ブレイン・コード

中七七三

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1.書き残された物語

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 粘りつくような夏の湿気の中、スマホの着信音が真夜中に鳴った。
 若月高志は、薄明りの中でベッドから手を伸ばしスマホを拾い上げる。隣で寝ている美咲を起こさぬようにだ。ベッドの上に乱れた彼女の長い髪を注意深く避ける。
 スマホの電子的な光が夜気の中に浮き上がる。
 弟からの着信だった。メールではなかった。
 若月はスマホを耳に当てた。
 
「兄貴か」
「ああ、秀明、どうしたんだ?」
「忠之が死んだ。従弟の忠之が」

 弟の秀明は従弟の死を告げた。淡々とだった。
 いつもと同じ口調だった。
 
「え? どうしたんだ? なにがあった?」

 高校に上がると疎遠になったとはいえ、小さなころはよく遊んだ従弟だった。
 若月は従弟の忠之が自分より3つ下だったはずだと思った。
 20代だ。まだ死ぬには若すぎる。 

「交通事故らしい」
「本当か……」
「まずは、伝えておくよ。その後の葬式とかのことはまた連絡する」
「分かった」

 話はそれで終わりだった。
 スマホを置く。喉の奥がざらつくような感じだった。
 知っている人間の死の知らせは嫌なものだと若月は思った。
 それは、いつも忘れている「自分の死」を想起させるからではないかと思った。

 人は確実に死ぬ。
 生きるということは死ぬことだ。死刑宣告を受けこの世に生まれる。
 ただ、普通は、その執行の日を知ることは永遠に出来ない。
 死ぬ瞬間を自覚することはできないからだ。
 それは、寝る瞬間を自覚できないのと同じだ。

 嫌な気分にはなったが、それ以上のものではない。
 そして、その嫌な気分を持続できるほど、人間の脳に持続力がないことも彼は知っていた。

 若月は再び、ベッドにもぐりこみ目をつぶった。

        ◇◇◇◇◇◇

 都内にある大学が、若月の職場だった。
 准教授。彼がその肩書きを得たのは一年前のことになる。

 次の日、午前中の講義が終わったときに、弟からメールが入った。
 通夜と葬儀の予定を簡単に書いたものだった。
 そこそこ大手のソフトウェア開発会社でSEをやっている弟だが、メールはいつもそっけない。
 元来、人と付き合うより、コンピュータを弄っている方が好きな人間なのだ。

(喪服、ズボンが入るかな――)

 とうとう30歳の大台にのった若月だが、数年前からやや太りだしている。喪服を使ったのはもう何年も前になる。
 
 同棲している美咲からは「なんか、最近お腹出てるかも。先生」と言われることがあった。若月は彼女のたおやかな白い指が自分の肌の上をさするのを思い返していた。

 また、スマホの着信音だった。
 弟ではなかった。今度は、その美咲からだった。

「どうした」
「先生、お昼食べた?」
「これからだけど」
「じゃあ、いっしょに食べよう」
「ああ、分かった」

 そして、他愛のない会話をして話を終える。
 彼女は若月の務める大学の三年だ。文学部の史学科の学生だった。イデオロギーに染まり、血と鉄の嵐が吹き荒れた近代現代史が好きという女子としてはどうも変わったタイプと言えた。
 
 認知言語学という奇妙な学問を専門としている彼が他人の興味の対象を「変わったタイプ」と評す資格があるかどうかは別問題としてだ。

 彼女との出会いは、一年生のときの一般教養の講義だった。彼がまだ講師であったときだ。
 やたらと、質問してくる女子だと思っていた。
 確かにその容姿には少なからず魅力的なモノを感じていたが、まさか今のようになるとは思ってもいなかった。

『先生が好きなんです。付き合って下さい』

 若月には、今でも克明に思いだせる。
 いきなり彼女の方からアプローチをかけられた。
 結果、撃墜されたのは、若月の方だった。
 気が付くと、10歳以上年下の学生を本気で好きになっていたのだからどうしようもない。

 彼は何とも言えない笑みの表情を作りながら学食の方に歩き出した。

        ◇◇◇◇◇◇

 従弟の葬式が終わった。

「兄貴、この後ちょっといいか」
「なんだ? 特に用はないが」
「実家に寄ってくれないか?」
「実家に? 構わないが」

 ひょろりと背の高い秀明が話しかけてきた。
 若月も175センチあるが、弟はそれよりも10センチは高い。
 お互い忙しく、会うのは久しぶりだ。正月以来だろうか。

 弟は実家で暮らしている。親戚になにかあったという連絡は実家にある。
 そして、弟が若月に連絡するというのが、普通のパターンだった。
 
「叔母さんから預かっているモノがあって、兄貴に見てほしい」
「叔母さんが?」
「忠之が死ぬ前に書いた絵だよ」
「絵? なんで俺にそんなものを……」
「ああ、絵というのは正確じゃないか。なんだ絵本? 絵と物語? そんなもんだよ」

 弟は表情を変えずに言った。淡々として抑揚のない話し方。
 昔から感情をあまり表に出さない奴だったが、人間としてはかなりの善人だ。善人ゆえに、他人との接触を最小限にしているのかもしれない。この世界は、善人が生きていくために最適化されているとはいえないからだ。

「なんで、そんなものを――」
「遺書かなにかじゃないかって言ってるんだよ。叔母さんは」
「オマエの話は、訳が分からんな」

 弟の秀明はじっと俺を見た。なんと説明していいのか、困っているのかもしれない。

「まあ、とにかく、見てくれればいい。専門だろ。心理学は」
「心理学か……」

 確かに高志は心理学の学位も持っていた。ただ、専門は「認知言語学」という学問だ。言語と人間の脳内の認知の関係を解析するという分野の学問だった。世間的な認知度は低ので、弟の言葉を否定する気もなかった。

「まあ、いいか―― 久ぶりに実家に寄るのも」

 数年前に母を亡くし、弟は父親と二人暮らしだ。
 父とは少しだけ言葉を交わした。とりとめのない話しだ。
 まあ、大人になった親子の会話とはそんなものだろう。

「俺の車で行くから」
「分かった」

 3人は秀明の運転する車で葬儀場を後にした。

        ◇◇◇◇◇◇

 リビングには親子三人が揃っていた。
 父親は黙って座っている。そもそも口数はそれほど多い人間じゃない。

 高志はコピー用紙を手に取った。

「これが、忠之の書いたものか」

 ありふれたどこにでもある紙だ。
 ただ、そこに書かれているモノはなんとも形容しがたいものだった。

「叔母さんが部屋で見つけたらしいんだけどね」

「で、俺はこれを読んでどうすればいいだ? ダイイングメッセージを読み取れとでもいうのか?」

「いや、学者の目から見て、気付くことがあれば、教えて欲しいだけらしい」

「まあ、いいけど。大したことは言えないと思うぞ」

 そして、若月高志は、その「物語」を読み始めたのだった。
 
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 魔女の呪いにかかった姫は目覚めることのない「封印の眠り」についたのです。

 そして、魔女は姫を大陸の西の最果て――
「高い塔」へ封じ込めたのです。

 姫を助けるために、王様は軍隊を差し向けました。
 しかし、軍隊は伸びきった兵站を炎のイナゴに焼かれ、餓えて死んでいったのです。
 軍隊を送り込むには、西の最果てにある高い塔は、あまりにも遠すぎたのです。
 
 であれば――
 王様は国中から勇者を募りました。

 魔女討伐のための精鋭のパーティが作られました。
 ひとりは、凄まじい魔力を持つ魔法使い。
 ひとりは、神に愛された信心深い僧侶。
 ひとりは、勇猛で怪力無双の戦士。
 ひとりは、王国随一の勇者でした。

 彼らは魔女の敵を打ち破り、高い塔から姫を助けました。

「ああ、お前たちはなんということをしたのだ」

 魔女は言ったのです。

「その女こそ、呪いの根源、災厄の種となる者―― この世の全てを破壊するもの。捕らわれている限り、世界は安全だったのに、なぜ、お前たちは、姫を助けたのだ」

 魔女は慟哭のように叫びました。
 
 世界は、姫が助けられたことにより終焉を迎えたのです。
 それは、静寂の中にある終焉でした。
 だれも、終わったことに気づかず、その世界は終わったのです。
 
 すすり泣くように世界は終わったのです。
 すすり泣くように世界は終わったのです。
 すすり泣くように世界は終わったのです。
 すすり泣くように世界は終わったのです。 


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