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本編
15話
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屋敷に戻ったイリスは慌てて出迎えた侍女に申し訳無さそうに言葉を放つ。
「ごめんなさい。ドレスを汚してしまったわ」
「いえ!お怪我はありませんでしたかお嬢様!」
「ええ。グラスが倒れただけだし」
予定より早い帰宅に面食らったが、ドレスの汚れを見れば流石にこのまま会場にいるのは躊躇われたのだろう事は侍女にも理解できた。
一緒に帰ってきたロートスはイリスに着替えを促すと、そのまま己も着替えるために自室へと移動した。
「お嬢様、お風呂はどうなさいますか?」
「準備できる?」
「直ぐに準備いたします」
自室に戻れば侍女が汚れたドレスを回収しすぐに風呂の準備が出来たと呼びに来る。魔具のお陰で湯を沸かすということが簡単になったのもあり、入ろうと思えばいつでも入れるのは本当にありがたいとイリスはお気に入りのオイルを片手に風呂へ向かった。
自室の直ぐ隣に設置された風呂場は余り広くはないが一人で入るには十分で、イリスは手伝いを申し出た侍女を下がらせ鼻歌を歌いながら湯船に浸かる。
優しい香りのオイルを湯船に少しだけ垂らして、手足を伸ばせば疲れもじわじわと抜けてくる。ハイヒールなどという凶器を開発した人間を子供の頃は何度も呪ったが、足を鍛えればそれなりに耐えることはできる。その上ダンスレッスンで足を痛めたイリスのためにミュラー商会が爪先への負担を軽減するクッション材を開発し、今となっては淑女の必須アイテムとなっている。けれどやはり疲れないという事はないので、念入りにイリスは己のふくらはぎをマッサージした。
「イリス様」
「なぁに?」
「殿下が後ほどいらっしゃるようです」
恐らく先触れが来たのだろう。そう思いイリスは失礼のないように準備をして欲しいと侍女に言葉を放つ。恐らく今日の中座の件だろう事は予測していた。あとでレアには詫び状を送ろうと思っていたのだが、ルフトが直接くるとは思わずイリスは僅かに瞳を細めた。
そしてお気に入りの深い赤のワンピースに着替え、侍女が小さな器に浮かべてくれた白い花に視線を落とす。今日髪を飾っていたものだ。毎回こうやって散るまで花を楽しんでいる。
「……レア様へのお手紙を預けたら失礼かなぁ」
第二王子をメッセンジャーにするのは気が引けたが早めにレアに侘びたい気持ちがあった。それを正直に言えばルフトも気を悪くしないかもしれないと思い直してイリスは机に向かう。
さらさらと文字を書き連ね、間違いがないか何度も見直した後イリスはその手紙を封筒へ入れる。これで問題はないだろうと立ち上がると、ふらっと廊下へ出た。
散会になるまでにもう少し時間がかかるだろうとロートスの所へ行って時間つぶしでもしようと思ったのだ。けれど予想外の人物が廊下を歩いていてイリスは驚いたように瞳を見開く。
「ヴァイス。え、ルフト様と一緒?」
「いや一人だ。末姫から詫び状預かった」
「……は?まだ散会してないわよね」
「してねぇな」
となればレアが大急ぎで手紙を書いてヴァイスに寄越したのだろう。差し出された手紙を驚いたように眺めながら口を開いた。
「丁度私もレア様へのお詫び書き終わったのだけど……え、どうしよう。読んでから書き直した方がいいかしらこれ」
「どっちでもいいんじゃねぇの。書き直すなら待つし、読んでから決めりゃいい」
「それもそうね」
ヴァイスを案内してきた侍女にお茶の準備を指示すると、イリスはヴァイスを連れて自室へ引き返してゆく。
中央に設置された応接用ソファーにヴァイスは座ると、レアからの手紙を読むイリスをぼんやりと眺めていた。
お茶を運んできた侍女と一緒にロートスも入ってきてヴァイスは僅かに顔を上げたが、イリスの邪魔をしないようにと言うように自分の隣に座るよう無言で促した。その空気を察してか、侍女も茶を淹れ終わった後声をかけることなく静かに退出する。
「……えぇ。何か凄い気にしてるじゃないのレア様……いいのに」
「主催だしそんなもんだろ」
客に不快な思いをさせたのなら、理由はどうあれ主催の不手際となる面倒な貴族社会。イリスもそれは理解していたが、速攻でヴァイスに詫び状を持たせた事といいかなり気にしているのは文面からも読み取れた。
「後で直接お話した方がいいかしら」
「そうだな。手紙どうすんだ。書き直すのか」
「そうね、その辺も書いておくわ。ちょっと待ってて」
手紙を書くためにソファーから立ち上がったイリスは、いそいそと机に向かい新しい便箋に文字を連ねてゆく。
それを眺めながらロートスは小声で言葉を零した。
「レア様の様子は?」
「イリスが流したから態々混ぜっ返しはしなかったな」
「へぇ。レア様も大人になったね」
「同じ年だろお前も」
「僕は大人気ないから姉さんと一緒に退散した」
しれっとロートスが言い放ったのが面白かったのかヴァイスは口元を緩める。イリスが気にしなくていいと言ったのに、レアが咎めれば空気は最悪なものになっただろう。けれどレアは堪えて結局イリスの顔を立てる形で、医師の準備までしてあくまで事故だと言う方向に持っていったのだ。
とは言えあくまで表面上の話であり、水面下ではまたややこしい事になるだろう事は嫌でも予測できてヴァイスは思わず小さくため息をつく。
「イリス」
「なぁに?」
「末姫が詫びにドレスか装飾品贈りたいんだと。どっちがいい」
「貴族のそういうやり取り本当面倒臭いわよね。ドレスよりは装飾品かしら。使い回しとかしやすい」
「伝えとく。今日のイヤリングはどうだった?」
「あれ可愛いわよね。こう……お花モチーフですっごい繊細な細工が入ってるの好き。人気あるの分かる」
振り返ったイリスが嬉しそうに声を弾ませて感想を言ったのを満足そうにヴァイスは眺める。会話をしていた令嬢からも褒められていたので、世辞を抜きにしてもそこそこ好評なのだろうとヴァイスは機嫌良さそうに、そりゃ良かった、と言い放ち瞳を細めた。
「また素敵な装飾品があれば紹介してね」
「あぁ」
「今度久々に直接店に行ってみれば?レア様も誘って」
「それいいわね」
ロートスの提案にイリスは嬉しそうに表情を綻ばせる。装飾品に強いこだわりがある方ではないが、それでも綺麗なものを見るのは楽しいし好きなのだ。
そして漸く返事を書き終えたイリスは封筒をヴァイスへ渡した。
「お手紙お願いね。できればお店行く時も一緒に来てくれる?こう……流行り物あんまり解らなくて……」
言いにくそうにイリスが言うと、ヴァイスは浅く笑って了承した。令嬢達の話題として上がるので色々とチェックはしているのだが流行り廃りというのは早くて追いつかない。その点ヴァイスは売る側であるので、真っ先にその手の情報が集まるのだ。寧ろ流行を作り出す方ですらある。
「姉さんってヴァイスには直ぐ頼み事するよね」
「……ごめんなさい。お姉ちゃんはヴァイスだけがこの手のことに関しては頼りなのです……」
「いや分かる。うちは外への興味死んでるし。父さんも僕もヴァイスが窓口だし」
「ヴァイスに愛想尽かされたら地味にヤバいわよね我が家」
「昔の好き勝手やってた頃に戻るだけじゃねぇの。今はイリスが王家の婚約者やってるから周りに合わせてるだけだろうに」
言ってしまえば嫡男もヴァイスから定期的に送られてくる情報を元にお抱え工房の魔具生産を調整したり、素材調達をしていると完全に頼っている状態である。
そんなノイ家であるが昔はどうだったかといえば、ヴァイスの言葉通り好きにやっていた。好きに魔具を開発して、適当に売って、最低限の納税をして、好き放題に魔物を狩っていたのだ。貴族らしくないと言われても、変人奇人のたぐいだと距離を置かれても、敵対するほどの者が出なかったのは、ひとえに国庫へ収める金が大きかったのと国政に対して無関心であったからだ。好敵手になりえないと言う判断をされた。
イリスが婚約者となった時は珍しく中央研究所に天才を送り込んできたのもあり警戒されたが、国庫に入る金を跳ね上げた以外は相変わらず国政に無関心であったので、恐らく愛娘可愛さに中央に彼等なりに寄り添っているのだろうと思われ、今は寧ろ歓迎されている状態である。
「愛想つかすわけねぇだろ。命の恩人相手に」
「ヴァイスって本当義理堅いタイプよね」
笑いながら放たれたヴァイスの言葉にイリスは瞳を細めてそう呟く。けれど絶対に自分たちを陥れたり裏切ったりしないことは知っていた。利用はするのだが。けれど不快な利用のしかたは絶対にしない。精々広告塔レベルである。
「お嬢様。殿下がお越しになりました」
「ええ。直ぐ行くわ。ヴァイスは帰る?」
「そうだな」
立ち上がるイリスにそう返事をすると、ロートスと共に彼も立ち上がった。
そして一緒に玄関ホールでルフトを出迎えれば、彼は驚いたような顔をしてヴァイスに言葉を放った。
「来てたのか」
「末姫のお使いだよ」
「あぁ、それは済まなかった」
ヴァイスの持つ手紙がイリスからの返事なのだと察したルフトは申し訳なさそうに眉を下げた。途中で姿が見えなくなっていたので帰ったのだと思っていたが、まさかレアが彼を使いっぱしりにしていたとは思わなかったのだろう。
「末姫に返事は渡しておく」
そう言い放つとさっさとヴァイスは玄関を出てゆく。それを見送ったルフトは、イリスの方に視線を戻すと持っていた花束を彼女に渡した。
「今日は色々と済まなかった」
「いえ。エーファさんのお加減は?」
「レアの呼んだ医師に見せたが、大したことはないようだ」
「良かった」
渡された花束を抱きしめてイリスは淡く微笑む。そして花の礼もイリスは口にした。慈しむ様に花を眺め、嬉しそうに表情を綻ばせている。
「今日はイリスも疲れただろう。ゆっくり休んでくれ」
「今お茶の準備をさせますわ」
「いや、このまま帰る。慌ただしくして済まない」
ルフトの言葉にイリスは驚いたように瞳を僅かに見開いたが、無理に引き止める事はせずに花束を侍女に預けるとルフトを見送る。
また明日、イリスの優しい声色にルフトは頷くとオリヴァーと共に馬車に乗り込む。
そして細く息を吐き出した。
「お疲れさまです殿下」
「帰ったらレアの小言だ」
イリスに会うこと自体が億劫だと思ったことはない。寧ろああやって花を贈れば嬉しそうに微笑み、いつでも己を気遣ってくれる。けれどそんな癒やしも城へ帰ればレアが不満げに出迎えるのかと思うと自然と気が重くなってしまう。
しかしオリヴァーは少しだけ笑うと口を開いた。
「先に帰ったヴァイスが届けた手紙のお陰で機嫌が治ってるかもしれませんよ」
「そうあって欲しいものだ」
恐らく仕事は先に片付けたいというヴァイスの性格からして、さっさとレアの元へ手紙を届けたであろう。イリスが不満を手紙に書くとは思えないし寧ろレアを労る言葉が綴られていると想像がついたルフトは表情を緩めた。
「……イリスは婚約者として何一つ欠点はないな」
突然そう言い放ったルフトを不思議そうな表情でオリヴァーは眺める。そんな当たり前の事を今更言い出したのに驚いたのだろうか、返事に困っている様であった。
「いや。完璧すぎて頼られる事もないのは物足りないと思うだけだ」
「随分贅沢な悩みですね」
流石に呆れた様にオリヴァーは返事をする。不満がないことが不満、その様な感じなのだろうかとぼんやりと察することはできるが、突然その様な事を言い出した意図自体はわからなかったのか、じっとルフトの表情を伺う。
「私の父は……母に惚れ込んで結婚してもらったらしいのでよくわかりませんが……」
「ん?」
「例え政略結婚であっても、仲睦まじい夫婦は沢山おりますよ殿下」
「……あぁ、そうだな。イリスは本当に素晴らしい婚約者だと思うよ」
仮初の婚約だと言うことをヴァイスと違ってオリヴァーは知らない。当然このまま卒業すれば結婚に至ると思っているのだろう。婚約者として十分すぎる程支えてきてくれていたし、王族、貴族、庶民からの受けも良い。
彼女の淡い微笑みも、己を労る言動も、控えめな所も好ましい。けれど、好ましいと言うだけで、愛おしいとは思わない己自身の気持ちも認めていた。
けれど優秀な彼女を手放すのは惜しいという気持ちもあって、最近は結局自分はこの仮初の婚約をどうしたいのかよく解らなくなっていた。
兄である王太子も結婚したのでいずれ子ができれば盤石となるだろう。そして国を支えるというイリスの役目は終わる。
「オリヴァー」
「はい」
「お前は誰かに恋した事はあるか?」
「は?」
何の前触れもないルフトの言葉にオリヴァーは思わず間の抜けた返事をした。それを可笑しそうに眺めるとルフトは瞳を伏せた。
「いや、どうかと思っただけだ」
「そうですか……。まぁ、一度ぐらいはノイ伯爵や風切姫のような恋をしてみたいと子供の頃は思っていましたけれど……」
「あれは恋などと可愛いものではないだろう」
「情熱的な愛ですね」
一目惚れをして一○○日通い続けた。そして結ばれた後も、片割れがこの世を去った後も、ずっと思い続ける強い思い。
イリスもいつかそんな相手を見つけるのだろうか。自分にもそんな相手がいるのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えながら、ルフトは緩やかに瞳を閉じた。
「ごめんなさい。ドレスを汚してしまったわ」
「いえ!お怪我はありませんでしたかお嬢様!」
「ええ。グラスが倒れただけだし」
予定より早い帰宅に面食らったが、ドレスの汚れを見れば流石にこのまま会場にいるのは躊躇われたのだろう事は侍女にも理解できた。
一緒に帰ってきたロートスはイリスに着替えを促すと、そのまま己も着替えるために自室へと移動した。
「お嬢様、お風呂はどうなさいますか?」
「準備できる?」
「直ぐに準備いたします」
自室に戻れば侍女が汚れたドレスを回収しすぐに風呂の準備が出来たと呼びに来る。魔具のお陰で湯を沸かすということが簡単になったのもあり、入ろうと思えばいつでも入れるのは本当にありがたいとイリスはお気に入りのオイルを片手に風呂へ向かった。
自室の直ぐ隣に設置された風呂場は余り広くはないが一人で入るには十分で、イリスは手伝いを申し出た侍女を下がらせ鼻歌を歌いながら湯船に浸かる。
優しい香りのオイルを湯船に少しだけ垂らして、手足を伸ばせば疲れもじわじわと抜けてくる。ハイヒールなどという凶器を開発した人間を子供の頃は何度も呪ったが、足を鍛えればそれなりに耐えることはできる。その上ダンスレッスンで足を痛めたイリスのためにミュラー商会が爪先への負担を軽減するクッション材を開発し、今となっては淑女の必須アイテムとなっている。けれどやはり疲れないという事はないので、念入りにイリスは己のふくらはぎをマッサージした。
「イリス様」
「なぁに?」
「殿下が後ほどいらっしゃるようです」
恐らく先触れが来たのだろう。そう思いイリスは失礼のないように準備をして欲しいと侍女に言葉を放つ。恐らく今日の中座の件だろう事は予測していた。あとでレアには詫び状を送ろうと思っていたのだが、ルフトが直接くるとは思わずイリスは僅かに瞳を細めた。
そしてお気に入りの深い赤のワンピースに着替え、侍女が小さな器に浮かべてくれた白い花に視線を落とす。今日髪を飾っていたものだ。毎回こうやって散るまで花を楽しんでいる。
「……レア様へのお手紙を預けたら失礼かなぁ」
第二王子をメッセンジャーにするのは気が引けたが早めにレアに侘びたい気持ちがあった。それを正直に言えばルフトも気を悪くしないかもしれないと思い直してイリスは机に向かう。
さらさらと文字を書き連ね、間違いがないか何度も見直した後イリスはその手紙を封筒へ入れる。これで問題はないだろうと立ち上がると、ふらっと廊下へ出た。
散会になるまでにもう少し時間がかかるだろうとロートスの所へ行って時間つぶしでもしようと思ったのだ。けれど予想外の人物が廊下を歩いていてイリスは驚いたように瞳を見開く。
「ヴァイス。え、ルフト様と一緒?」
「いや一人だ。末姫から詫び状預かった」
「……は?まだ散会してないわよね」
「してねぇな」
となればレアが大急ぎで手紙を書いてヴァイスに寄越したのだろう。差し出された手紙を驚いたように眺めながら口を開いた。
「丁度私もレア様へのお詫び書き終わったのだけど……え、どうしよう。読んでから書き直した方がいいかしらこれ」
「どっちでもいいんじゃねぇの。書き直すなら待つし、読んでから決めりゃいい」
「それもそうね」
ヴァイスを案内してきた侍女にお茶の準備を指示すると、イリスはヴァイスを連れて自室へ引き返してゆく。
中央に設置された応接用ソファーにヴァイスは座ると、レアからの手紙を読むイリスをぼんやりと眺めていた。
お茶を運んできた侍女と一緒にロートスも入ってきてヴァイスは僅かに顔を上げたが、イリスの邪魔をしないようにと言うように自分の隣に座るよう無言で促した。その空気を察してか、侍女も茶を淹れ終わった後声をかけることなく静かに退出する。
「……えぇ。何か凄い気にしてるじゃないのレア様……いいのに」
「主催だしそんなもんだろ」
客に不快な思いをさせたのなら、理由はどうあれ主催の不手際となる面倒な貴族社会。イリスもそれは理解していたが、速攻でヴァイスに詫び状を持たせた事といいかなり気にしているのは文面からも読み取れた。
「後で直接お話した方がいいかしら」
「そうだな。手紙どうすんだ。書き直すのか」
「そうね、その辺も書いておくわ。ちょっと待ってて」
手紙を書くためにソファーから立ち上がったイリスは、いそいそと机に向かい新しい便箋に文字を連ねてゆく。
それを眺めながらロートスは小声で言葉を零した。
「レア様の様子は?」
「イリスが流したから態々混ぜっ返しはしなかったな」
「へぇ。レア様も大人になったね」
「同じ年だろお前も」
「僕は大人気ないから姉さんと一緒に退散した」
しれっとロートスが言い放ったのが面白かったのかヴァイスは口元を緩める。イリスが気にしなくていいと言ったのに、レアが咎めれば空気は最悪なものになっただろう。けれどレアは堪えて結局イリスの顔を立てる形で、医師の準備までしてあくまで事故だと言う方向に持っていったのだ。
とは言えあくまで表面上の話であり、水面下ではまたややこしい事になるだろう事は嫌でも予測できてヴァイスは思わず小さくため息をつく。
「イリス」
「なぁに?」
「末姫が詫びにドレスか装飾品贈りたいんだと。どっちがいい」
「貴族のそういうやり取り本当面倒臭いわよね。ドレスよりは装飾品かしら。使い回しとかしやすい」
「伝えとく。今日のイヤリングはどうだった?」
「あれ可愛いわよね。こう……お花モチーフですっごい繊細な細工が入ってるの好き。人気あるの分かる」
振り返ったイリスが嬉しそうに声を弾ませて感想を言ったのを満足そうにヴァイスは眺める。会話をしていた令嬢からも褒められていたので、世辞を抜きにしてもそこそこ好評なのだろうとヴァイスは機嫌良さそうに、そりゃ良かった、と言い放ち瞳を細めた。
「また素敵な装飾品があれば紹介してね」
「あぁ」
「今度久々に直接店に行ってみれば?レア様も誘って」
「それいいわね」
ロートスの提案にイリスは嬉しそうに表情を綻ばせる。装飾品に強いこだわりがある方ではないが、それでも綺麗なものを見るのは楽しいし好きなのだ。
そして漸く返事を書き終えたイリスは封筒をヴァイスへ渡した。
「お手紙お願いね。できればお店行く時も一緒に来てくれる?こう……流行り物あんまり解らなくて……」
言いにくそうにイリスが言うと、ヴァイスは浅く笑って了承した。令嬢達の話題として上がるので色々とチェックはしているのだが流行り廃りというのは早くて追いつかない。その点ヴァイスは売る側であるので、真っ先にその手の情報が集まるのだ。寧ろ流行を作り出す方ですらある。
「姉さんってヴァイスには直ぐ頼み事するよね」
「……ごめんなさい。お姉ちゃんはヴァイスだけがこの手のことに関しては頼りなのです……」
「いや分かる。うちは外への興味死んでるし。父さんも僕もヴァイスが窓口だし」
「ヴァイスに愛想尽かされたら地味にヤバいわよね我が家」
「昔の好き勝手やってた頃に戻るだけじゃねぇの。今はイリスが王家の婚約者やってるから周りに合わせてるだけだろうに」
言ってしまえば嫡男もヴァイスから定期的に送られてくる情報を元にお抱え工房の魔具生産を調整したり、素材調達をしていると完全に頼っている状態である。
そんなノイ家であるが昔はどうだったかといえば、ヴァイスの言葉通り好きにやっていた。好きに魔具を開発して、適当に売って、最低限の納税をして、好き放題に魔物を狩っていたのだ。貴族らしくないと言われても、変人奇人のたぐいだと距離を置かれても、敵対するほどの者が出なかったのは、ひとえに国庫へ収める金が大きかったのと国政に対して無関心であったからだ。好敵手になりえないと言う判断をされた。
イリスが婚約者となった時は珍しく中央研究所に天才を送り込んできたのもあり警戒されたが、国庫に入る金を跳ね上げた以外は相変わらず国政に無関心であったので、恐らく愛娘可愛さに中央に彼等なりに寄り添っているのだろうと思われ、今は寧ろ歓迎されている状態である。
「愛想つかすわけねぇだろ。命の恩人相手に」
「ヴァイスって本当義理堅いタイプよね」
笑いながら放たれたヴァイスの言葉にイリスは瞳を細めてそう呟く。けれど絶対に自分たちを陥れたり裏切ったりしないことは知っていた。利用はするのだが。けれど不快な利用のしかたは絶対にしない。精々広告塔レベルである。
「お嬢様。殿下がお越しになりました」
「ええ。直ぐ行くわ。ヴァイスは帰る?」
「そうだな」
立ち上がるイリスにそう返事をすると、ロートスと共に彼も立ち上がった。
そして一緒に玄関ホールでルフトを出迎えれば、彼は驚いたような顔をしてヴァイスに言葉を放った。
「来てたのか」
「末姫のお使いだよ」
「あぁ、それは済まなかった」
ヴァイスの持つ手紙がイリスからの返事なのだと察したルフトは申し訳なさそうに眉を下げた。途中で姿が見えなくなっていたので帰ったのだと思っていたが、まさかレアが彼を使いっぱしりにしていたとは思わなかったのだろう。
「末姫に返事は渡しておく」
そう言い放つとさっさとヴァイスは玄関を出てゆく。それを見送ったルフトは、イリスの方に視線を戻すと持っていた花束を彼女に渡した。
「今日は色々と済まなかった」
「いえ。エーファさんのお加減は?」
「レアの呼んだ医師に見せたが、大したことはないようだ」
「良かった」
渡された花束を抱きしめてイリスは淡く微笑む。そして花の礼もイリスは口にした。慈しむ様に花を眺め、嬉しそうに表情を綻ばせている。
「今日はイリスも疲れただろう。ゆっくり休んでくれ」
「今お茶の準備をさせますわ」
「いや、このまま帰る。慌ただしくして済まない」
ルフトの言葉にイリスは驚いたように瞳を僅かに見開いたが、無理に引き止める事はせずに花束を侍女に預けるとルフトを見送る。
また明日、イリスの優しい声色にルフトは頷くとオリヴァーと共に馬車に乗り込む。
そして細く息を吐き出した。
「お疲れさまです殿下」
「帰ったらレアの小言だ」
イリスに会うこと自体が億劫だと思ったことはない。寧ろああやって花を贈れば嬉しそうに微笑み、いつでも己を気遣ってくれる。けれどそんな癒やしも城へ帰ればレアが不満げに出迎えるのかと思うと自然と気が重くなってしまう。
しかしオリヴァーは少しだけ笑うと口を開いた。
「先に帰ったヴァイスが届けた手紙のお陰で機嫌が治ってるかもしれませんよ」
「そうあって欲しいものだ」
恐らく仕事は先に片付けたいというヴァイスの性格からして、さっさとレアの元へ手紙を届けたであろう。イリスが不満を手紙に書くとは思えないし寧ろレアを労る言葉が綴られていると想像がついたルフトは表情を緩めた。
「……イリスは婚約者として何一つ欠点はないな」
突然そう言い放ったルフトを不思議そうな表情でオリヴァーは眺める。そんな当たり前の事を今更言い出したのに驚いたのだろうか、返事に困っている様であった。
「いや。完璧すぎて頼られる事もないのは物足りないと思うだけだ」
「随分贅沢な悩みですね」
流石に呆れた様にオリヴァーは返事をする。不満がないことが不満、その様な感じなのだろうかとぼんやりと察することはできるが、突然その様な事を言い出した意図自体はわからなかったのか、じっとルフトの表情を伺う。
「私の父は……母に惚れ込んで結婚してもらったらしいのでよくわかりませんが……」
「ん?」
「例え政略結婚であっても、仲睦まじい夫婦は沢山おりますよ殿下」
「……あぁ、そうだな。イリスは本当に素晴らしい婚約者だと思うよ」
仮初の婚約だと言うことをヴァイスと違ってオリヴァーは知らない。当然このまま卒業すれば結婚に至ると思っているのだろう。婚約者として十分すぎる程支えてきてくれていたし、王族、貴族、庶民からの受けも良い。
彼女の淡い微笑みも、己を労る言動も、控えめな所も好ましい。けれど、好ましいと言うだけで、愛おしいとは思わない己自身の気持ちも認めていた。
けれど優秀な彼女を手放すのは惜しいという気持ちもあって、最近は結局自分はこの仮初の婚約をどうしたいのかよく解らなくなっていた。
兄である王太子も結婚したのでいずれ子ができれば盤石となるだろう。そして国を支えるというイリスの役目は終わる。
「オリヴァー」
「はい」
「お前は誰かに恋した事はあるか?」
「は?」
何の前触れもないルフトの言葉にオリヴァーは思わず間の抜けた返事をした。それを可笑しそうに眺めるとルフトは瞳を伏せた。
「いや、どうかと思っただけだ」
「そうですか……。まぁ、一度ぐらいはノイ伯爵や風切姫のような恋をしてみたいと子供の頃は思っていましたけれど……」
「あれは恋などと可愛いものではないだろう」
「情熱的な愛ですね」
一目惚れをして一○○日通い続けた。そして結ばれた後も、片割れがこの世を去った後も、ずっと思い続ける強い思い。
イリスもいつかそんな相手を見つけるのだろうか。自分にもそんな相手がいるのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えながら、ルフトは緩やかに瞳を閉じた。
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