False memories 偽の記憶

Raymond

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嘘の記憶

何故作るのか

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嘘の記憶を作るのは決して不幸だからだけが理由ではない。
消えてしまった記憶を埋めるためにそれを必要とする事もある。

わたしの記憶は穴だらけで語る事も難しい、共有できる相手もいない。記憶と言うものは時々思い出と呼ばれ、たわいもない会話の中に現れる、私にはそれがない。事実はあってもそこに感情がない。だから記憶であって思い出ではない。

中学の制服も慣れたある夏、潮干狩りに行った、潮干狩りの後に食事をした。
バスが大きかった。

私の中にはただそれしかない。

保たれるはずの感情が抜け落ちるのかそれとも元から何もないのか、もうそれを知る由はないが、空っぽの白黒の鉛筆画の様なイメージしか残らない。

いま、例えば今日の事を鮮やかに覚えていられる事は無いのなら、そこに何か意味を持たせる事は然程重要でもない。

作り上げた記憶は別だ、鮮やかに生き生きといつまでも残る、何をして何を見て何を感じたのか、はっきりと手に取るように思い出せる、そして都合よく変わったりもしない。

例えば、私が初めて散文詩に触れた日のこと、アメリカへ発つその日に日暮里の駅で親しい友人から受け取った、黙って渡されたのが萩原朔太郎だった。
私の中ではこれが事実、でも実際は覚えていない、いつ何処で萩原朔太郎に出会ったのか。
自分が持ち合わせていなくとも思い返したいと思う事はある、そんな時空っぽなわたしはとても不都合で不便なのだ。

ただ、不便だから作るしかないのだ
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