アムネジア戦線

中七七三

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06.自壊する組織と脱走

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「負け戦なのか――」

 戦況に関しては断片的な情報しか分からなかった。
 今、現時点の戦場を俯瞰するには中尉という地位は低すぎた。
 しかし、自分の置かれている状況。
 傷病兵を抱え、脱走せざるを得なかった状況はまさに負け戦以外はあり得なかった。

 そのときの、司令部参謀とのやり取りが、脳裏に浮かぶ。
 しかし、それは「体験」したという肌感覚を喪失し、どこか映像を見ているだけの記憶だった。

『けが人を切り捨てるのですか』
『そのような余裕はない!』
『私の責任において、けが人を後方に送ります』
『貴様! 予備仕官の分際で何を言うか! なんのために兵に貴重な手榴弾を持たせているのか!』

 ただひたすら無茶苦茶だった。
 そこには道理も情もなにもなかった。
 戦えなくなった兵は手榴弾で自害せよ―― これが組織の中でまかり通っていた。

 自壊していく組織の中に生ずるヒステリックな部分が露になっていたのだ。

 野戦病院のある後方へ負傷兵を運ぶことすらできない。
 負傷兵の輸送には健康な兵を使わざるを得ない。
 そして、それは戦力の低下を意味する。
 陛下の赤子たる兵を無闇に消耗することが正しいのか?
 そもそも何のための戦争なのか?
 その言葉が喉元まで出掛かる。
 しかし、己の声の大きさで興奮し、激昂のボルテージを上げていく参謀には何を言っても無駄そうであった。
 かえって、火に油を注ぎかねない。
 指揮する部隊壊滅し、本隊に合流したばかりの予備仕官である都々木中尉の立場は決して強くない。

(そして、自分は……)

 都々木は遠くの山並みを見つめる。
 濃緑に染まった峻厳さを見せる山脈が重なっている。
 巨大な毒蛇が背をうねらせているようであった。
 
(傷病兵と共に残った……)

 軍の命令に反する「脱走」とみなされる行為だった。
 そして、傷病兵のために食料をかき集め、彼らを連れ後方に下がろうとしたのだ。
 傷を負った兵の他にも、マラリア、デング熱など南方特有の疾病で苦しんでいる者が多数いた。

 症状が安定してきた者には、食料を持たせ後方へ行かせた。
 何人かまとめてが良かったが、そうでない場合は単独でも行かせた。
 偽善であったかもしれないし、そうでないかもしれない。
 自壊していく組織と、容赦ない戦場の中で自分の行った行為になにかしらの意味があるのか――
 そう自身に問いかけても意味ある答えを掘り返すことはできなかった。

 結局、傷病兵が残置された場所は、現地ゲリラの襲撃を受けた。
 自分は、そこで死ぬことなく生き延びた。
 米、塩などを背嚢に多く(最初発見したときは、多いとは思ってなかったが)持っていたのはそれが理由だった。

「生き延びるか」

 結局のところ、結論はそこに行き着く。
 生きていくこと、とにかく一日でも長く生きること。
 時間の経過が戦場の環境に変化を起こす可能性がある。
「脱走」という形になっているが、陸軍がその組織を維持できない状況であれば、さほど今の状況は悪くないのかもしれないと考えた。
 都々木は「手帳に書くか」と思う。自分がまた発作で記憶を喪失したときに「脱走」という言葉は重すぎた。
 何らかの説明を加えるべきかと思うが、あまりに経緯が複雑すぎる。
 結局のところ、欠損した四年間の記憶を前提としなければ、今の自分のような結論には達しないだろうし、よけいな混乱を起こしかねない。
 おそらく「過去の都々木」も同じ結論に至ったのだろう。

 羊歯に似た植物が茂り、足元の道が狭くなっていた。
 密林と言うほどではないが、濃厚な緑の底を都々木中尉は踏みしめている。
 湿った腐葉土が沈み込む。
 南国独特の(おそらく)ドロリとした空気が鼻腔を通り肺に溜まる。

「誰か!」

 声。
 熱を孕んだ空気を切り裂くような声。
 都々木中尉は気がつかなかった。視界の中に入れていたにもかかわらず、その存在を認識していなかった。 
 それだけ、周囲の配色に溶け込むような偽装をしていたともいえる。

「日本兵―― 将校か……」
 
 ボロボロの軍服に枝葉を縛り付けた兵だった。
 尖ったガラスのような危険な眼差しを送る。
 目玉だけが異様に光り、貌の肉がそぎ落とされ、頭蓋に皮だけがへばりついているようだった。

「中尉だ。都々木中尉」

 そして、彼はかつての所属部隊名を名乗る。
 ようやく、兵は三八式歩兵銃の銃口を下げた。

「将校っても、本ちゃん正規将校じゃねえみたいだな」

 兵の背後からのそりと巨漢の男が現れる。

「軍曹殿!」

 男は軍曹と呼ばれた。
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