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本編
真夜中の混乱
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金曜の夜の東京メトロは遅い時間でも様々な人がいる。飲み会の余韻を纏った集団が改札で別れを惜しむ声、酔った若者たちの陽気な笑い声。それらが混ざり合いながらホームに流れるアナウンスにかき消されていく。悟はその喧噪に紛れ込み、うつむき加減でエスカレーターを降りた。頬が熱い。首筋に浮かんだ汗が着てきたシャツに染み込んでひんやりした感触を残す。
「よりによって……」
誰に言うでもない、悟の微かな独り言がコンクリートの柱の影に落ち、まもなく来た地下鉄の轟音がそれを飲み込んだ。車両は予想外の混雑を見せていた。座席に沈み込んだOLのヒールが微かに揺れ、吊り革を握るサラリーマンの指がスマホ画面を滑る。悟は座席に座ることもできず吊革を掴みながら窓の外を見た。地下鉄のトンネルの黒い闇に浮かぶ等間隔のライトが視界を切り裂く。その閃光のたびに、瞼の裏側で青い装甲の輪郭がちらついた気がした。
『たしかに、あいつの香りだった──』
記憶が鮮烈に蘇る。廃墟の埃っぽい匂い。ブルーファルコンの鋼鉄の戦闘スーツが擦れる冷たい感覚。熱い吐息が悟の耳元をかすめる瞬間の温度差。そして彼自身が放っていたその香り。電車の揺れと共に脈打つ鼓動が加速していく。太腿の筋肉に僅かに力が入るのを感じた。
最寄駅を降りると、一斉に押し寄せた疲労感が重い澱となって悟の背中から腰へと伝う。駅の階段を一段ずつ登る動作さえ今は億劫に感じた。地上に出ると、見上げた夜空にはあの夜と形の違う半月が鋭く浮かんでいた。薄曇りの黒い雲がゆっくり流れ、満ち欠けの輪郭を暈している。遠くでパトカーのサイレンが甲高い蛇行音を残し、高架下の飲食店群からは揚げ物の油が焦げる匂いと安酒の甘酸っぱい匂いが混ざった風が漂ってくる。
大通りから一本入った路地に入り、小さな交差点で信号待ちをしている時、悟は向かいのビルに灯る小さなバルの客達の姿をぼんやり眺めた。テーブルごとに浮かぶグラスや料理皿の輪郭が硝子越しに揺らいで見える。人々の、自由で、楽しげな笑い声が切れ切れに届く。
居た堪れなくなって、スマホを取り出し通知を確認するフリをした。だが指先は画面を滑らせただけで何も見ていなかった。悟は、ただこの夜の逃げ場を探していた。顔を伏せたまま、早足で曲がった角を折れればようやく見慣れたマンションの入り口だった。エントランスホールの鏡に映る己の顔は、一週間の疲れが克明に浮かんでいる。やや土気色の肌、唇は乾いていて、我ながら酷い有様だった。
『……やべぇ顔』
電子音が鳴って、エレベーターが7階に停まる。扉が開くと同時に再び夜の空気が頬を撫でた。静寂の中、薄暗い共用廊下の蛍光灯が弱々しく瞬く。自分の部屋のドアを前にして悟は深呼吸した。カードキーをスリットに滑らせる。電子錠の解錠音が無機質に響き、ドアを引く動作で内側へ倒れ込みそうになる。
「あぶね……」
玄関壁に肩をもたせ掛けながらスニーカーを脱ぐ。一日履き続けた靴底のゴム臭が足首にまとわりつく。明かりを点けずにそのまま暗い部屋へと進む。カーテンが閉まったリビングは一人暮らしの男子大学生の、雑然とした普段の生活空間のままだった。ベッドの上で畳まれていないジャージが無造作に重なり、テーブルには昨晩開けた炭酸飲料のペットボトルが汗をかいている。空調の室外機が遠くで規則的な唸りをあげる。
「はぁ……」
深く息を吐き出して荷物を床に落とす。視線を上げるとカーテンの隙間から街の灯りが一条垂れ下がっていた。ネオンサインがビルのガラス面に反射し、星屑のように揺らめく。その窓辺が切り取る東京の夜景は不変だった。だが今宵、その輝きは妙に心を刺す。
冷えた指先でカーテンを引くと同時に外灯の白い光が遮られ、室内は暗闇に沈む。悟は一瞬だけ孤独の温もりを感じた。外界と分断された1DKの空間に、ホッと胸を撫で下ろす。しかし、それでも──先程のバイト中の出来事から脈打つ鼓動が元に戻ることはなかった。バックヤードで脇腹に伝わった汗の滴の感触が、まだ冷たく感じる。
(違う、あれは……ただの事故だった)
呪文のように唱える言葉。一週間かけて自分自身に言い聞かせてきた暗示。あの夜のブルーファルコンとの一件は、異常な状況が引き起こした、敵同士の偶発的接触による単なる事故なのだと。
なのに、この一週間、毎晩熱を持つ己の体はその自己暗示を容易く裏切った。他でもない自分自身が、まだあの出来事に囚われていたのだ。
夜の廃墟で見た青い装甲の下の獰猛な男と、ストイックにさえ見えた先ほどの若いサラリーマンの男は、にわかに同一人と思えなかった。
でも──もしもあいつの正体が本当に、彼だったとしたら?
それはつまり──
彼が、俺を抱いたんだろうか。
「……!」
思わずその瞬間をリアルに想像してしまい喉が鳴った。指先が無意識にシャツの第二ボタンを摘む。
「マジでいい加減にしろ……俺」
かぶりを振った瞬間、先程の男の姿がフラッシュバックした。ネイビーのスーツが映える長身に、磨かれた黒い革靴。そして……あの端正な顔立ちに、低い声色。
『……あんな男でも、乱れることがあるんだろうか……?』
スーツ姿の男の皮を剥けば一体どんな本性が現れるのか。一度そんなことを考えてしまった途端、ぞくっと震えが走る。一週間封印してきた記憶が堰を切ったように溢れ出す。埃っぽいベッドに押し付けられた身体の痛み。鋼鉄の鎧が擦れる冷たさ。そしてその下から滲み出てくる男の熱──。悟の身体が段々と熱くなっていく……。
「汗すげぇし……、早く風呂……入らないと」
言い訳じみた呟きが譫言のように唇から漏れる。しかし体の芯に灯った熱に煽られ、悟の指は既にシャツのボタンをひとつずつ外し始めていた。第三ボタンを外した時、胸元に溜まっていた熱気がふわりと解放される。続いて第四ボタンへ。
「……っ」
最後のボタンを外すと同時にシャツを剥ぎ取った。汗で湿った布地が肘に引っかかり、そのまま腕を抜く。上半身裸になった肌に部屋の空気が触れた瞬間、全身が粟立つ。寒さだけでない、ツンと乳首の先端が硬く尖っていく理由を、悟自身が一番よく分かっていた。
シャツを洗濯籠に放り捨てる動作が妙にぎこちない。ジーパンを脱ぎ去ろうとして足をもつれさせる。床に打ちつけた爪先の痛みさえ今はさほど気にならない。
浴室の戸を開け放ったまま、ついにボクサーパンツ一枚の姿になった時だった。悟はゆっくりと洗面台に凭れかかり、下着越しに股間に手をやった。白い蛍光灯の下で浮き上がるソコはすでに薄い布地を押し上げる硬さがある。指先で優しく捏ねるように撫でると全身に鳥肌が立った。鏡の中で目を見開く己と視線が合う。怯えと期待が入り混じった情けない顔。これ以上見たくない。こんな自分と向き合いたくない。
「クソっ……」
罵りながらも、もはや悟は認めざるを得なかった。一週間、あの夜以来禁欲していた若者の体が、今夜出会った男によって記憶を一気に呼び覚まされたことで限界を迎え、積もり積もった性欲を解放せんとしていることを。心臓が勢い良く跳ね上がる。空調の風が汗で濡れた首筋を撫でると寒気と快感が同時に走り抜けた。
締め切った窓の外では深夜の都会の喧噪がかすかに響き、その猥雑さが今の己の状況と奇妙なシンクロを見せている。
(違う……あんな奴、敵なんだ。俺はあいつを憎んでる……)
理性がやめろと警告するように囁く。しかし手は既にボクサーパンツのゴムへ伸びており、指が布地と素肌の間に滑り込んでいた。素肌を舐める熱い指の感触はこれから始まる事を想起させ、悟が一瞬躊躇する。だが戸惑う心を置き去りにしたまま、次の瞬間には悟の右手が下着を引き下げていた。
「よりによって……」
誰に言うでもない、悟の微かな独り言がコンクリートの柱の影に落ち、まもなく来た地下鉄の轟音がそれを飲み込んだ。車両は予想外の混雑を見せていた。座席に沈み込んだOLのヒールが微かに揺れ、吊り革を握るサラリーマンの指がスマホ画面を滑る。悟は座席に座ることもできず吊革を掴みながら窓の外を見た。地下鉄のトンネルの黒い闇に浮かぶ等間隔のライトが視界を切り裂く。その閃光のたびに、瞼の裏側で青い装甲の輪郭がちらついた気がした。
『たしかに、あいつの香りだった──』
記憶が鮮烈に蘇る。廃墟の埃っぽい匂い。ブルーファルコンの鋼鉄の戦闘スーツが擦れる冷たい感覚。熱い吐息が悟の耳元をかすめる瞬間の温度差。そして彼自身が放っていたその香り。電車の揺れと共に脈打つ鼓動が加速していく。太腿の筋肉に僅かに力が入るのを感じた。
最寄駅を降りると、一斉に押し寄せた疲労感が重い澱となって悟の背中から腰へと伝う。駅の階段を一段ずつ登る動作さえ今は億劫に感じた。地上に出ると、見上げた夜空にはあの夜と形の違う半月が鋭く浮かんでいた。薄曇りの黒い雲がゆっくり流れ、満ち欠けの輪郭を暈している。遠くでパトカーのサイレンが甲高い蛇行音を残し、高架下の飲食店群からは揚げ物の油が焦げる匂いと安酒の甘酸っぱい匂いが混ざった風が漂ってくる。
大通りから一本入った路地に入り、小さな交差点で信号待ちをしている時、悟は向かいのビルに灯る小さなバルの客達の姿をぼんやり眺めた。テーブルごとに浮かぶグラスや料理皿の輪郭が硝子越しに揺らいで見える。人々の、自由で、楽しげな笑い声が切れ切れに届く。
居た堪れなくなって、スマホを取り出し通知を確認するフリをした。だが指先は画面を滑らせただけで何も見ていなかった。悟は、ただこの夜の逃げ場を探していた。顔を伏せたまま、早足で曲がった角を折れればようやく見慣れたマンションの入り口だった。エントランスホールの鏡に映る己の顔は、一週間の疲れが克明に浮かんでいる。やや土気色の肌、唇は乾いていて、我ながら酷い有様だった。
『……やべぇ顔』
電子音が鳴って、エレベーターが7階に停まる。扉が開くと同時に再び夜の空気が頬を撫でた。静寂の中、薄暗い共用廊下の蛍光灯が弱々しく瞬く。自分の部屋のドアを前にして悟は深呼吸した。カードキーをスリットに滑らせる。電子錠の解錠音が無機質に響き、ドアを引く動作で内側へ倒れ込みそうになる。
「あぶね……」
玄関壁に肩をもたせ掛けながらスニーカーを脱ぐ。一日履き続けた靴底のゴム臭が足首にまとわりつく。明かりを点けずにそのまま暗い部屋へと進む。カーテンが閉まったリビングは一人暮らしの男子大学生の、雑然とした普段の生活空間のままだった。ベッドの上で畳まれていないジャージが無造作に重なり、テーブルには昨晩開けた炭酸飲料のペットボトルが汗をかいている。空調の室外機が遠くで規則的な唸りをあげる。
「はぁ……」
深く息を吐き出して荷物を床に落とす。視線を上げるとカーテンの隙間から街の灯りが一条垂れ下がっていた。ネオンサインがビルのガラス面に反射し、星屑のように揺らめく。その窓辺が切り取る東京の夜景は不変だった。だが今宵、その輝きは妙に心を刺す。
冷えた指先でカーテンを引くと同時に外灯の白い光が遮られ、室内は暗闇に沈む。悟は一瞬だけ孤独の温もりを感じた。外界と分断された1DKの空間に、ホッと胸を撫で下ろす。しかし、それでも──先程のバイト中の出来事から脈打つ鼓動が元に戻ることはなかった。バックヤードで脇腹に伝わった汗の滴の感触が、まだ冷たく感じる。
(違う、あれは……ただの事故だった)
呪文のように唱える言葉。一週間かけて自分自身に言い聞かせてきた暗示。あの夜のブルーファルコンとの一件は、異常な状況が引き起こした、敵同士の偶発的接触による単なる事故なのだと。
なのに、この一週間、毎晩熱を持つ己の体はその自己暗示を容易く裏切った。他でもない自分自身が、まだあの出来事に囚われていたのだ。
夜の廃墟で見た青い装甲の下の獰猛な男と、ストイックにさえ見えた先ほどの若いサラリーマンの男は、にわかに同一人と思えなかった。
でも──もしもあいつの正体が本当に、彼だったとしたら?
それはつまり──
彼が、俺を抱いたんだろうか。
「……!」
思わずその瞬間をリアルに想像してしまい喉が鳴った。指先が無意識にシャツの第二ボタンを摘む。
「マジでいい加減にしろ……俺」
かぶりを振った瞬間、先程の男の姿がフラッシュバックした。ネイビーのスーツが映える長身に、磨かれた黒い革靴。そして……あの端正な顔立ちに、低い声色。
『……あんな男でも、乱れることがあるんだろうか……?』
スーツ姿の男の皮を剥けば一体どんな本性が現れるのか。一度そんなことを考えてしまった途端、ぞくっと震えが走る。一週間封印してきた記憶が堰を切ったように溢れ出す。埃っぽいベッドに押し付けられた身体の痛み。鋼鉄の鎧が擦れる冷たさ。そしてその下から滲み出てくる男の熱──。悟の身体が段々と熱くなっていく……。
「汗すげぇし……、早く風呂……入らないと」
言い訳じみた呟きが譫言のように唇から漏れる。しかし体の芯に灯った熱に煽られ、悟の指は既にシャツのボタンをひとつずつ外し始めていた。第三ボタンを外した時、胸元に溜まっていた熱気がふわりと解放される。続いて第四ボタンへ。
「……っ」
最後のボタンを外すと同時にシャツを剥ぎ取った。汗で湿った布地が肘に引っかかり、そのまま腕を抜く。上半身裸になった肌に部屋の空気が触れた瞬間、全身が粟立つ。寒さだけでない、ツンと乳首の先端が硬く尖っていく理由を、悟自身が一番よく分かっていた。
シャツを洗濯籠に放り捨てる動作が妙にぎこちない。ジーパンを脱ぎ去ろうとして足をもつれさせる。床に打ちつけた爪先の痛みさえ今はさほど気にならない。
浴室の戸を開け放ったまま、ついにボクサーパンツ一枚の姿になった時だった。悟はゆっくりと洗面台に凭れかかり、下着越しに股間に手をやった。白い蛍光灯の下で浮き上がるソコはすでに薄い布地を押し上げる硬さがある。指先で優しく捏ねるように撫でると全身に鳥肌が立った。鏡の中で目を見開く己と視線が合う。怯えと期待が入り混じった情けない顔。これ以上見たくない。こんな自分と向き合いたくない。
「クソっ……」
罵りながらも、もはや悟は認めざるを得なかった。一週間、あの夜以来禁欲していた若者の体が、今夜出会った男によって記憶を一気に呼び覚まされたことで限界を迎え、積もり積もった性欲を解放せんとしていることを。心臓が勢い良く跳ね上がる。空調の風が汗で濡れた首筋を撫でると寒気と快感が同時に走り抜けた。
締め切った窓の外では深夜の都会の喧噪がかすかに響き、その猥雑さが今の己の状況と奇妙なシンクロを見せている。
(違う……あんな奴、敵なんだ。俺はあいつを憎んでる……)
理性がやめろと警告するように囁く。しかし手は既にボクサーパンツのゴムへ伸びており、指が布地と素肌の間に滑り込んでいた。素肌を舐める熱い指の感触はこれから始まる事を想起させ、悟が一瞬躊躇する。だが戸惑う心を置き去りにしたまま、次の瞬間には悟の右手が下着を引き下げていた。
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