人魚の伴侶

坂口和実

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序章

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 遠い昔、讃岐之国さぬきのくにの半島に、漁師たちの村があった。大きな浜と磯があるその村は、豊富な海産物と穏やかな気候に恵まれ、小さいながらも豊かな村だった。
 その村に、佳市かいちという漁師の青年がいた。明朗快活で丈夫な体を持ち、まだ幼い娘を二人、育てていた。妻は悲しいことに、下の子を産んだときに亡くしてしまったが、新しい人を娶ることはなく、妻の忘れ形見である娘たちが、佳市の生きる活力となった。
 その娘のうち、上の娘が十三歳になる頃、それはそれは美しく成長した娘に、三つの村を束ねる村長の息子との縁談が持ち上がる。佳市は泣いて喜び、妹は少し寂しそうにしながらも、姉の結婚を喜び、同じ村の仲間たちも共に喜んだ。佳市は、娘たちは、母親に似て美人だから、と酒に酔いながら言ったが、仲間たちは、きょとん、とし、たちまち笑いだすと、娘たちは父親似だよ!と、こちらもまた酒に酔いながら言った。仲間たちの話を、佳市は酔った頭で、きっと、娘たちの健康で丈夫な体が、父親似だと皆は言っているのだろう、と思った。
 事件が起きたのは、佳市が幸福な未来を夢想していた日の、翌朝のこと。
 祝宴には参加しなかった漁師たちは、まだ涼しさの残る薄暗いうちから船を出していたのだが、その一団が、とんでもないものを網にかけて帰ってきた。早朝から浜は大騒ぎで、二日酔いでぼんやりしていた佳市らも、渋々、浜へとやってきた。
 誰かが叫んだ。人魚だ!人魚が網にかかった!その声を聴いた瞬間、佳市は息を呑み、娘たちのことを考えた。また、誰かが叫ぶ。女たちは見るな!女たちを家に入れろ!佳市は近くにいた若い男に、昨日、娘たちが女だけで祝宴をしていた家に、女たちに、恐ろしいものが網にかかったから、外に出るなと伝えるように、と、走らせた。
 男と違い、女は月経のある清らかな存在だ。人魚のような海神の使者とされる怪物の姿を見たら、呪われるかもしれない……と、この村々の人間には伝えられてきた。
 すっかり酔いが醒めた佳市たちは、海の近くまで駆け、人だかりを避けながら進み、網の中のそれを見た。緑がかった黒く長い髪を持った、上半身は女で、下半身は黄金色の鱗に覆われた大きな魚のそれは、間違いなく人魚だった。うつ伏せで網に絡まり、尾ひれと両手を懸命に動かして逃げ出そうとしている。男たちは顔を突き合わせ、相談していた。
 どうする?海に放すか?
 そんな、もったいねえ!
 ここいらで人魚がかかったのは、どれくらいぶりだ?
 おらのじい様の、そのまたじい様が小さい頃に、死骸が上がったことならあるらしい。
 目が合った男を呪うらしい……。
 上半身は忌まわしいが、下半身は魚だ。食えるんじゃないか?
 そうだな、みんなで食っちまおう!
 大丈夫かなぁ…恨まれやしねえかなぁ……。
 先に首を落としちまおう。
 それらの相談を耳の端に入れながら、佳市は網に手を伸ばし、人魚の黒い髪をかき分けた。口から鋭い歯をむき出しにして、キェー、キェー、と吼えている。おぞましい、と感じながらも、佳市は恐る恐る、人魚の目にかかっている髪もかき分けてやった。
 人魚の目は、薄い水の色をしており、佳市と目が合った瞬間、なぜか人魚は吼えるのをやめた。口がすぼめられ、鋭い歯が隠れると、ただの人間の女の顔と寸分たがわない。それでいて、この世のものではない人魚の顔は、それはもう夢のように美しかった。
 その、あどけなさの浮かぶ人魚の顔に、佳市は上の娘を重ねてしまう。首を落として食おう、と算段をつけ始めた皆の衆の声に、佳市は勢いよく立ち上がり、ちょっと待ってくれ!と、声を張り上げた。
 もうじき、娘が結婚するって時に、海の怪物を殺して食うなんて縁起が悪い。どうか、海に逃がしてやってほしい……と。皆は、う~ん、と唸りながら首をかしげる。人魚を食べるのは、縁起が悪いのか?誰も知らない。もちろん、佳市も知らなかった。
 ただ、この人魚を殺さず、海に返してやりたいがために言った、適当だった。漁網を取り囲む漁師たちが、どうする?と、悩み始めたとき、皆の背後から、しゃがれた男の声が突き刺さった。
 海に返すな!一度、網にかかった人魚は、人間への恨みから波を荒らす。かかっちまった人魚は、首を切り落として、浜に埋めろ!絶対に食うな!
 それは、村一番の長寿である太郎じいだった。太郎じいは高齢ゆえに、一日の大半を寝ているのだが、誰かがじいの知恵を借りようと、起こしてきたらしい。太郎じいは顔を青くしながらそれだけ言いつけると、孫に手を引かれて帰っていった。
 太郎じいがそう言うなら仕方ない、と、皆は佳市に、申し訳ねえ……と告げ、五人ほどで網を引きずった。そんな、待ってくれ!と声を上げる佳市を、周りにいた仲間らが宥めるように抑える。人魚は、ただ佳市のことを、じぃ……と見つめるだけで、もう吼えてはいなかった。
 かくして、漁師たちは人魚を殺した。佳市も、それに加わった。返せないのなら、せめて最期まで一緒にいてやろう……。村のはずれの、浜と磯の境目にある潮の来ない場所で、漁師たちは人魚を苦しめないよう、一息に心の臓を銛で貫いた。人魚は、キェー!と断末魔を上げ、ゆっくりと体が弛緩していった。
 佳市は、助けられなかったことを悔しく思い、眉を歪めながら涙を流す。人魚も、こと切れる瞬間まで、佳市のことを見つめていた。周りで同じように見守っている男たちは、皆、手を合わせて拝んでいた。恨まんでくれ、恨まんでくれ、と。やがて、人魚の見開かれた目の瞳孔が開き、完全に死んだことを確認して、男たちは人魚から離れた。
 しかし、人魚はまだ死んではいなかった。魚が急に飛び跳ねるのと同じように、人魚は体を大きくくねらせ、飛び上がる。そして、一番近くに膝をついていた佳市にしがみついた。他の男たちが、あ!となったときには、すでに、人魚が佳市の唇に吸いついたあとだった。
 佳市は呆然として固まり、周りの男たちが慌てて引きはがそうとするも、その必要もなく、人魚はすぐに、佳市の膝元に崩れ落ちた。人魚の唇も、佳市の唇も、人魚が口から流した赤黒い血が、べっとりとついていた。
 皆、何が起きたのかよく分からなかったため、何もなかったことにした。いそいそと、漁場で使う鋸で人魚の首を落とし、まず首を埋める。そして、体も埋めようと穴を掘っていたとき、若い男のうちの一人が、ぼそり、と言った。
 人魚は、この世のものではないから、この世のものではない美味さらしい……。
 皆、手をいったん止め、顔を見合わせた。初めて怪物を殺したことに、皆、どこか高揚した気持ちがあったのだろう。若い男たちは色めき立ち、中年たちの忠告も意に介さず、人魚の血抜きを始めてしまった。佳市も二十八歳の立派な中年だが、なぜか、嬉々として人魚を捌いている若者たちを止める気になれなかった。
 どうなっても知らんぞ、と言い残し、中年たちは朝の漁へ戻っていった。残った若者たちと佳市は、捌いた人魚を刺身で食べた。佳市の唇には、人魚の血がべっとりとついたままだったが、佳市は気にならなかった。人魚にくちづけられた時、頭の中で、女の声が響いた気がしたのだ。

 たべて

 佳市は人魚の最期の願いを叶えてやろうと、こうなっては、ただの白身の刺身にしか見えない人魚の肉を口に運んだ。美味い、美味い!と歓喜しながら貪る若者たちとは違い、佳市は、静かに一切れだけ咀嚼した。確かに美味いが、彼らのように我を忘れたように食い散らかすほど、とは、佳市には感じない。普通の美味しい白身魚のように思えるが……。
 さすがに上半身を捌く気にはなれず、若者たちは首のない人魚の上半身を丁重に埋葬した。そして、皆、何事もなかったかのように、すっきりとした顔をして、朝の漁へと出掛けていった。
 事件は、その日の夜遅くに起きた。
 村のそこかしこから、男の呻き声が聞こえてきたことで、佳市は目を覚ます。別の部屋で寝ていた娘たちも、何事かと起きてきた。佳市は娘たちに、自分たちの部屋へ戻り、扉を固く閉めて、おとうが声をかけるまで出てこないよう言いつけ、外の様子を見に行こうとした。が、先に玄関扉が外から、ドン、ドン、ドン!と強く叩かれる。いぶかしみながらも、佳市が扉を少しだけ開けると、隙間から漁師仲間の男が三人、大量の汗をかき、青白い顔をして息も切れ切れに立っていた。
 お前は何ともないのか?
 男の一人に尋ねられ、佳市は首をかしげる。村では今、大変なことが起きていた。
 朝、人魚の肉を食べた若い男たちが皆、高熱に苦しみ、体中に魚の鱗のような湿疹ができ、苦しんでいるというのだ。中年の漁師たちは、すぐに太郎じいに相談し、若い男らと佳市が人魚を捌いて食べてしまったことを白状した。太郎じいは大層、憤慨し、すぐに熱を出した男たちをひとところに集め、まとめて看病するよう命じた。
 佳市は、なぜか熱もなければ湿疹も出ていなかったが、太郎じいの指示に従い、若い男たちが寝かされている家屋で、女らと共に彼らの看病をすることとなる。娘たちを村のおばあらに預け、佳市は朝まで若い男たちを懸命に看病した。
 女らの手伝いをする中年の男たちは、どうなっても知らんとは言ったが、まさか本当に、このような災いが襲い掛かるとは……と、本気で青年たちを止めなかったことをひどく悔やんだ。それは、佳市も同様に。
 朝日が昇る頃には、その後悔が大きな絶望に変わった。若い男たちが、皆、死んでしまったのだ。皆、高熱と湿疹の痛みに苦しみぬいて、死んだ。村は、若い男を皆、失った。彼らの母、父、妻、姉妹や子どもらは嘆き悲しみ、村じゅうの者が人魚の呪いに恐れおののいた。
 男たちの体は火葬され、漁村の住人は皆、火と酒と塩で体を清めた。大人らは皆、口を閉ざし、村の若い男が死んだのは、船の事故ということにして、人魚の呪いめいたもののことは、誰も口にしないことにした。
 人魚の肉を食べたのに、たった一人、何ともないまま平然としている佳市は、村の者たちから奇異な目で見られるようになった。佳市自身も、自分もまた、いつ若い男らのように死んでしまうかと怯えた日々を過ごしたが、ひと月、またひと月と過ごすうちに、その恐怖は次第に薄れていった。
 一年たち、佳市の上の娘は無事に村長の息子と結婚し、同時に、村の若い娘たち五人の縁談もまとまった。ある娘は夫のいる村へ嫁いでいき、ある娘はこの村へ婿を迎え入れ、娘へついて行った者たち、婿について来た者たちで、村の顔は大幅に入れ替わっていった。
 佳市の上の娘も、夫と共にこの村で暮らすことにした。二人は仲睦まじく、すぐさま子宝に恵まれた。他の夫婦たちも次々に子を成したが、なぜか皆、男ばかりが生まれた。佳市は、他の漁師仲間と同じように、そろそろ引退する年になっていたが、なぜか体力と活力が少しも衰えず、むしろ、若い頃のように体も頭も冴えわたるようになっていた。
 最初のうちは、仲間たちから、いっそ新しい妻を得て、また子を作ったらどうだ?などと、からかわれているだけだったが、下の娘が隣の隣の村へ嫁いでいき、孫息子が十歳にもなる頃になると、村の誰もが、佳市には近寄らなくなった。
 かつて、村の長老だった太郎じいと同じ、四十歳になった佳市は、ほんの少しも老けていなかったのだ。あの日、人魚の肉を食べた、あの日から、佳市の老化は止まってしまった。正確に表すと、佳市は人魚の肉を食べただけではない。人魚に見つめられ、人魚にくちづけられ、人魚の血が唇を覆い、その上で、その人魚の肉を食べたのだ。それが、佳市と、他の死んでいった若い男たちとの、違いだった。
 年を取らない佳市を、村人はたいそう気味悪がった。石を投げられるようなことはなかったが、佳市は居たたまれなくなり、村の外れにある古い漁師小屋に移り住み、端にある小さな浜で、自分が食べる分だけの魚を獲って生活するようになった。父親を案じた娘と娘婿が、頻繁に様子を見に来ては、米と野菜を置いて行ってくれるので、ひもじい思いはせずに済んだ。娘と娘婿だけは、佳市を遠ざけず、変わらず接してくれたが、孫息子にだけは、会わせてもらえなかった。
 佳市は、時おり、あの人魚の夢をみた。とても美しいあの人魚は、よくよく思い出せば、娘には似ていなかったのに、なぜ、あの時は娘に似ていると感じてしまったのだろう?不思議に思いながら、佳市は夢の中で、海の中を優雅に泳ぐあの人魚に、何度も何度も、謝った。だが、謝るたびに、人魚は微笑みながら言うのだ。

 謝らないで
 わたしは、あなたの一部になって生きている
 わたしは、あなたのもの
 あなたは、わたしもの
 わたしたちは、同じひとつなの

 人魚が妖艶に紡ぐ言葉の意味は、あまりよく分からなかったが、夢の中であの人魚と過ごす時間だけは、佳市にとって、幸福な時だった。海の中にいるはずなのに、息ができて、どこまでも広大で美しい海を泳いでいけた。そして、また目を覚ますと、不気味な現実が待ち構えている。水面に映る自分は、二十八のまま……時に取り残されていた。
 佳市が村の外れに移り住み、数年が立った頃のこと。娘婿が野菜と米を手に、ひとりで訪ねてきた。聞くと、娘は村に挨拶回りをしていると。十五歳になった孫息子が、隣の村から妻を娶ったのだそうだ。めでたい話に、佳市は泣いて喜んだ。二人は祝杯を挙げ、佳市は自ら釣った魚と、娘婿が持ってきた野菜を使い、料理を振舞った。娘婿が持ってきた酒は、とろけるような甘さの残る美酒だった。
 甘くて、すっきりしていて、いい酒だ……と、佳市が気持ちよく酔いながら言うと、佳市よりは酔っていない娘婿は、きっと、あなたのほうが、甘い……と、奇妙なことを言ってきた。佳市は面白がり、そう思うなら、舐めてみるか?と、ふわふわ笑いながら、小袖の袷を開いて見せる。もちろん、酔っ払いの戯れ言だった。
 戯れに開かれた袷の中から現れた、漁師とは思えない白く艶やかな肌と、形の良い鎖骨に、娘婿は人知れず生唾を飲み込んだ。昔は、佳市の肌も他の漁師同様、こんがりと日焼けしていたはずが、時がたつにつれ、いつの頃からか、まるで、お屋敷の中しか知らない貴族の姫君のような、白い……色白を通り越して、もはや真珠のような色と艶の、不思議な肌に変化していた。
 人魚の肉を食べてから、佳市は、年を取らないどころか、より若々しく、より人間離れした姿に変わっていった。村の者たちは、密かに佳市のことを『化け物』、『人魚』と呼んでいたが、佳市の娘婿は常々、思っていたのだ。少年の頃、初めて見たときから美しい男だとは思っていたが、今は人の域を超えるほどに美しい舅に、化け物でもいい……彼が、欲しい、と。
 人ではないがゆえに、化け物であるからこそ、許される……おぞましいことも、許される、と。
 娘婿は、木製の碗に残る酒を一気に煽り、まるで誘うように開かれたままの小袖の袷に、手を伸ばした。ここは、村の外れの古い漁師小屋。さらに今夜は波が荒く、ここでどれほど声を上げても、誰にも届きはしない。佳市は、バカなことを、こんな年寄りをつかまえて、やめてくれ、と、懸命に抵抗したが、娘婿のほうが巨体で、力で押さえつけられては、どうにも歯が立たなかった。
 娘婿は、終始、ああ甘い、すべすべだ、まるで絹のようだ、と、うわ言をぶつぶつ零しながら、幾年も恋焦がれていた佳市自身を、味わい尽くした。佳市も、男同士の交わりが初めてなわけではないが、手籠めにされたことはなかった。信頼していた娘婿からの仕打ちに、佳市は、悲しみと、怒りに震えたが、それ以上に、自分の体を這いまわる男の手に、得も言われぬ快感を覚えていた。
 やめてくれ…たのむ…許してくれ…と、娘婿の肩を押し返しながら熱く吐き出す佳市に、相手はますます興奮する。その熱気に浮かされ、佳市は娘婿の荒い息遣いの向こう側に、あの人魚の笑い声を聞いた。
 一晩中、娘婿は佳市を弄んだ。そして、明け方の空がまだ藍色のうちに、村へと帰っていった。佳市は、久しぶりの激しい交わりに寝込むかと予想していたが、佳市の若々しい肉体は疲れ知らずで、むしろ、心と体は多幸感に満ちていた。無理やり犯されたというのに……。
 自分の身に何が起きているのか解らず、佳市はひとり、ふすまにくるまって、恐怖と、昨夜の余韻に震えた。しばらくすると、心の幸福感は薄れ、後に残るはおぞましい罪悪感と、虚しさだった。娘の夫に、親子ほど年の離れた男に、そういう相手として求められた、だなんて、いたたまれず、薄気味悪く、その事実は佳市の心を蝕んだ。しかし、耳の奥では、あの人魚の笑い声が響いていた。

 よかったわ とっても
 あなたも でしょう?

 波はまだ荒い。昨夜よりもさらに、海は黒くなっているようだった。
 最初の夜以来、娘婿は新鮮な魚や野菜、米を携えては、毎晩のように佳市を訪ねてくるようになった。佳市は、いつも追い返そうとしたが、男は強引に小屋に上がり込み、佳市が漁に出ずとも食べていけるだけの食料を瓶(かめ)に詰め、当たり前のように佳市を組み敷いた。もちろん、佳市は毎度、毎度、凝りもせずに抵抗したが、やはり娘婿に力で敵わず、男の好いようにされてしまった。
 一度、あまりにも嫌でどうしようもなくなり、佳市は夕刻に小屋を出て、岩陰に隠れて朝までやり過ごそうとした。が、長くは続かず、どこだ…どこにいる……と、ぶつぶつ言いながら佳市を探し回る娘婿に、やがては見つかってしまった。浜を逃げ惑う佳市を、娘婿は興奮しながら追いかけ、さらに激しくいじめられるだけとなった。
 どうすれば、逃れられるのか……いっそ、村を人知れず離れてしまおうか……下の娘のいる村へ移り住もうか……そう考え、佳市は荷造りをし、いつものように訪ねてきた娘婿に、しばらく下の娘の村へ行く旨を伝えたが、娘婿は、戻らないつもりだな!わしを捨てる気だな!もし、わしを捨てるような真似をすれば、女房も息子も殺してわしも死んでやる!と、怒鳴り散らした。
 狂っている……佳市は、常軌を逸した娘婿に愕然とし、娘の顔が浮かんだ。娘と孫息子に、手を出させるわけにはいかない。幸い、孫息子は結婚が決まった。いま、この男がいなくなっても、娘が寂しい思いをすることはないだろう……。
 佳市は、娘と孫息子を守るため、この狂った娘婿を殺めよう、と決めた。初めて、誰かに対して強い殺意を抱いた。奴は生かしておけない。自分を苛むのならまだ許すこともできるが、大切な娘と孫息子の命を脅かすなら、話は別だった。きつい酒に、腐りきった魚の汁を混ぜて飲ませれば、三日後には死ぬ。決意を固め、佳市は酒を用意して娘婿を待っていた。
 だが、なぜか、その日以降、娘婿は佳市の小屋に来なくなった。怒鳴り散らされた夜は、懸命に宥めて、お前から逃げようだなんて考えていない、下の娘に会いに行くだけだ、と訴え、どうにか信じさせてから娘婿を返した。奴は毎晩のように来ていたのに、なぜ……。
 数日たって、太陽の高いうちに、娘が疲れた顔で訪ねてきた。何かあったのかと佳市が尋ねると、娘は、夫と息子が大喧嘩になり、夫は息子に腕っぷしで負けた事実が恥となり、傷を治すための療養と偽り、自分の生まれた村へ帰ってしまった、というのだ。息子のほうは、やりすぎだ、と、夫と同世代の男らから咎められたが、老いたる者が若き猛々しい者に勝る道理などない……夫と同世代の男らは、咎めつつも気まずい思いをし、息子と同じ若い男らは、息子に負けて実家に逃げていったじじいを陰で嘲笑った。
 おかげで、村の力関係がおかしくなり、若い男らが調子づき、中年の男らの言うことを聞かなくなった結果、今朝の漁で、若い男が二人、死んだ。海がいたずらに人を殺すことはあるが、この死は、防ぐことができたものだった。若い男たちは、堆くなった鼻っ柱をへし折られ、癇癪を起こすもの、意気消沈する者に分かれ、年かさの男らは責任を感じ、やはり、癇癪を起すか、意気消沈しているそうだ。一方で、女たちは皆、元気だが、男らが半分以上、使い物にならないせいで仕事が倍になっており、皆、疲れている……という状態だと、娘はたいそう疲れた様子で話してくれた。
 そもそも、なぜ奴と孫息子は喧嘩になったのか……喧嘩の原因を、孫息子は長らく語らなかったが、村がおかしなことになり、今朝、二人の若者が死んで、ようやく話してくれたそうだ。夫には村の外に、好い人がいる。それが、ただの女なら、娘も孫息子も何も思わなかったのだが、それが、村の外れに住む“人魚”となれば、話は別……孫息子は怒り狂い、娘婿も相当にばつが悪かったのか、延々と訳の分からぬ言い訳を繰り返しながら居直っていた、と。
 それらの話を聞き、佳市の身から血の気が引いた。娘はさらに続ける。夫が、何やら隠していることがあることは、分かっていた。息子の結婚が決まったあたりから、佳市のもとへ足しげく通っていることも知っていた。最初は何とも思っていなかったが、半年以上もそれが続けば、さすがに変だと思っていた。思っていたが……信じたくなく、夫に何かを問いただすことはしなかった、と。
 もうじき、娘にとっての孫が生まれる。息子と嫁の仲は、騒動以来、不穏なものになってしまい、嫁は姑である娘のことは慕ってくれているが、夫である息子のことは、嫌っているそうだ。妻に嫌われてしまったことに、息子は傷つき、家に寄りつかず、漁師仲間が自由に寝泊まりする小屋に入り浸っている、と。
 おとうの、せいだ。おとうが、人魚になどなっちまったから……化け物になど、なっちまったから、うちの人を虜にして、呆けさせたから……呪いが“うつらん”よう、息子には会わせんかったのに、それでも、こんな形で、呪われるなんて……。
 娘の声は低く、しゃがれていた。いつの間にか、佳市よりもうんと老け、髪には白いものが交じるどころか、ほとんど白髪に近くなっていた。娘の年を考えれば、まだ髪が白くなるには、いささか早いというのに。
 それほどまでに、娘は思い悩み、苦しみ、傷つき、疲れ果てたのだろう。その目は落ちくぼみ、目玉は血走り、かつての美しく福福とした清廉さは、もはや見る影もなかった。うねうねと筋の盛り上がった両手には、佳市の妻の…即ち、娘にとっての亡母の…形見である玉の小刀が握られていた。
 娘は震えていた。ここには、終ぞ思いつめ、化け物となり果てた父を、殺めるつもりで来たのだろうが、実の父を手にかけるのは、いくらなんでも忌まわしい。それに、逆恨みであることは娘も重々承知している。あの優しく誠実な父が、娘婿を誘うわけがない。あの男が、父に無理を強いていたに違いないのだ。そのようなことは分かっている……だが、夫が出奔し、村が崩壊しかけ、息子と嫁がうまくいかなくなってしまった現状の責任を、誰かに取ってもらわねばならない。佳市は、穏やかに娘を見つめ、手のひらを差し出した。
 それを、渡せ……。
 言葉にはせずとも、佳市の意思は、娘に伝わった。娘は動揺しながらも、おずおずと、父に小刀を手渡し、うな垂れる。そして、佳市は涙を流しながら、娘に謝った。
 すまない……すまない……どうか、全て忘れて、幸せに、なっておくれ……おれの体は、海に流しておくれ……。
 そう言って、佳市は、妻の形見である玉の小刀で、自らの喉を貫いた。その直後、小屋の扉を勢いよく開け、若い男が飛び込んできた。青年は、おかあ!と叫ぶ。佳市の娘は振り返り、ゆうた!と叫んだ。口から鮮血を吐き、首から上を強烈な熱さと痛みに支配されながら、佳市は、薄れゆく意識の中で、久方ぶりに見た孫息子の立派になった姿を、嬉しく思った。
 そのあとのことを佳市が知るのは、しばらくたってからだった。
 こと切れた佳市の遺体を、孫息子である勇太ゆうたが、母に代わり、小舟に乗せ、海に流した。恨まれぬようにと、米と、野菜と、酒を積んで、沖へと。
 その後、勇太の妻が娘を産み、産褥で死んだ。勇太の父は、とうとう村へは戻らず、数年後に生家で死んだらしい。母も、それから間を置かずに亡くなった。
 勇太は新たな妻を娶り、子を三人、授かるも、最初の子以外は育たなかった。村に活気が戻ることもなく、年老いた男女が死ぬと、若い男や女たちは、人魚がいた村を嫌がり、一人、また一人と、別の村へ移り住んでいった。豊かだった村は寂れ、勇太も、妻と娘を連れて、叔母のいる村へと越していった。
 残されたのは、朽ちた漁師小屋や家々、漁で使う古くなった道具だけ。それらも、雨風と潮で風化し、一〇〇年とたたないうちに、村だった場所は、ただの寂しい浜になった。村の名前すら残らず、佳市が読んだ報告書には、ただ“とある漁村の歴史”とだけ、記されていた。たった和紙二枚分に。
 小舟に乗せられ、海に流されたはずなのに、佳市は、再び砂浜で目を覚ますことになった。しかし、そこは、佳市のよく知る故郷ではなく、全く見知らぬ土地の海辺だった。助けてくれた漁師によると、最初は死体かと思ったが、ただ眠っているだけだと気づき、慌てて小舟を浜まで誘導したのだ、とか。
 最初は混乱していた佳市だったが、幾度か日が昇る頃に、恐ろしい事実に突き当たった。そうか……自分は……死ねないのだ。たとえ体がこと切れても、数時間か、もしくは数日たつと、何事もなかったように蘇生してしまう……そういう身の上に、なってしまったのだ、と。
 酒や、野菜や、米と一緒に小舟に乗ってやってきた佳市を、その漁村の者らは気味悪がった。怪我一つなく、衰弱すらしていなかったのだから、無理もない。しかし、助けてくれた老年の漁師だけは、佳市を家に匿い、世話をしてくれた。
 老漁師は数年前に妻を亡くし、子もいない孤独な男で、佳市のことを息子のように遇してくれた。男が死んだあと、佳市は、男が遺してくれた僅かな財を手に村を出た。とりあえず、自分の素性を知らない人間しかいない遠くの村か里を目指して旅をしていたが、道中で人狩りに遭い、佳市は都まで連れていかれ、豪族に売られてしまった。
 佳市は、自分の名前以外、何も覚えていないふりをし、自分がどこの誰かも分からない風を装った。豪族の男は、人間離れした美貌の佳市を寵愛し、字を教え、教養を身につけさせ、煌びやかな衣服で着飾らせた。そして、夜ともなれば、当然のように閨の相手をさせた。
 その豪族のところには、およそ十年いたが、十年たっても少しも老けない佳市を、さすがの色好みの豪族も恐れ、他の豪族へ売ってしまった。そうやって、何年も何年も都の豪族や貴族の家を渡り歩き、都が、大和之国(やまとのくに)から、山城之国(やましろのくに)に遷都され、数百年。天皇や貴族の力が弱まり、高貴な者らの用心棒だった武士が台頭し、そこかしこで戦が起こり、人狩りが横行し、多くの者が死に絶えた。
 その中で、佳市も幾度か死を経験した。さる武将の御小姓として参加させられた戦場で……山を行軍中、野盗に襲われ……土砂崩れに巻き込まれ……。しかし不思議と、どれほど疫病が蔓延しても、佳市がそれに罹ることはなく、海や川に落ちても溺れることはなかった。さらに、大きな傷を負っても数時間で失われた部分が再生し、こと切れても、一晩で目が覚めた。
 自分が、死なずの化け物であることを、他人に知られたら……。良くて貴族や豪族の余暇の玩具、悪ければ、悪霊として捕らえられ、首を刎ねられてしまうだろう。夢の中で、あの人魚が言っていた。首と胴が離れれば、もう元には戻れない……と。
 佳市は、何百年と変わらぬ姿で世を流れ続けていたが、もう嫌だ、もう終わりにしたい、と、幾度となく心に浮かぼうと、すぐさま、頭の中であの人魚の哀しげな声が響き、その心は立ち消えた。
 いや……いかないで……わたしを……ひとりにしないでちょうだい……わたしたちは……ひとつよ
 そして、また時は移ろい……松平とかいうちんけな用心棒の子孫が、東の沼地を埋め立てて、大きな街を造った。大きな戦はなくなり、長い長い太平の世が訪れた。十年以上、一所に留まることができない佳市からすれば、各地で殺し合いのない世は、移動がしやすく、やはり、有難いものだった。
 さらに有難いことに、佳市は住む場所や食うもの、着るものに困ることは、この数百年で一度もなかった。常に、名のある者、財のある者、心優しい者と縁があり、庇護され、求められ、与えられた。その時、その時の後見人にとって、都合のいい身分を与えられ、十年ほどたつと、姿が少しも変わらない佳市を恐れ、彼らは、捨てたり、殺したり、または売ったりした。しかし、なぜなのか……縁があるのは男ばかりで、女からは軒並み嫌われ、憎まれ、煙たがられるのだ。それは確かに、夫や父親、兄、弟、息子、孫、祖父らを骨抜きにしてしまう青年が現れたら、それがどれほどの美男子でも、女たちの腸も煮えくり返るというものだろう……。
 このようにして何百年と生きてきた佳市が、人らしい情や心を失わなかったのは、夢の中に現れる、あの人魚がいたからだ。夢の中では、あの人魚も佳市も自由に海を泳ぎ、戯れ、いつしか互いに自然と惹かれ合うようになり、佳市にとってあの人魚こそが、唯一の女であった。
 時おり、滞在した土地に人魚の伝説があり、そういう時は、佳市は懸命に地元の民に、人魚の血肉を食べて不老不死になった者はいないか、と尋ねて回った。だが、どこへ行っても、人魚の肉が不老長寿の妙薬である、や、昔、浜に人魚が打ち揚げられたことがある、や、実はこれが人魚のミイラで、などの、不確かで珍妙な話しか出てこなかった。
 自分と同じような境遇の者は、日之本ひのもとには、いないのだろうか……。落胆しながらも、佳市は、話を聞かせてくれた礼として、地元民らが望む“長い旅の話”をして、民らの好奇心を満たした。時には、生活の役に立つ知識や知恵も授けた。数百年も各地を放浪しながら生きていると、自然と、色々なことに詳しくなるものだ。同じ家で暮らすとしたら、老いない化け物は恐ろしいことこの上ない存在だが、数日、村へ滞在するだけの老いない化け物は、その人間離れした美しさも相まって、村を離れる時には拝まれ、旅の無事を祈られる程度の存在だった。
 もし、自分と同じような身の上の者に出会えたら、もしかすると、知っているかもしれない……不老不死から、解き放たれる方法を。そしたら、普通に生きていける。また妻を娶り、子を成すのもいいかもしれない。そうすれば、この男ばかりを魅了し、虜にしてしまう呪われた身から、解放されるだろう。ただの人間に戻れるかもしれないのだ。
 だが、夢の中で、その話をあの人魚にすると、人魚は怒り狂った。

 わたしを 捨てるというの!?
 あなたは わたしのもの!
 わたしだけが 永久にあなたの おんな!
 あなただけが 永久にわたしの おとこ!
 わたしたちは すべての男を虜にする
 これからも ずっと ずっと
 わたしたちの もの

 人魚は呪詛のように、何度も、何度も、そう唱えると、普段とは違う、噛みつくようなくちづけをしてきた。お互いの唇が切れ、お互いの血の味がする。だが、不思議と、佳市は痛みよりも快楽を得ていた。人魚のくちづけは信じられないほど甘やかで、頭の天辺から爪先まで、しびれるほどの快感を、佳市は半強制的に味わわされた。それは、現(うつつ)にて、男らから受け続けた恥辱と悦び……それと、同じ類のものだった。
 抗いたい…抗わなければ…いやだ…という、感情さえ鳴りを潜めるほどの、肉の享楽。やがて、人魚の黄金の尾ひれの、前側…ちょうど真ん中より上の辺りの鱗が、左右に退くように開き、その先には、粘液に濡れた肉壺があった。人魚は佳市の着物を開(はだ)け、自らの肉壺で佳市の陰茎を飲み込んだ。上から下からの止まぬ淫獄に、佳市は、幾度も幾度も、気が遠くなるような絶頂を得続け、両の爪先が海上を向いて、ぎゅうっと曲がった。
 好すぎる…だめだ、よすぎる……死ぬ!
 頭の中でそう絶叫した刹那、佳市は現へ帰ってきていた。思わず、唇を撫でる。当然、そこには血も、唾液も、ついておらず、陰茎も静かだった。ただ、その身は過ぎた淫虐に犯され、小刻みに震えていた。
 夢の中で、あの人魚と何度も体を寄せ合い、抱きしめ、若者のようなくちづけを交わしたが、まぐわったのは初めてだった。あの人魚の怒りと悲しみに、佳市は思いを馳せる。そうか……不老不死からの解放は、あの人魚と離れ離れになる、ということなのか……。
 それは、佳市にも耐えられない苦痛だった。夢幻の中で悠然と生きているあの人魚がいるからこそ、今まで自分は、数百年間も正気を保っていられたのだから。
 佳市は、自分と同じ不老不死の者を探すのを、きっぱりとやめた。人魚伝説を追うのも、十年ごとに流浪するのも、全てやめた。世話になっていた地方豪族の邸から逃げ出し、何日も、何日も、歩いて、歩いて、歩いて、山を越え、沢を抜け、全く見知らぬ土地へとたどり着いた。
 ふらふらと、当てどなく歩きつづける佳市の姿は、それは痛々しくみすぼらしいものだった。何日もまともに食べておらず、湯浴みもできておらず、服はボロボロ、長い髪は渇き切っていた。そして、とうとう理想的な洞窟を、山奥で見つけることができた。
 深い穴蔵の中で、佳市は誰ともかかわらず、最低限の食べ物だけを近くの里で分けてもらいながら、ひとりで生きていこうと決めたのだ。夢の中のあの人魚は、それはそれで不満げだった。
 つまらないわ……
 きらきらと輝く海の中で、頬をふくらませて拗ねているあの人魚の頬を、佳市は優しく撫ぜた。そして、人魚の耳元で囁いた。
 じゅうぶん 楽しんだだろう?
 そののち、長い時を、佳市は神仏へ祈りを捧げながら過ごした。自分とかかわったことで、不幸になった人、堕落した人、命を喪った人、泡沫の幸福を味わった人、そして……今はもう、顔も思い出せない大切な娘たちと孫息子が、どうか、極楽浄土へいけますように、と。手元に残したのは、山城之国の貴族に世話になっていたとき、その貴族に頼んで調べてもらった、故郷の村に関する顛末を記した、和紙二枚だけ……。
 濡れないよう注意を払ってきたが、さすがに八〇〇年以上も経過すると、状態はとても悪くなっていた。ゆえに、佳市は近くの里で和紙と矢立を譲ってもらい、故郷の村のこと、妻や娘たち、孫息子のことを再び自分の手で書き記すことにした。ついでに、この八〇〇年で自分の身に起きたことも、覚えている限りを。
 書くのはとても時間がかかりそうだったが、問題ではなかった。なにせ、時間は無限に流れるのだから……。

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