ブレイン・コード

中七七三

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9.あるいは物語の崩壊

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 若月の美咲への説得は無駄になった。
 美咲は「先生が死んだら、私も生きていけないから」とポツリと言った。
 10歳も年下の恋人のここまで言わせてしまうと何も言えなかった。
 
 彼女は真正面から若月を見つめていた。
 大きな知的な瞳。長いまつ毛。黒く長い髪の毛。

 若月は女性に対し過剰な期待――
 まるで思春期の少年に近い夢をみていたといってもいい。
 普通であれば、女性も男と同じ人間であり彼岸の彼方に存在するものではいと理解すべき歳だ。
 女性に対する過剰な期待が、彼を苦しめていた。
 その苦しみから解き放ってくれたのは美咲だという思いはある。

 そして、自分も美咲を失ったら、生きていけそうにないと思った。
 だからこそ、彼女の言い分が分かった。

 美咲は「先生が飲まないときは、私も飲まない―― もう、この話は終わり」と一方的に話を切り上げた。
 若月も納得する。もう、このことで彼女を説得することはないと思った。

 そして、美咲はベッドにちょこんと座った。その姿は本当に愛らしい。いや、正直に言えば、生物として情欲の本能を刺激される。
 美咲は両手を前に突きだし広げた。そして「ギュッとしてよ。先生―― 高志さん」と恥じらいながら言った。
 彼は恋人抱きしめ、ベッドに押し倒した。

 柔らかい身体と、思いのほか細い腰に手を回す。
 女の身体は、こんなに柔らかく、そして細いのこと、それも不思議なことだと若月は思う。

 美咲は「好き」と小さく言うと、唇を合わせてきた。
 大人の恋人同士のキスをする。
 男と女の身体が薄闇の中で絡み合っていた。

        ◇◇◇◇◇◇

 夢は唐突に始まった。
 突然、階段を上る自分を意識する。
 前方には老婆がゆっくりと階段を上がっている。
 その切れ切れの呼吸音までリアルに聞こえてくる。

(スポンサーの提供表示もなく、話をさかのぼることもなく、いきなり続きか)

 彼は自分の中でこの夢に対する諧謔かいぎゃくめいた感想をつぶやく。
 
 石造りの階段はキレイな角を作っていた。 
 造り物めいているといえば、そうだが、確かにそこに「ある」というクオリア(脳内感覚)は感じる。
 前方には明かりが見える。地下室から上に上がっているのだとそれで分かる。

 しかし―― 

(同じだ―― 薄皮一枚分の違和感―― なんだ……)

 その原因は分からない。
 彼は2回目からこのリアルな夢を薄皮一枚のフィルターを通してみているように感じていた。 

 若月は王の前に立った。

(美咲は? 美咲はいないのか――)

 彼は王の前にも関わらず、周囲を見た。夢の中の世界の王様に礼を尽くす気はなかったからだ。
 美咲はいた。地下室への階段のところで、キョロキョロしていた。
 彼女は、こっちへ駆け寄ってきた。近くまでやってくる。

「先生、ここにいたんだ」

 ホッとしたような様子で、美咲は言った。

(もしかしたら、俺が彼女を意識しないと、この夢の世界に彼女は入れないのか?)

 以前の夢の時のことを思い返す。確かそうだ。
 彼女のことを思った瞬間に、彼女は夢に出現した。
 自分の意識の中に、美咲が現れるとしても、若月自身が「扉を開かない」といけないようだった。
 つまり、彼女の存在を思うことだ。

(意識の共有の鍵になるのか……)

 個々人の心。絶対に超えることのできない壁の存在。
 それを超えて意識が他の人間の意識に出現する。
 意識が量子論的な存在であり、心の壁に対し、トンネル効果を起こすという仮説を彼は再び考えていた。

「先生、王様だよ。ほら、王様―― ちゃんとしないとダメじゃない。また、人が死んだりグロイことになるかもしれないし」

 美咲と若月の会話をこの夢の世界の人間は認識できない。
 美咲の存在を認識できないためだろう。だから彼女に関する行動は全て認識されない。
 
 おそらく、彼女が王様の王冠を叩き落し、頭を「ぺちっ」と叩いても、王冠は自然に落ちたと認識され、頭を叩かれた感覚は認識できないだろうと思った。
 それを実験してみる気は若月にはなかったが。

「異世界、日本より召喚されし、偉大なる魔法使い若月高志よ。救ってくれ。この世界を救ってくれ――」
「なにをすればいいのですか? ご説明をおねがいします」

 辛うじて無礼にならない程度の言葉で、若月は王に訊いた。
 ただ、この言葉でも、脇に控えていた護衛の騎士(だろうか?)が顔色を変えた。

(勇者、僧侶、戦士とパーティを組んで、西の果ての塔まで冒険ね…… 「封印の王女」を魔女から助ける)

 彼は、物語のログ・ラインを思い出す。神話理論の物語の法則にしたがった展開だ。

(物語を認知するという脳のシステムが夢に関わるのか――)
  
 彼は星川の仮説と異なることを思った。夢自体にも何かの目的があるのではないかということだ。
 物語は自然には生じない。誰かが最初に考えたのだ――
 
「西の塔―― 遥かなる西の――」

 王様が語りだしたときだった。王様との謁見の間。その空間がねじまがった。
 3Dのコンピュータグラフィックが作り出すように、王の頭の上の空間がねじ曲がったのだ。

 ドンッ――

 巨大な黒いハンマーが護衛の騎士ごと叩き潰していた。
 すっとハンマーは持ちあがり、出現した映像を逆まわしにするように消えた。
 パニックだった。
 
 王の背後に控えていた多くの人間が逃げていく。
 そこには、夢と言うには生々しい人の恐怖をかきたてる物があった。

「先生…… なんなのこれ? 全然違うよ」
「分からん、なんだいったい――」

 王が死んだ。
 そして、人々はパニックとなる。
 
 若月はその場に立っている事しかできなかった。城の構造も分からない。
 ただ、ゾッとする感覚だけがそこにあった。

 血と肉塊となった王と騎士がそこにある。
 ゲームであれば、こんなリアルな描写をすれば発禁になるか、苦情まみれになろうだろう。
 外気と反応して、血中ヘモグロビンが酸素を解放し、ブクブクと石鹸水のように血が泡を作る。
 死は糞尿のような悪臭をともない放置される。

「先生、あれ! あれ! 屋根がッ!」
「えッ!」

 若月は美咲の示す方を見た。
 サラサラと粉のようになって、消えていくのだ。
 石壁だ。城の構造物が粉のようになって、空間に溶け込む様に消えていく。

 人もだった。人もサラサラと乾いた砂で作った人形が風に吹かれ崩れるように崩れていく。
 彼は旧約聖書の「人が塩となり崩れ消えていく」という記述を思い出していた。
 ソドムの街を振り返ったロトの妻だったか…… いや、それはいい――

 彼の思考は同時並行で、対応を考える。
 逃げる⇒どこに?
 隠れる⇒どこに?
 
 結局のところ、答えは一つだ。

「これは夢だ。死ぬわけじゃない」
「先生――!!」

 若月は走っていた。美咲の手を握り、駆け出していた。 
 サラサラと崩れた外壁の方向だった。外が見える。
 外、外に出ること。なぜか、彼はそう考えた。
 彼はそれだけを考えた。

 それは、崩壊する物語からの脱出のようなものであったかもしれない。
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