7 / 29
第一節 雨が多いきせつ
第7話 六月のとある木曜日
しおりを挟む
空気に触れる解放感。風が当たる清涼感。
いつもの様に、人目を気にしながらも密かな楽しみに興じようとした。
しかし、心が付いてこなかった。
……ああ、なんかな……やっぱり駄目だ――。
原因は分かっている。昨日の事がずっと頭から離れないのだ。
昨晩、姉にその事を話した。すると「へえ、明日香もとうとうナンパされるようになったか」とからかわれて、相談できなかった。
そういう事じゃないんだよ――。
脳裏に再びあの時の情景が浮ぶ。
見知らぬ男子学生からの突然の誘いに、戸惑った。どうしらいいのか分からず、焦った挙句相手の顔を見る事ができなくなり顔を伏せた。そして「結構です」と言って足早に去ってしまった。
なんであんなふうに――。
自分がそういう事に不慣れなのは自覚している。ただそれでも、もう少しスマートな対応があったんじゃないかと、明日香は後悔していた。
どうすれば良かったのか。どうすれば自然だったのか。何度も考えてしまう。
ダメだ。他にいくらでも良い言い方があったのに――。
後悔しすぎるのが良くない事だとは解っている。
ただ、それが自分なのだとも理解している。
自分が後ろ向きな人間なのだと再認識していると、愛用のトートバッグの中からメールの受信音が聞こえてきた。姉からだ。
『サイフとカギ忘れてるよ』
知ってるよ――。
つい先程、自動販売機で飲み物を買おうとした時に気が付いていた。
今朝も昨日の事で頭がいっぱいだったから……きっと、そのせいだ――。
明日香は姉に返信すると、後悔を止めるため、別の事を考える事にした。
ああ、お腹すいたな――。
〇
慎太郎は今日も彼女の睡蓮に見惚れていた。
昨日と同じく講義に集中できないで窓の外を眺めていると、昨日と同じ場所に座る彼女が見え、同じ手順で睡蓮が現れ、同じ様に慎太郎は魅了された。
だが、昨日と同じ様に声をかける訳にいかない。
昨日の放課後、拓也に相談しようと、自分の趣向と彼女の容姿を伏せて、話しかけた顛末を説明した。すると――、
「お前そりゃただの挙動不審の不審者だろ」
と不審ぶりを重ね掛けで指摘されてしまった。自分でも似た様な事を思っていたので慎太郎は深く反省した。
ただ、決して諦めた訳ではない。
彼女の睡蓮を再び目にし、逸る気持ちを抑えながら想いを募らせていると、やはり昨日抱いた自分の気持ちは間違いではなかったのだと分かった。
でも、どうしようか――。
今は様子を見るべきなのか――。
気持ちのままに話しかけに行っても、また同じ轍を踏む事は目に見えている。何か良い方法はないか。彼女の睡蓮を遠目に眺めながら、思案していた時だ。ふと、ある事に気が付いた。
元気が無い、のか――。
彼女の睡蓮は昨日と変わらず瑞々しく紅く輝いている。
それなのに、彼女の背中からは精気が感じられなかった。
〇
患部を保護し直した明日香は、図書館に来ていた。
音が死んだ空間。雑の無い混沌。数々の生きていた痕跡。群がる生者。
館内には多くの人がいる。ほとんどの人が干渉し合わないように干渉している。
明日香はいつもそれが水中にいるようだと感じていた。
皆が各々の目的に集中している為、包帯や絆創膏を気にする人が少ない――図書館は明日香にとって心安らげる数少ない場所の一つだ。
それに元々、明日香は読書する事が多かった。
特別本が好きと意識した事は無い。ただ、家族の影響で幼い頃から本に触れる機会には恵まれていた。暇つぶしや気分転換、情報収集や何かの参考のためになど、彼女にとって本は何かの手段の一つとして常に選択肢にあった。
空腹な上に昼食の予定も立たない今は、気を紛らわす為の本を探している。だが、本棚に並ぶ多彩な本の数々――その背表紙を目でなぞるだけでも、だいぶ空腹を忘れる事ができた。
これにしようかな――。
手に取ったのは、既に読んだ事ある短編集。最後に読んだのは二、三年くらい前になる。
長い期間を空けて改めて読むと、内容は同じはずなのに感じ方がまるで違う――本のそんなところが、明日香にはいつも不思議で、楽しく感じる部分だった。
当初の予定通り、今の状況を幾ばくか忘れる事ができた。
昼のチャイムが鳴る頃、人の流れは急に激しくなる。明日香はそっとお腹を押さえた。
気にしてはいたのだ。しかし、いよいよ空腹が度を過ぎてくると、腹の虫が鳴り出さないかと心配になってきた。
短編だったら途中で止め易いだろうと選んだ本。だが短編集という事は、佳境がすぐに何度も訪れるのだと気付いたのは、読み耽ったあとだった。
読んだ事があるとはいえ、続きが読みたい。
明日香はその本を借りる事にした。そうすれば場所を移せばいいだけの話だ。
しかし、借りる為に並んだ列で、貸出しに必要な学生証を取り出そうとした時に思い出した。
ああ、そうだった――。
明日香は学生証を常に財布の中にしまっている。
つまり、今は家にあるのだった。
〇
彼女が屋外テーブルから去ってからも、慎太郎は窓の外を見て講義をやり過ごした。
駄目だな――。
講義に身が入っていないのは自覚している。理由が何であるかも解っている。しかし、そうであると認める事は、原因を彼女に押しつけているようで抵抗があった。だから「暑いせいだな」という事にして何処かで涼む事にした。
レポートでもやるか――。
涼めて学生用のパソコンも設置してある図書館へ向かう。すると、入口の自動ドアを潜ったところで、エントランスの貸出しの列に並んでいる彼女を見つけた。
彼女はバッグの中を探っていた。と思っていたら途端に肩を落とし、列から離れ、図書館の奥へと向かっていった。
先程も元気が無さそうだった。
しかし今度は更に――誰が見ても明らかな程に、落ち込んでいる様子だ。
何があったんだ――?
慎太郎の心からはすでにこの場所へ来た目的は消えていた。
いつもの様に、人目を気にしながらも密かな楽しみに興じようとした。
しかし、心が付いてこなかった。
……ああ、なんかな……やっぱり駄目だ――。
原因は分かっている。昨日の事がずっと頭から離れないのだ。
昨晩、姉にその事を話した。すると「へえ、明日香もとうとうナンパされるようになったか」とからかわれて、相談できなかった。
そういう事じゃないんだよ――。
脳裏に再びあの時の情景が浮ぶ。
見知らぬ男子学生からの突然の誘いに、戸惑った。どうしらいいのか分からず、焦った挙句相手の顔を見る事ができなくなり顔を伏せた。そして「結構です」と言って足早に去ってしまった。
なんであんなふうに――。
自分がそういう事に不慣れなのは自覚している。ただそれでも、もう少しスマートな対応があったんじゃないかと、明日香は後悔していた。
どうすれば良かったのか。どうすれば自然だったのか。何度も考えてしまう。
ダメだ。他にいくらでも良い言い方があったのに――。
後悔しすぎるのが良くない事だとは解っている。
ただ、それが自分なのだとも理解している。
自分が後ろ向きな人間なのだと再認識していると、愛用のトートバッグの中からメールの受信音が聞こえてきた。姉からだ。
『サイフとカギ忘れてるよ』
知ってるよ――。
つい先程、自動販売機で飲み物を買おうとした時に気が付いていた。
今朝も昨日の事で頭がいっぱいだったから……きっと、そのせいだ――。
明日香は姉に返信すると、後悔を止めるため、別の事を考える事にした。
ああ、お腹すいたな――。
〇
慎太郎は今日も彼女の睡蓮に見惚れていた。
昨日と同じく講義に集中できないで窓の外を眺めていると、昨日と同じ場所に座る彼女が見え、同じ手順で睡蓮が現れ、同じ様に慎太郎は魅了された。
だが、昨日と同じ様に声をかける訳にいかない。
昨日の放課後、拓也に相談しようと、自分の趣向と彼女の容姿を伏せて、話しかけた顛末を説明した。すると――、
「お前そりゃただの挙動不審の不審者だろ」
と不審ぶりを重ね掛けで指摘されてしまった。自分でも似た様な事を思っていたので慎太郎は深く反省した。
ただ、決して諦めた訳ではない。
彼女の睡蓮を再び目にし、逸る気持ちを抑えながら想いを募らせていると、やはり昨日抱いた自分の気持ちは間違いではなかったのだと分かった。
でも、どうしようか――。
今は様子を見るべきなのか――。
気持ちのままに話しかけに行っても、また同じ轍を踏む事は目に見えている。何か良い方法はないか。彼女の睡蓮を遠目に眺めながら、思案していた時だ。ふと、ある事に気が付いた。
元気が無い、のか――。
彼女の睡蓮は昨日と変わらず瑞々しく紅く輝いている。
それなのに、彼女の背中からは精気が感じられなかった。
〇
患部を保護し直した明日香は、図書館に来ていた。
音が死んだ空間。雑の無い混沌。数々の生きていた痕跡。群がる生者。
館内には多くの人がいる。ほとんどの人が干渉し合わないように干渉している。
明日香はいつもそれが水中にいるようだと感じていた。
皆が各々の目的に集中している為、包帯や絆創膏を気にする人が少ない――図書館は明日香にとって心安らげる数少ない場所の一つだ。
それに元々、明日香は読書する事が多かった。
特別本が好きと意識した事は無い。ただ、家族の影響で幼い頃から本に触れる機会には恵まれていた。暇つぶしや気分転換、情報収集や何かの参考のためになど、彼女にとって本は何かの手段の一つとして常に選択肢にあった。
空腹な上に昼食の予定も立たない今は、気を紛らわす為の本を探している。だが、本棚に並ぶ多彩な本の数々――その背表紙を目でなぞるだけでも、だいぶ空腹を忘れる事ができた。
これにしようかな――。
手に取ったのは、既に読んだ事ある短編集。最後に読んだのは二、三年くらい前になる。
長い期間を空けて改めて読むと、内容は同じはずなのに感じ方がまるで違う――本のそんなところが、明日香にはいつも不思議で、楽しく感じる部分だった。
当初の予定通り、今の状況を幾ばくか忘れる事ができた。
昼のチャイムが鳴る頃、人の流れは急に激しくなる。明日香はそっとお腹を押さえた。
気にしてはいたのだ。しかし、いよいよ空腹が度を過ぎてくると、腹の虫が鳴り出さないかと心配になってきた。
短編だったら途中で止め易いだろうと選んだ本。だが短編集という事は、佳境がすぐに何度も訪れるのだと気付いたのは、読み耽ったあとだった。
読んだ事があるとはいえ、続きが読みたい。
明日香はその本を借りる事にした。そうすれば場所を移せばいいだけの話だ。
しかし、借りる為に並んだ列で、貸出しに必要な学生証を取り出そうとした時に思い出した。
ああ、そうだった――。
明日香は学生証を常に財布の中にしまっている。
つまり、今は家にあるのだった。
〇
彼女が屋外テーブルから去ってからも、慎太郎は窓の外を見て講義をやり過ごした。
駄目だな――。
講義に身が入っていないのは自覚している。理由が何であるかも解っている。しかし、そうであると認める事は、原因を彼女に押しつけているようで抵抗があった。だから「暑いせいだな」という事にして何処かで涼む事にした。
レポートでもやるか――。
涼めて学生用のパソコンも設置してある図書館へ向かう。すると、入口の自動ドアを潜ったところで、エントランスの貸出しの列に並んでいる彼女を見つけた。
彼女はバッグの中を探っていた。と思っていたら途端に肩を落とし、列から離れ、図書館の奥へと向かっていった。
先程も元気が無さそうだった。
しかし今度は更に――誰が見ても明らかな程に、落ち込んでいる様子だ。
何があったんだ――?
慎太郎の心からはすでにこの場所へ来た目的は消えていた。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さくら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜
紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。
しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。
私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。
近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。
泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。
私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる