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第3話
(7)
和彦が前髪を掻き上げたそのとき、ここまでずっと黙っていた三田村がやっと口を開いた。
「医者の先生にこんなことを言うのはなんだが……、これから病院に行かないか」
意味がわからず眉をひそめると、三田村は前を見据えたまま続けた。
「ここのところ疲れているようだから、病院で薬を処方してもらったほうがいいんじゃないかと思ったんだ。安定剤とか……」
「安定剤を飲んだところで、現状がどうにかなるわけでもないだろ」
ふっと笑った和彦は、実は三田村が何を言おうとしているのか、ようやく察した。三田村の目には、和彦の状態が不安定に映っているのだ。
「組長の忠実な犬としては、精神状態が不安定な〈オンナ〉は、危なっかしくて組長の側に置けないと言いたいのか」
「解釈は先生の自由だ。ただ、今みたいな暗い顔をしているのが、いいとは思えない」
「ヤクザのオンナなんてさせられて、おっとり笑っていろとでも?」
「――初めて組長と会ったとき、笑っただろ、先生。あの状況で笑った人間に対して、俺は素直に感嘆した。見た目に反してタフだと思った」
三田村なりに、心配してくれているらしい。和彦を一人の人間として気遣っているのか、組長のオンナとしての価値が損なわれることを気にかけているのかまではわからないが、ただ、無茶を言わないという点では、三田村といるのは楽だった。
「ぼくは医者だ。本当にキていると思ったら、自分で病院に行く。友人が心療内科医をしているから、親身になってくれるだろ」
「……ただ眠りたいというなら、そういう薬は簡単に手に入るから言ってくれ」
「変な麻薬でも混ざってそうだから、いらない」
和彦が即答すると、バックミラーに映る三田村の目元がふっと一瞬だけ和らぐ。
「そうだ。それでいつもの先生だ」
和彦は顔をしかめてから、シートにしっかりと座り直す。
三田村の律儀さや誠実さは、ヤクザという人種を見直してしまいそうで、畏怖とは違う怖さがあった。
つけっぱなしのテレビから聞こえてくるニュースを、広すぎるベッドの上でうつ伏せになりながら、ぼんやりと和彦は聞いていた。
午前中に目を通しておきたい書類があるのだが、体が言うことを聞かない。
自分の今の状態はダメだと一度思うと、ますます気分が滅入ってしまう悪循環に入ったのかもしれない。昨日、ゴルフ旅行から戻ったという千尋のメッセージが留守電に残されていたのだが、いまだに和彦は連絡していない。千尋のことなので、会いたいと言い出すのは目に見えている。今の和彦には、とてもではないが生気に溢れた千尋は受け止めかねた。
三田村の忠告に従うわけではないが、ここ数日の憂鬱ぶりは自分でも気になるため、一度きちんと診てもらおうかと、ベッドの上をごろごろと転がりながら考えていた最中だった。インターホンの音が鳴り響き、びくりと体を強張らせる。
今日は出かける予定は入っていないため、当然、誰かが迎えに来るということも聞いていない。無視したかったが、もう一度鳴らされて諦めた。
ベッドから這い出した和彦がテレビモニターを覗くと、薄い笑みを浮かべた賢吾がいた。
「――すぐに出かける準備をしろ、先生。十分だけ待ってやる」
「なんなんだ、いきなり……。今日はぼくは、外に出る気分じゃない」
「出たくないなら、引きずり出すだけだ。お姫様抱っこして連れ出してやろうか?」
抗うのは諦めた。インターホンを切った和彦は、ふらつく足取りで洗面所に行く。
適当に選んだスーツを着込んでなんとかエントランスに降りると、扉の向こうに立っているのは三田村だった。
「……なんなんだ、一体……」
促されて歩きながら、和彦は小さく口中で毒づく。
「詳しいことは組長に聞いてくれ」
素早く周囲に鋭い視線を向けた三田村が、車止めの横に停めた車の後部座席を開ける。賢吾が悠然と腰掛けており、軽く手招きされたので、仕方なく和彦は車に乗り込んだ。
「珍しく不機嫌そうだな、先生」
おもしろがるような口調で賢吾に言われ、思わず横目で睨みつける。
「あんたたちと知り合って、ぼくが上機嫌だったことなんて一度もないぞ」
「不機嫌でも、減らず口の冴えは相変わらずだ」
短く声を洩らして笑う賢吾を、多少気味悪く感じながら和彦は眺める。不意打ちの来訪を受けて何も感じないほど、頭は鈍くなっていなかった。
「――……それで、今日は何をするんだ」
「こちらが思っているより、事態が早く進んでいるようだからな。手を打っておくことにした」
それでなくても不機嫌な和彦は、賢吾の言い回しに苛立ち、眉をひそめる。
「意味がわからない」
「わからないように言ったんだ」
こちらを見た賢吾が、唇に憎たらしい笑みを浮かべる。
「こっちの事情だ。先生は、ただ俺の言う通りにすればいい」
「……行き先は?」
「うちの組事務所の一つだ。俺は臆病だからな、毎日あちこちの事務所を転々とする。そうすれば、どこかのバカが綿密に襲撃の計画を立てようが、かち合う確率が減る。俺のやり方を嘲笑う奴もいるが、俺は、度胸と慎重さは分けて考えている」
臆病だと言っているのは本人だけで、身を潜めているのが、とてつもなく獰猛で残酷な気性を持つ大蛇だというのを、他の人間はわかっているのではないか。少なくとも和彦は、この男と臆病という言葉が、対極に存在していると思っている。
やや身を引き気味に和彦が見つめると、賢吾が片手を伸ばし、頬に触れてくる。
「調子が悪いそうだな。あの千尋が、迂闊に電話もできないとぼやいていたぞ。一応自分で、有り余りすぎる元気を先生にぶつけたらヤバイと自覚はあるみたいだ」
「その父親にも、同じような配慮は求めたいな」
和彦が非難がましく言うと、楽しげに賢吾が応じる。
「配慮はしてるだろ。俺はいつでも、丁寧に先生を扱っている」
頬を撫でられ、髪を梳かれてから、指先に耳の形をなぞられる。疼きにも似た感覚が背筋を駆け抜けて小さく身震いすると、目を細めた賢吾に肩を抱き寄せられた。
「医者の先生にこんなことを言うのはなんだが……、これから病院に行かないか」
意味がわからず眉をひそめると、三田村は前を見据えたまま続けた。
「ここのところ疲れているようだから、病院で薬を処方してもらったほうがいいんじゃないかと思ったんだ。安定剤とか……」
「安定剤を飲んだところで、現状がどうにかなるわけでもないだろ」
ふっと笑った和彦は、実は三田村が何を言おうとしているのか、ようやく察した。三田村の目には、和彦の状態が不安定に映っているのだ。
「組長の忠実な犬としては、精神状態が不安定な〈オンナ〉は、危なっかしくて組長の側に置けないと言いたいのか」
「解釈は先生の自由だ。ただ、今みたいな暗い顔をしているのが、いいとは思えない」
「ヤクザのオンナなんてさせられて、おっとり笑っていろとでも?」
「――初めて組長と会ったとき、笑っただろ、先生。あの状況で笑った人間に対して、俺は素直に感嘆した。見た目に反してタフだと思った」
三田村なりに、心配してくれているらしい。和彦を一人の人間として気遣っているのか、組長のオンナとしての価値が損なわれることを気にかけているのかまではわからないが、ただ、無茶を言わないという点では、三田村といるのは楽だった。
「ぼくは医者だ。本当にキていると思ったら、自分で病院に行く。友人が心療内科医をしているから、親身になってくれるだろ」
「……ただ眠りたいというなら、そういう薬は簡単に手に入るから言ってくれ」
「変な麻薬でも混ざってそうだから、いらない」
和彦が即答すると、バックミラーに映る三田村の目元がふっと一瞬だけ和らぐ。
「そうだ。それでいつもの先生だ」
和彦は顔をしかめてから、シートにしっかりと座り直す。
三田村の律儀さや誠実さは、ヤクザという人種を見直してしまいそうで、畏怖とは違う怖さがあった。
つけっぱなしのテレビから聞こえてくるニュースを、広すぎるベッドの上でうつ伏せになりながら、ぼんやりと和彦は聞いていた。
午前中に目を通しておきたい書類があるのだが、体が言うことを聞かない。
自分の今の状態はダメだと一度思うと、ますます気分が滅入ってしまう悪循環に入ったのかもしれない。昨日、ゴルフ旅行から戻ったという千尋のメッセージが留守電に残されていたのだが、いまだに和彦は連絡していない。千尋のことなので、会いたいと言い出すのは目に見えている。今の和彦には、とてもではないが生気に溢れた千尋は受け止めかねた。
三田村の忠告に従うわけではないが、ここ数日の憂鬱ぶりは自分でも気になるため、一度きちんと診てもらおうかと、ベッドの上をごろごろと転がりながら考えていた最中だった。インターホンの音が鳴り響き、びくりと体を強張らせる。
今日は出かける予定は入っていないため、当然、誰かが迎えに来るということも聞いていない。無視したかったが、もう一度鳴らされて諦めた。
ベッドから這い出した和彦がテレビモニターを覗くと、薄い笑みを浮かべた賢吾がいた。
「――すぐに出かける準備をしろ、先生。十分だけ待ってやる」
「なんなんだ、いきなり……。今日はぼくは、外に出る気分じゃない」
「出たくないなら、引きずり出すだけだ。お姫様抱っこして連れ出してやろうか?」
抗うのは諦めた。インターホンを切った和彦は、ふらつく足取りで洗面所に行く。
適当に選んだスーツを着込んでなんとかエントランスに降りると、扉の向こうに立っているのは三田村だった。
「……なんなんだ、一体……」
促されて歩きながら、和彦は小さく口中で毒づく。
「詳しいことは組長に聞いてくれ」
素早く周囲に鋭い視線を向けた三田村が、車止めの横に停めた車の後部座席を開ける。賢吾が悠然と腰掛けており、軽く手招きされたので、仕方なく和彦は車に乗り込んだ。
「珍しく不機嫌そうだな、先生」
おもしろがるような口調で賢吾に言われ、思わず横目で睨みつける。
「あんたたちと知り合って、ぼくが上機嫌だったことなんて一度もないぞ」
「不機嫌でも、減らず口の冴えは相変わらずだ」
短く声を洩らして笑う賢吾を、多少気味悪く感じながら和彦は眺める。不意打ちの来訪を受けて何も感じないほど、頭は鈍くなっていなかった。
「――……それで、今日は何をするんだ」
「こちらが思っているより、事態が早く進んでいるようだからな。手を打っておくことにした」
それでなくても不機嫌な和彦は、賢吾の言い回しに苛立ち、眉をひそめる。
「意味がわからない」
「わからないように言ったんだ」
こちらを見た賢吾が、唇に憎たらしい笑みを浮かべる。
「こっちの事情だ。先生は、ただ俺の言う通りにすればいい」
「……行き先は?」
「うちの組事務所の一つだ。俺は臆病だからな、毎日あちこちの事務所を転々とする。そうすれば、どこかのバカが綿密に襲撃の計画を立てようが、かち合う確率が減る。俺のやり方を嘲笑う奴もいるが、俺は、度胸と慎重さは分けて考えている」
臆病だと言っているのは本人だけで、身を潜めているのが、とてつもなく獰猛で残酷な気性を持つ大蛇だというのを、他の人間はわかっているのではないか。少なくとも和彦は、この男と臆病という言葉が、対極に存在していると思っている。
やや身を引き気味に和彦が見つめると、賢吾が片手を伸ばし、頬に触れてくる。
「調子が悪いそうだな。あの千尋が、迂闊に電話もできないとぼやいていたぞ。一応自分で、有り余りすぎる元気を先生にぶつけたらヤバイと自覚はあるみたいだ」
「その父親にも、同じような配慮は求めたいな」
和彦が非難がましく言うと、楽しげに賢吾が応じる。
「配慮はしてるだろ。俺はいつでも、丁寧に先生を扱っている」
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