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第14話
(12)
しおりを挟む受け取った箱の中身がわかったとき、和彦は思わず苦笑を洩らしていた。
「お前も、ドーナツの差し入れか」
和彦の言葉に、千尋は軽く唇を尖らせる。
「だって先生、ドーナツならペロッと平らげるって、うちの連中が――」
「仮にぼくがドーナツ好きだとしても、三食ともドーナツを食べても追いつかない量を差し入れされたら、苦笑の一つぐらい洩らしたくなる」
「……一緒に食おうと思って持ってきたんだけど、他のものがいいなら、買ってくる」
捨てられた子犬のような眼差しを向けられた時点で、和彦に勝ち目があるはずもない。片手で千尋の髪をくしゃくしゃと撫で回した。
「気合いを入れて食べろよ。……部屋に戻ったら、今朝差し入れしてもらった分もあるんだ」
クリニックの待合室に千尋を残し、和彦は給湯室に向かう。コーヒーメーカーに残っているコーヒーの量が心もとなかったので、インスタントで済ませることにした。
湯を沸かす一方で、ミルクや千尋専用のマグカップを準備した和彦は、壁にもたれかかって腕組みをする。知らず知らずのうちに、唇に笑みを湛えていた。
こうしてクリニックにいて、ひょっこりと顔を出した千尋とのん気な会話を交わすと、自分の日常が戻ってきたのだと実感できる。それがひどく、安心できる。
和彦は、秦に安定剤を飲まされて、ほぼ丸一日眠り続けていた。ときおり目は覚めていたが、常に誰かが傍らにいて、安心させるように手を握り、頭を撫でてくれていた気がする。夢は絶えず見続けていたが、それが悪夢だったのかどうかすら、よく覚えていなかった。仮に見ていたとしても、精神的にダメージを受けるほどのものではなかったのだろう。
目が覚め、用意された食事を胃に詰め込み、風呂にしっかりと浸かって、日常の当たり前の雑事をこなす。
現金なものだが、そうすることで和彦は、いつもの自分を取り戻せた。英俊と会った現実を受け止められたのだ。
まだどこか、地に足がついていないような感覚もあるが、これ以上、差し入れのドーナツを増やしたくないため、何事もないふりをしている。実際、体調そのものは悪くはない。日々を過ごしていけば、気持ちもきちんと切り替えられるはずだ。
このまま何事もなければ――。
心の中での呟きが、不吉な予言めいていることに気づき、和彦はブルリと身震いする。
トレーを持って待合室に戻ると、無邪気な子供のような顔で千尋に問われた。
「ところで先生、そんなにドーナツ好きだったっけ?」
和彦はぐっと眉をひそめると、千尋の隣に腰掛け、コーヒーが入ったマグカップを置いてやる。和彦はブラックで、千尋は砂糖なしのミルクたっぷりだ。
ちょうどいい皿がなかったので、客用のコーヒーソーサを持ってきたが、千尋はさっそくドーナツをのせている。朝も食べたばかりなのだが、せっかくの差し入れなので和彦も、チョコレートがコーティングされたドーナツを箱から取り出した。
「……気持ちを溜め込んでいるときは、甘いものがいいらしい。一昨日、秦が買ってくれたものを、一緒に食べたんだ。別にドーナツでなくてもよかったんだが、秦の口からお前のオヤジに伝わったら、どういうわけか、ぼくはドーナツ好きということになったみたいだな」
秦の話題を出した途端、千尋は顔をしかめる。その理由を、不本意そうに本人が語った。
「先生が精神的に参っているときは、俺が側についていたかった。それか、せめて、うちの組の人間とかさ……。なんでオヤジは、先生を秦に任せたわけ? あいつ、胡散臭いだろ。オヤジとこそこそ何かしているしさ」
和彦はドーナツを一口かじってから、若々しい感情を露にする千尋の横顔に視線を向ける。他の食えない男たちとは違い、千尋だけは感情をストレートに見せてくれる。とことんまで精神的に参ったあとは、このストレートさが眩しくて、愛しい。
「――ただでさえ弱っているぼくに、オロオロするお前の姿を見ろと言うのか? 組長から、ぼくに近づくなと言われていたんだろ。それはつまり、お互いのためによくないと考えたからだ。ぼくだって、お前に八つ当たりして、自己嫌悪に陥りたくなかったしな」
「つまり、秦ならよかったってこと?」
和彦が曖昧に笑うと、千尋はまた唇を尖らせた。その唇には、ドーナツの砂糖がついている。まるでガキだなと思いながら和彦は、指先で砂糖を払いのけてやる。
「結果として……よかったのかもな。あの男のことが、少しだけわかった」
千尋がぐいっとコーヒーを飲んでから、和彦にぴったりと身を寄せてくる。これが本題だと言わんばかりに、声を潜めて問われた。
「秦と、何かあった?」
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