたしてクラゲの病気などを熱心に調べたりしていたが、みつきが餌を食べるたびに安心し、水を変えて元気に傘を開閉させているのを確認しては安心し、段々と世話に慣れが生まれてきた。クラゲは魚のように鱗や皮膚がないので、大丈夫だとわかっていても世話をするときに心配してしまってかなり神経をすり減らすから、当たり前のように世話ができるようになるまで時間がかかった。
 世話をすることに慣れて餌やりや水替えをストレスなく行えるようになってからは、否応なく愛着が湧く。愛着が湧くと、可愛がる余裕ができる。わたしはいつしか、嬉しかったことや嫌だったことを毎日みつきに向かって語り掛けるようになっていた。
 わたしが話しているとき、みつきはいつもふらふらと鉢の中を漂い、傘を開閉させている。それは嬉しそうに見える時もあれば、悲しそうに見える時もあったし、相槌を打っているように見えるときもあれば、話を全く聞いていないように見えるときもあった。でもそれはきっと、わたしの心をわたしが勝手にみつきに投影しているだけ。わたしが鉢の中を見つめるのは、自分の心の中を見つめることと同じようなものだった。それはけして、わたしの無意識を無遠慮に眼前に突きつけられるような不愉快さは伴わず、わたしの知らないわたしの感情を教えてくれる双子、いや、もう一人の自分ができたような心地よい気分であった。
「それにしても、海優梨ちゃんがちゃんと生き物のお世話をできるとは思わなかったな」
「ええ?ひどいなあ」
「ごめんごめん。でも実際、自分のお世話よりみつきのお世話の方が上手なんじゃない?みつきのご飯とか忘れたことないでしょ。自分はいつも適当に済ますくせに」
 窓を開け、ゆりくんと電話をしながら思い返す。言われてみれば、わたしは食事に頓着しない。放っておくと面倒だからと毎日の食事もおろそかにするし、掃除も気力が出ないのでやらないし、自分の世話というものができない人間である。生きるのが下手くそ、とさえ言える。こういう人がずぼらと呼ばれるのだろうか。でも、みつきには毎日忘れずに餌をあげているし、水換えも怠ったことはない。そして、習慣らしい習慣が一向に定着したことのないわたしは、それを面倒だとも思わないまま、いつの間にかみつきのお世話を習慣として日常に組み込むことができていた。
「もしかしたら、わたしは人に何かしてあげるのは苦じゃないのかも。みつきは人じゃないけど」
「そうかもね。俺が指示してやっと重い腰上げるのも、考えようによっては俺の言うことをこなすために動いてるだけであって、自分のためにやるわけではないから行動する気になる、とも考えられるかもね」
「うーん、有り得る。いやはや、わたしは難儀な生き方をしておりますなあ」
「何その言い回し」
 ふふ、と笑い、部屋に生ぬるい風が吹き抜ける。もうすぐ真夏を迎える湿った風も、不思議と不快には感じなかった。ゆりくんも電話の向こうで笑っているのが分かった。
「最近、ちょっと変わったよね」
「何が?」
「海優梨ちゃん、前より楽しそうに見えるよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「そっか」
 自覚は少しだけあった。みつきを家に迎えてから、SNSを見る時間がめっきり減っている。家に帰ってから、テレビを聞き流したりゆりくんと電話をしながらみつきを眺めている時間が多くなっていた。心の起伏は、今までの生活に比べてかなり穏やかに保たれている。
 そもそも、自分がこんなに生き物に愛情を持って接することができる人間だとは思っていなかった。けして動物が嫌いなわけではないけれど、ここまで献身的にお世話をし、暇な時には話しかけて微笑むような、いかにも動物好きというような態度を自分が取ることになるのは予想外である。強いて言えば、メジャーな犬や猫ではなくクラゲというところがわたしらしいかもしれないけれど、それは大した問題ではない。
 家に帰り、その日あったことの愚痴をみつきにこぼすだけで少し胸が軽くなる気がした。もちろん今までもゆりくんには愚痴を聞いてもらっていたけれど、感情のある人間に向かって聞き手を不快にしないように言い方を考えながら話すのと、感情の無いみつきに何も考えず一方的に話しかけるのでは、気楽さが全く違う。
 当日中に間に合うと思っていなかった仕事を間に合わせられた、だとか、今日カフェで食べたサンドイッチが感動するほど美味しかった、だとか、箪笥から無くしたと思っていた小銭入れが出てきた、だとか、どうでもいい話もみつきに向かって垂れ流した。そうやって今日あったことを逐一思い出しながら語る時は、家に帰ってきて家族と話をするような気分だった。いや、両親のどちらともその日あったことをこんなに話したことはないから、家族以上とも言えるかもしれない。
家に帰るなりみつきに話しかけ、一通り話し終えたらゆりくんに電話をかける。最近は、この流れがわたしに付くはずもないと思っていた習慣として完成されていた。
 みつきに話しかけているとき、たまにわけもなく寂しさを感じることもあった。鉢の中、一匹だけで傘を開いたり閉じたり、それ以外に何をするわけでもなく漂うだけのみつきを眺めていると、なぜか虚しさや寂しさを感じる。わたしはその曖昧な寂寞に襲われるたび、ただの一匹で永遠に出ることのできない鉢の中に囚われ泳ぎ続けているみつきと、ずっと一人で変化もなく会社で働き、ただ生きるために生きるわたしを重ねていた。
 みつきを飼ったことは、わたしの会社での振る舞いにもわずかに変化をもたらしていた。その日あったことをみつきに滔々と語り、ストレスを解消する方法ができたおかげで幾分か社交的になれた、と自分では思っている。今までわたしがあれだけ避けていた人付き合いも苦痛を伴わず、わたしに降りかかるいいことも悪いこともみつきへ語りかける話題の種として昇華された。人と話す時、わたしの顔に張り付いていた鉄仮面もいつしか溶け、愛想笑いを浮かべて接する心の余裕くらいはできた。女性社員を連れたっての昼食もたまに付き合っている。その行為を異常だと思っているのは変わらないけれど、あまり気負いすぎずとも態度を繕って行けるようにはなっていた。あの日、あの強烈な衝動に従っていて良かったな、と、改めて思いながら、ゆりくんとの電話を終わらせる。
「じゃあ、わたしそろそろ寝ようかな」
「うん、俺もそろそろ寝る」
「ん、おやすみ」
「おやすみ」
 就寝の挨拶を交わして電話を切り、布団に入ろうかと思ったとき、携帯が着信を知らせた。ゆりくんが何か言い忘れたのかな、と思いつつ電話を取ると、ゆりくんとは全く違う細い声が聞こえて面食らう。
「あ、もしもし、秦?」
「……そうですが、どなたですか」
「ああごめん、急だし分からないよね。内山だよ。内山健太郎」
「内山……あっ、高校の?」
「そうそう。ごめんねこんな夜遅い時間に。ちょっといま電話で連絡取りたくて」
「それは良いけど……」
 内山くんは高校時代の同級生で、細身で真面目な男の子だった。高校の同級生なんてほとんど人とは関わりもなく、同じクラスの人でもほとんど覚えていないけれど、内山くんは半ば皆に押しつけられたクラス委員長を懸命にこなしていて、ホームルームでよく教壇に立って話していたのでさすがに覚えている。ただしばらく連絡を取っていなかったので声を忘れてしまっていた。いや、よく考えてみると、そもそも連絡先を教えた覚えがない。なぜ連絡先を知られたのか訝しんでいると、わたしの無言の不信感に気付いたのか、内山くんは慌てふためきながら説明し始めた。
「いや、そうだよね、連絡先なんか交換してなかったもんね。いや違くて、クラス同窓会の幹事が俺になっちゃって、連絡は混乱しないように俺から全員に回すようになってて、んで秦の電話番号は手塚から聞いて……」
「手塚?」
「真理だよ。手塚真理てづかまり
「ああ……」
 真理は、高校時代に交流があった少ない友達の一人だった。彼女とは三年生の時に同じクラスになったのだが、それ以前から文芸部で知り合っており、地味な学生生活を三年間共に過ごした。ほとんど活動なんて無いに等しいような廃部寸前の部活だったから、数人で本を読んでいるだけだったけれど。今以上に不愛想で、付き合いも悪かったわたしなんかの連絡先をよく今まで残してくれていたものだと思う。わたしの方はと言えば、連絡を取らなくなって一年くらい経った頃に連絡先を削除してしまった。わたしは人としての感情が皆無というわけではないので、こちらが一方的に連絡先を消してしまったことを少しだけ申し訳なく思った。
 内山くんは大方、断れない性格のせいでやんわりやんわりと幹事役が回ってきたのだろう。皆が社会人になっているのに、できるだけ多くの同級生の連絡先を入手して自ら連絡を取るというのは相当の重労働だ。ご愁傷さま、と声には出さなかったが同情した。
「あ……それで同窓会なんだけど、再来週の日曜なんだよね。ほら、唐沢っていただろ、副委員長の。あいつ今教師やってるんだよ」
「へえ」
 本当は顔と名前が一致しないくらいには記憶がなかったが、会話が進まないのでとりあえず相槌を打っておいた。
「それで学校が夏休みに入るタイミングじゃないと集まれないって言ってて、みんなもそれでいいよって言ったからこの時期。再来週なんて急だから来れないだろうとは思ったんだけど」
「うーん。行こうかな」
「うん。えっ?」
「行く。東京でしょ?都内?」
「そうだけど、本当に?来るの?」
「行く」
「秦はこういうの、もし予定が無くても来ないと思った」
「まあ……うん」
 当然だった。友達と呼べるような友達はほとんどおらず、話しかけても生返事、気ままに行動するくせに自分の意見ははっきりせず、人に意見を合わせてふらふらしていたようなわたしが同窓会に出席するなんて、誰が予想するだろうか。
「というか秦……」
「何?」
「いや、やっぱ失礼だからやめとく」
「大丈夫だから言って」
 内山くんは怯えたふうに口ごもった。ああ昔の振る舞いが祟ってるなあ、と思いながら言葉を待つ。
「えっと、秦ってそんな明るかったっけ」
「えっ」
 そんなことを言われるのは予想外だった。わたしはそんなに明るく話していただろうか。まさかそんなことを言われるとは思っていなくて、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「そんなに、明るいかな」
「うーん、少なくとも前よりは。まあ電話だからかもしれないけど、話しかけて欲しくないっていう無言の圧力が出てないというか……いやごめん、ほんと失礼だよね」
 へへへ、と内山くんが力なく笑う。
「ううん、大丈夫。まあゴツゴツした川の岩でさえ、流れるうちに角が取れるものだしね」
「あ、そういう例え話は秦らしい、かな。らしいって言えるほど俺たち話してもない気がするけど。でもやっぱ、丸くなった、って言っていいのかな」
「そうかもね」
 そもそも、高校時代はこんなふうに会話が続くことすら無かった気がする。高校時代に限った話ではない。つい最近まで、わたしはこんなふうに話を拾って会話を広げるようなことはせず、適当に返事をして話を切り上げていた。やはり、みつきはわたしから生えた毒の棘を幾分か抜いたのかもしれない。自分が段々「普通」になってきている気がして、それをくすぐったく思いつつもいい傾向だと感じたことが、またくすぐったかった。
「えっと、じゃあそういうことで。場所は……後から確認もできるし、メールでいいかな」
「うん」
「じゃあまた。おやすみ」
「おやすみ」
 電話を切って、静寂が流れる。横目にみつきを見ると、眠っているのか傘をゆっくりゆっくり開閉させていた。そういえばクラゲは眠るのだろうか、などと考えながら窓を閉め、布団に倒れこむ。時計を見ると、もう一時を回った頃だった。これは明日きついなあ、などと寝不足を心配しながら、わたしはいつの間にか眠りに落ちていた。
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