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第14話
(8)
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和彦は、箱の中から小さなサンタクロースのぬいぐるみを取り上げる。可愛らしいが、これも秦が選んだのだろうかと思ったら、つい顔が綻ぶ。
こうして笑える自分が不思議だった。ほんの二時間ほど前まで、和彦は自宅のベッドで丸くなり、負の感情に苛まれていたのだ。そこになぜか、秦が迎えにやってきて、優雅に微笑まれながらも有無をいわせず連れ出された。
力ずくで従わされるのであれば抵抗もできるのだが、秦相手だと勝手が違う。まるで優しい風に運ばれるように、ふわふわとついて歩いていた。
途中、スーパーなどで買い物を済ませて、連れてこられたのが、先日、中嶋と三人で飲んだホストクラブだ。一体何をするのかと思っていると、クリスマスツリーの飾りつけを手伝ってくれと秦に言われた。
面くらい、最初は首を傾げながらオーナメントを手にしていた和彦だが、作業に熱中してしまうと、意外に楽しい。
グラスボールを取り付けていると、コーヒーの香りが鼻先を掠める。ソファに腰掛けた秦に手招きされ、休憩することにした。コーヒーと一緒に出されたのは、ここに来るときに買ったドーナツだ。
食欲はなかったはずだが、いかにも甘そうなドーナツを見て、空腹を自覚する。和彦は砂糖をまぶしたドーナツを取り上げ、一口食べた。
「……甘い」
「胸がいっぱいになるほど気持ちを溜め込んでいるときは、甘いものがいいんですよ。店のお客さまの受け売りですけどね」
向かいに座った秦が、ドーナツ以上に甘い笑みを浮かべる。端麗な美貌を際立たせるその顔を眺めながら和彦は、やっと切り出すことができた。
「ぼくの子守りを、長嶺組から任されたのか?」
「武骨なヤクザだと、下手に扱って先生を壊しかねない――と組長がおっしゃってました。少し困ったような顔をして」
「ウソだ」
「だったら、表情のほうはわたしの見間違いかもしれませんね」
悪びれた様子のない秦を軽く睨みつけた和彦だが、またドーナツをかじる。砂糖が舌の上で溶け、優しい甘さが広がっていく。たったそれだけのことなのに、なんだかほっとして、肩から力が抜けた。
「みなさん、本当に困っていましたよ。先生が突然塞ぎ込んでしまった理由がわからなくて。特に三田村さんは、責任を感じていました。自分が連れ出したせいで、先生が何かよくないものに出会ったんだと言って」
三田村は、英俊の姿を見ていない。もし一目でも見ていれば、和彦の血縁者だとわかったはずだ。それほど和彦と英俊はよく似ている。
「……強面のヤクザ相手より、ヘラヘラしているわたしのほうが、少しは話しやすいだろうということで、今日はこうして先生を外に連れ出しました。あとは、気分転換も兼ねて。少なくともドーナツを食べてもらえたので、わたしの任務の一つは遂行できたようなものです。長嶺組のみなさんに怒られることもないでしょう」
よくこんなに淀みなく話せるものだと、和彦は純粋に感心する。ついでにドーナツも、あっという間に一つを食べ終えた。
数日ぶりに固形物を胃に流し込んだせいか、体の奥からじわじわと活力のようなものが湧き出してくるようだった。それとも秦と話したせいかもしれない。自覚のないところで人恋しさが芽生えていたとしても不思議ではなかった。
秦の柔らかく艶やかな存在感は、疲弊した今の和彦にはちょうどよかった。それに、今食べているドーナツのように甘い。
コーヒーを飲みながら、何から話すべきだろうかと考えた和彦は、まず秦にこう問いかけた。
「――〈秦静馬〉に、親兄弟はいるのか?」
驚いたように秦は目を丸くしたあと、口元に微苦笑を刻んだ。
「そういえば先生は、鷹津さんと仲がいいんですよね。刑事のくせに、口が軽い人だ」
「仲はよくないぞ。……つき合いはあるが」
秦はソファに深くもたれて足を組み、天井を見上げた。
「わたしは一人っ子です。それはもう、大事に育てられましたよ。中国で生まれたのに、将来を思う裕福な両親によって、香港国籍を取らせてもらうほどに」
「中国……」
「いわゆる上流階級というやつです。ですが、父親が権力闘争に敗れ、家族はバラバラに。このあたりの話は、血生臭い話なので割愛させてもらいます。結果として、わたしは親族がいる日本に移り住み、日本人になった。母親はヨーロッパに渡って再婚したそうです。一方の父親は、香港で復権を目指しています。……権力への執念に関しては、化け物ですよ、わたしの父親は」
最後の言葉を呟くとき、秦の口調は冷ややかで、嘲笑のようなものが入り混じっていた。その秦の反応に、和彦は同調していた。
「……化け物というなら、ぼくの父親も同じだ。それに、兄も。さすがに血生臭くはないが、それでもいつも、生臭い話をしていた」
こうして笑える自分が不思議だった。ほんの二時間ほど前まで、和彦は自宅のベッドで丸くなり、負の感情に苛まれていたのだ。そこになぜか、秦が迎えにやってきて、優雅に微笑まれながらも有無をいわせず連れ出された。
力ずくで従わされるのであれば抵抗もできるのだが、秦相手だと勝手が違う。まるで優しい風に運ばれるように、ふわふわとついて歩いていた。
途中、スーパーなどで買い物を済ませて、連れてこられたのが、先日、中嶋と三人で飲んだホストクラブだ。一体何をするのかと思っていると、クリスマスツリーの飾りつけを手伝ってくれと秦に言われた。
面くらい、最初は首を傾げながらオーナメントを手にしていた和彦だが、作業に熱中してしまうと、意外に楽しい。
グラスボールを取り付けていると、コーヒーの香りが鼻先を掠める。ソファに腰掛けた秦に手招きされ、休憩することにした。コーヒーと一緒に出されたのは、ここに来るときに買ったドーナツだ。
食欲はなかったはずだが、いかにも甘そうなドーナツを見て、空腹を自覚する。和彦は砂糖をまぶしたドーナツを取り上げ、一口食べた。
「……甘い」
「胸がいっぱいになるほど気持ちを溜め込んでいるときは、甘いものがいいんですよ。店のお客さまの受け売りですけどね」
向かいに座った秦が、ドーナツ以上に甘い笑みを浮かべる。端麗な美貌を際立たせるその顔を眺めながら和彦は、やっと切り出すことができた。
「ぼくの子守りを、長嶺組から任されたのか?」
「武骨なヤクザだと、下手に扱って先生を壊しかねない――と組長がおっしゃってました。少し困ったような顔をして」
「ウソだ」
「だったら、表情のほうはわたしの見間違いかもしれませんね」
悪びれた様子のない秦を軽く睨みつけた和彦だが、またドーナツをかじる。砂糖が舌の上で溶け、優しい甘さが広がっていく。たったそれだけのことなのに、なんだかほっとして、肩から力が抜けた。
「みなさん、本当に困っていましたよ。先生が突然塞ぎ込んでしまった理由がわからなくて。特に三田村さんは、責任を感じていました。自分が連れ出したせいで、先生が何かよくないものに出会ったんだと言って」
三田村は、英俊の姿を見ていない。もし一目でも見ていれば、和彦の血縁者だとわかったはずだ。それほど和彦と英俊はよく似ている。
「……強面のヤクザ相手より、ヘラヘラしているわたしのほうが、少しは話しやすいだろうということで、今日はこうして先生を外に連れ出しました。あとは、気分転換も兼ねて。少なくともドーナツを食べてもらえたので、わたしの任務の一つは遂行できたようなものです。長嶺組のみなさんに怒られることもないでしょう」
よくこんなに淀みなく話せるものだと、和彦は純粋に感心する。ついでにドーナツも、あっという間に一つを食べ終えた。
数日ぶりに固形物を胃に流し込んだせいか、体の奥からじわじわと活力のようなものが湧き出してくるようだった。それとも秦と話したせいかもしれない。自覚のないところで人恋しさが芽生えていたとしても不思議ではなかった。
秦の柔らかく艶やかな存在感は、疲弊した今の和彦にはちょうどよかった。それに、今食べているドーナツのように甘い。
コーヒーを飲みながら、何から話すべきだろうかと考えた和彦は、まず秦にこう問いかけた。
「――〈秦静馬〉に、親兄弟はいるのか?」
驚いたように秦は目を丸くしたあと、口元に微苦笑を刻んだ。
「そういえば先生は、鷹津さんと仲がいいんですよね。刑事のくせに、口が軽い人だ」
「仲はよくないぞ。……つき合いはあるが」
秦はソファに深くもたれて足を組み、天井を見上げた。
「わたしは一人っ子です。それはもう、大事に育てられましたよ。中国で生まれたのに、将来を思う裕福な両親によって、香港国籍を取らせてもらうほどに」
「中国……」
「いわゆる上流階級というやつです。ですが、父親が権力闘争に敗れ、家族はバラバラに。このあたりの話は、血生臭い話なので割愛させてもらいます。結果として、わたしは親族がいる日本に移り住み、日本人になった。母親はヨーロッパに渡って再婚したそうです。一方の父親は、香港で復権を目指しています。……権力への執念に関しては、化け物ですよ、わたしの父親は」
最後の言葉を呟くとき、秦の口調は冷ややかで、嘲笑のようなものが入り混じっていた。その秦の反応に、和彦は同調していた。
「……化け物というなら、ぼくの父親も同じだ。それに、兄も。さすがに血生臭くはないが、それでもいつも、生臭い話をしていた」
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