夜帷伝―忍者師弟閨房秘譚―

ジントニ9

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二の段 師範草之助

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 時は少し遡る。同じ日の昼下がり。楓山の里が誇る秘密会議場は、里の中心部からさらに奥まった洞窟に巧妙に偽装された石造りの建物であった。陽光はほとんど差し込まず、松明の頼りない炎が壁に無数の影を揺らめかせている。室内には十人ほどの里の重鎮たちが円卓を囲んで座していた。全員が黒い忍び装束に身を包み、顔の下半分を覆面で隠している者もいる。息苦しいほどに静まり返ったその空気は、まるで張り詰めた弓弦のようだった。


 円卓の一番奥に座る里長――白髪が霜のように降り積もり、顔には深い皺が刻まれた老齢の男――がゆっくりと口を開いた。

「諸君。我ら楓山の忍びも、来るべき天下統一の荒波に乗り切れずしてどうしようか。各地で情報戦は熾烈を極めている」

 低いが威厳のある声が岩肌に反響する。それに応えるように、右隣に座る壮年の忍が地図を広げながら報告を始めた。
「西の城はすでに我が間者が内部に深く浸透しております。しかし東方の国境では、武力衝突の兆候が……」

 現状報告が続く中、草之助は腕を固く組み、瞼を閉じたまま微動だにしない。その眉間には深く皺が刻まれていた。
 景、凪の師匠である彼は忍びの中でも指折りの実力者であり、数々の死線を潜り抜けてきた猛者。黒い忍び装束に包まれた屈強な身体からは漲るような武威を感じさせる。齢三十二。頬に斜めに走る古い刀傷と、着物の下に隠された背中の火傷痕がその壮絶な過去を物語っている。だが今はただ静かに、議論の行方を耳で追っているようだった。

「報告はここまでとしよう」
 里長が手を振って話を遮ると、重い溜息が漏れた。
「諸君が良くやってくれていることは十分承知じゃ。だが……」
 鋭い眼光が一同を射貫く。

「我らに求められる役割はそれだけではない。より巧みに、より深く潜り込まねばならん。そのためには……」
 その言葉を待っていたかのように、左端に座る一人の忍が咳払いをした。


「……房中術、特に同性間における秘儀を今こそ修めさせる時でしょう」


 その一言が落とされた瞬間、重苦しい空気がさらに粘度を増したように感じられた。幾人かがごくりと喉を鳴らす。房中術――忍びにとっては諜報の最終兵器と呼んでも過言ではない禁断の技。相手を肉体的に籠絡ろうらくし精神的に支配することで核心を握る。

「同性間となればまた別の心得が必要となる」
 里長が低くうなるように続ける。

「男色嗜好の貴族も少なくない。ましてや近年の戦国大名たちは武勇と同時に閨房けいぼうでも力を誇示しようとする傾向にある。それを利用せぬ手はない。我ら忍びのような粗野な身分の者と一夜を過ごさせる……それは大きな屈辱であろうが、同時に忘れえぬ快楽を与えることができれば、それこそ容易に釘付けにできるというもの」

 具体的な方法が淡々と語られる。
 前戯は男色ならではの繊細さと大胆さが求められる。菊門きくもんへの潤滑は必須であり、痛みを伴わず受け入れさせる技巧は芸術に等しい。前立腺という弱点を熟知し、男特有の敏感な部位を執拗に責め立てることで理性を蕩かす。時には己の肉体を使って相手を恍惚とさせながら、内なる欲望を暴き出すのだ。媚薬を用いることも推奨される。その効果は甚大であり、一度使われれば逃れられぬ沼にまるしかない。

「一度堕ちてしまえば二度と抜け出せぬ深淵に相手を誘い込む……それが房中術の醍醐味よ」
 里長の目に僅かな愉悦の色が宿る。

「早急に適任者を選出し修業を積ませねば」

 重鎮たちが頷き合う中、草之助の組んだ拳が僅かに震えた。彼の脳裏に浮かぶのは、幼少の頃より彼を父同然に慕ってきた弟子たちの無邪気な笑顔。彼らに、このようなおぞましき業を課すのか。怒りにも似た感情が彼の胸中を渦巻いた。

「ところで……」
 一人の忍者が草之助を見やり、声を潜める。

「貴殿のもとにも一人適任がおるはずじゃな? あの者……確か景とか申したか。黒髪の美丈夫で成績も群を抜く俊才と聞いたが?」

 ざわりと空気が波打った。
「おぉ! 確かに!」
「あれなら相手を惑わすこと叶うであろう!」
「顔は涼やかに整いながらも内に秘めた熱情が見て取れる……なんとも男好みのかおではないか」

 次々と上がる声に、草之助はゆっくりと瞼を開いた。その眼差しは氷のように冷たく鋭い。彼は教え子である景のことを考えていた。才に溢れながらも未熟な部分を多く残す彼をこのような汚泥に漬けることなどできるはずもない。だが……、しかし。

「……承知しました」

 重たい唇から絞り出された肯定の言葉。これもまた彼なりの決断であった。ここで抗えば里全体が敵となる。そして景自身も庇護できない。守るべき者を守るために自ら汚れ役を引き受ける覚悟。それが彼の忍びとしての生き方であった。

「しかし……」
 草之助は低く響く声で続けた。

「ただ修めるだけでは意味がない。実際に使用するには熟練の指導者が必要でしょう。私にその任をお与えくださるのであれば……」

 その瞬間、里長の目が妖しく光った。

「ほう……草之助殿自らが教えを授けると? これは素晴らしい。是非とも貴殿にお願い致したい。さすれば成功率も飛躍的に向上することだろう」

 草之助は内心で舌打ちした。こうなることは分かっていたのだ。それでも逃れる道はない。

「御意」

 再び瞼を閉じる。その裏側で景の姿が揺れている。強さの裏に脆く繊細な心を隠す彼はどのような悪夢を見るのだろう。自分の選択が彼をどのように歪めてしまうのか。それらすべてを受け止めねばならない。それが師の務めというものだから。

 議場は再び沈黙に包まれた。しかし今度は先程とは違う種類の静けさだった。忍び達の間に流れ込むのは期待と不安、そして仄暗い興奮の入り混じった複雑な感情。そんな重圧を一身に背負いながらも草之助は微動だにせず座り続けていた。その心中で渦巻く嵐など誰にも見せることなく。

「段取りとしてはこうじゃ」里長は鷹揚おうように扇子を開き、その先で円卓を叩く。

「今宵よりさっそく訓練を始めよ。まずは基礎から徐々に慣らし、最終的にはお主自らが我らの目前で『試験』を行う。そこで合格と認められるならば本格的な任務に送り出すつもりじゃ」

 周囲の重鎮たちが一斉に頷く。議論は既に熟しているようで、異論を挟む余地は全く無い。草之助はその場の圧力に押し潰されそうな息苦しさを感じながらも、努めて平静を保とうと奥歯を食いしばった。ぎり、という鈍い音が体内に響く。

「試験……ですか」

 低く唸るような声が草之助から絞り出される。
「それは具体的にどのように」

「もちろん実技をもって行う」
 即座に答えが返ってくる。

「景という若忍とお主とで……その場で交わる様を見せよ。弟子の菊門に魔羅まらを打ち込み果てるまで、我々の眼前でな。如何に巧みに相手を悦ばせられ、屈服させられるか。声は艶かしく響き、動きは洗練されていなくてはならん。睦言むつごとの一言一句まで我らが吟味する。当然ながら景がどれほど耐えられるかも見定める必要がある」

 唾を飲み込む音が自分の喉から聞こえた。全身の血が逆流するような激しい怒りと絶望が襲いかかる。数多の老獪な目玉に晒しながら教え子を犯す様子を想像すると胃の腑が灼けるようだった。

「……分かりました」
 草之助はゆっくりと目を伏せた。「今宵より開始致します」

「それで良い」
 里長は満足げに頷き、「期待しておるぞ、草之助殿」と意味深長な微笑みを浮かべた。他の者たちも安堵したような表情。

「百戦錬磨の草之助殿が指導するならば安心ですな」
「いや全く。あれほど冷徹なお方が教え子にどう接するか興味深いものがありますな」


 卑俗な嘲笑にも似た声が交わされるのを聞きながら、草之助は無言で腕を組んでいた。肩にかかる重荷は決して物理的なものではない。それは教え子への愛情と責任が混合した巨大な罪悪感そのものだった。

「では解散じゃ」
 里長の一声で重鎮たちが続々と退出していく。残されたのは草之助と里長のみとなった。薄暗い洞窟内には蝋燭の灯りだけが揺れている。

「……草之助殿」
 最後まで残った里長が静かに近づき、耳元で囁いた。「分かっておろうな? 中途半端な演技では許されぬ。景に本当に魅入られた演技も必要となろう」

「……心得ております」
 返事は低い。絞り出すような声音には悲嘆と諦念が混在していた。里長は一歩近づき、枯れ枝のような指で草之助の肩を掴んだ。

「それに――お前にはあまり時間がないであろう?」

 草之助の眉間が一層深い皺を作る。一月後、彼は戦雲渦巻く東の国境地帯におもむき、敵将の首を狙う任にく。激しい戦況と過酷な環境。流石の草之助とて今回ばかりは生還の保証はない。それを承知の上でこの決定を下したのか。

「その事を弟子に伝えるつもりはありません」
 鋭く言い切る彼の瞳には迷いの一片すら宿っていない。伝えることで彼らに要らぬ動揺を与えたくなかった。自分はただ忍の道に殉じる覚悟であり、未熟な弟子たちに余計な重荷を背負わせる資格などないのだと。

「ならばかな
 里長は頷き、去り際にもう一度念を押した。

「失敗は許されぬ。お前が弟子に残す最後の教えという思いで全てを賭けよ」

 そう言い残すと里長は外套を翻し、最後の蝋燭を吹き消して去っていった。闇が完全に洞窟を覆う。草之助は暫く動かなかった。額から滲み出た冷や汗が頬を伝い落ちていく。


(景……すまぬ)

 心中で弟子の姿を思い描く。かつて何も知らぬ無邪気な少年だった景。あれほど才に恵まれながら、どこかもろく儚げだった彼を自分が大事に育ててきた。その青年を今や自らけがそうとしている。胸の奥底から湧き上がる悔恨の念が嵐のように渦巻いた。

(これが……我が忍びとしての宿命か)

 歯を食い縛る。鉄の味が口腔に広がった。逃れる道はない。ならばせめて堂々と正面から挑むしかない。たとえそれが教え子への裏切りであったとしても――。

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