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32.戦略機動

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 ひとりの高麗兵の男は目覚めた。
 ぼんやりとしていた五感が周囲を認識し始めた。
 視界は薄暗い闇の中に放置された。まだ夜明け前だ。
 周囲には火の気はない。倭兵に気づかれないためだった。
 何ともいえない腐臭が鼻腔の中に流れ込んでくる。
 汗と血と泥の腐ったような反吐のような空気が肺腑に流れ込んでくる。
 船の中や故郷の地で慣れっこになっているはずの悪臭であったが、気分が悪くなる。

 自分と同じような兵たちが身体を寄せ合い、眠りについている。
 皆、やせ細った貧相な身体を戎衣で包み、短弓を抱えていた。
 自分も気づけば、短弓を抱きかかえるようにしていることに気づいた。
 今まで武器など手にしたことはなかった。
 が、今ではこれを持っていないと眠ることすらできそうになかった。
 殺し合いの最中では、相手を殺せる武器が何よりも心強い。
 敵が同じかそれ以上の物を持っているとしてもだ。

 なぜ自分はこんなところにるのか?
 いったいなんのためにいるのか?

 高麗兵はそんなことをぼんやりと考える。
 村にいても食えない。戦乱で田畑は荒らされ、更に労役も課されている。
 ここ数年、収穫はままならない。
 食えなければ、人のものを奪う。だから盗賊も増えた。
 だから、真っ当にやって行こうとする物は更に餓えた。

 要するに故郷にはほとんど何も無い。その中で奪い合いが起きている。
 この冬を越せるのかどうか分からない。年よりや子どもは無理だろう。
 自分は?
 分からない。
 そうだ――
 だから、自分は倭に来たんだ……
 食うためだ。
 生きるためだ。
 男の思考がそこに行き着いたときだった。

 起床の声がかかった。
 薄闇の中、泥に塗れた兵たちが震えるように動き出す。
 意識の底で搾りかすのようになっていた士気《モラール》が無理やり身体を動かしているかのようであった。

 男は立ち上がった。身体が重い。疲れだけではなかった。
 干潟や湿地で転げまわったせいか戎衣が水を吸って重くなっているのだ。
 弓を強く握っていた。この殺し合いの場ですがりつける唯一の物だ。
 矢の残数を見る。まだ十数本も矢があるではないか。
 何も無い故郷に比べればなんとマシなことか、男は思う。

「弓、矢を回収する。代わりに鑓《やり》を持て」

 伝令の兵が叫ぶように言った。
 それは男にとって信じられない命令であった。

        ◇◇◇◇◇◇

 鎌倉武士団の五月雨のような攻撃より蒙古軍(高麗軍)は撤退を続けていた。
 干潟を超え、川を渡りなんとか陣容を立て直していた。
 戦える兵の数は三〇〇〇いるかどうかであろう。
 陣は、疎林が点在し、足場の悪い地であった。泥湿地だ。
 騎馬を中心とする鎌倉武士団にとっては、有利とはいえる場所ではない。
 だからこそ、高麗軍はここに陣を構えたともいえる。
 歩兵中心の彼らにとっても、機動しやすいとはいえない。
 が、敵よりはマシに動ける。

 撤退に次ぐ撤退のすえ行き着いた今の場所。
 この泥沼のような地に陣を構えてからは、大規模な攻撃は受けていない。
 散発的な襲撃はあったが、致命的な被害を受けることなく倭兵を退けていた。

 そして、援軍が高麗軍に合流したのは、夜明けまで間もなくというときであった。
 本陣のパオが突貫で組み立てられた。
 金方慶はパオの中で泥で固まった髭を触る。
 ポロポロと細かい土が零れ落ちた。

(今までなにをしていたのか)

 金方慶は口の中で呟く。
 そのかすかな声は外には漏れなかった。
 洪茶丘は全軍司令官のキントと何か話している。
 満州人の猛将・劉復享《りゅうふうりょう》は黙して腕を組んでいた。

 全軍総司令官・キント。洪茶丘《こうちゃきゅう》、劉復享《りゅうふうりょう》の両将軍の蒙古主力軍の集結は予定よりも大きく遅れていた。
 夜間上陸による混乱、泥濘、湿地という足場の悪さが、一万を越える大軍の集結、移動を困難にさせていた。
 更に悪いことには、靄《もや》が立ちこめ、夜光はただ闇の底を白く染めるだけった。夜間上陸を実施するには、最悪の条件であった。
 戦闘部隊だけではない。
 糧秣、武器を運ぶ輸送隊の移動も難儀を極めた。
 
 幸運だったのは、この間に倭軍の大規模な攻撃を喰らわなかったことだ。
 奇跡に近い。

(奴らも、消耗が激しかったのか? こちらを充分に叩いたと満足しているのか? 夜間の湿地での戦闘を避けたのか――)

 金方慶は、敵の不徹底な行動の理由を考える。
 が、説明はできてもそれで何かが変わるわけではなかった。
 夜が明ければ奴らは必ずやってくるのだから。
 金方慶はその点だけは確信をもっていた。

「矢の供給は難しい」

 キントが言った。その視線は金方慶に向けられている。
 揺れる焔の動きで、視界まで揺れているような錯覚の中でだ。

「なぜですか。鷹島にはまだ――」
「無い物はないのだ」

 キントの言葉を洪茶丘が継いだ。
 有無を結わせぬ語勢で言い切ったのだ。

「そんなバカな話があるか! 矢もなしでどうやって戦う?」

 実際のところ、矢は物資集積所たる鷹島にはあった。
 しかし、長い航海の結果、木製の矢は湿気を吸って変形し使用に耐えるものが少なくなっていた。
 その上、百道原への夜間上陸の無理がたたった。
 そもそも操船に不慣れな輸送部隊は、抜都魯《バートル》を衝突させ、転覆させ、少なからぬ物資が失われていた。

 しかし、最初から夜間上陸に反対していた金方慶にそのようなことを言えるわけは無かった。

「高麗軍は、矢ではなく鑓《やり》をもって敵の腹背を突く。矢は主力が集中運用するため回収する」

 中央集権的な国家であり、指揮官が全軍を自由に動かせる蒙古軍であればこそ可能な対応だった。
 個々の「御家人」が独立して戦う中世日本の軍制では無理なことであった。
 それは、柔軟な用兵が可能であるともいえたが、個々の兵士にとって幸福であるかどうかは別問題であった。

        ◇◇◇◇◇◇

 蒙古軍の主力武器《メインウェポン》は弓であった。短弓ではあるが、動物の腱などを使用した合成弓《コンポジットボウ》であり、和弓ほどではないが、あなどれない威力がある。
 そして、鑓《やり》である。
 日本においては、室町中期以降に歩兵の主力武器《メインウェポン》となる鑓が蒙古軍のもうひとつの主力武器であった。
 日本側でこれに対応するのは「長刀《なぎなた》」であろう。
 武器単体の汎用性、威力を考えれば、斬ることも、突くことも自在にできる長刀に軍配があがるであろう。
 が――
 それは、扱う兵が、充分な熟練度を持っているという条件下に限定される。
 そして、密集した集団戦になった場合、振り回し相手を斬ることが可能な長刀は、非常に運用の難しい武器となる。
 密集隊形をとったときに、振り回すことはできない。
 味方を傷つけてしまう可能性があるからだ。
 そして、ただ突く、叩くだけなら鑓で十分なのだ。

 日本において長刀が廃れ、槍が主武器となっていくもの、大規模な密集集団戦が戦場の様相になってきたからだった。

 しかし、この時代――
 十三世紀後半の日本では、長刀はまだ恐るべき威力を秘めた兵器であった。

        ◇◇◇◇◇◇

 高麗兵の男は、朝靄《あさもや》の底を歩いていた。
 視界は悪いが全く先が見えないというほどではない。
 いきなり、倭兵に出会ってしまうということはないだろうと思う。

「これで戦うってことは、倭兵に近づかなきゃいけねーじゃねーか」

 隣を歩く男が、言葉を投げ捨てるように言った。

 高麗兵の男はその言葉に無言で同意する。
 弓矢の代わりに渡された槍をきゅっと握る。そして穂先を見る。
 長さは、自分の背丈の倍くらいだろうか。
 つまり、その長さと同じだけ、倭兵に近づかねばならないということだ。

(全く、冗談じゃない。あいつらに近づくなんて……)

 倭兵の弓矢は強力で兇悪で狂気を帯びた兇器だ。
 盾をぶち抜き、胴体をぶち抜く。
 鉄の兜を被っている偉い兵も兜ごとぶち抜かれたのを見た。

 あの矢を潜り抜け、近づくなど出来そうにもなかった。
 上官は「横腹を突くから大丈夫だ」と言っているが、なにひとつ信用できない。
 仮に、接近できたとしてもだ。

(あいつらの武器は切れすぎる…… おっかねぇ。おっかねぇ……)

 倭兵はこちらの鑓のような長柄の武器を持っている。
 高麗兵の男はもう一度穂先を見つめる。
 どう見ても、倭兵の武器の方が上等で、切れそうで、兇悪そうに見える。

 そして、奴らの剣に至っては、もう魔物のような切れ味をもっている。
 まるで、小枝を払うかのように首を斬る。
 あんなに切れる刃物を見るのは、生まれて初めてだった。
 実際、それで胴体を真っ二つにされた味方もいた。

「進め、進むんだ」

 上官の声が響く度に、臓腑の中にある恐怖の塊がでかくなっていく。
 どろどろになった恐怖が反吐になって、口から溢れ出そうだった。
 そのような、独りの兵の思惑とは関係なく、蒙古軍は着々と戦略機動を行っていた。
 総勢一万数千の蒙古軍は、中央に弓兵、左右に鑓兵を置き、突撃してくる鎌倉武士団を包囲する計画であった。
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