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第16話
(13)
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千尋か護衛の組員がいれば、無防備すぎると怒るかもしれないが、人目もあるこの場所で、何かあるとも思えない。しかも相手は見るからに、紳士然としているのだ。和彦としては、こんな相手を警戒する理由がない。
男性は、満足そうに頷いたあと、再び口を開く。
「最近は、興味のあることだけはしっかり覚えているが、仕事に関することは、周りにいる若い連中に覚えてもらうようにしている。そのほうが、間違いがない」
男性の口ぶりから、経営者なのだろうと見当をつける。その読みが外れていないことを裏付けるように、男性は続けた。
「使える人手が増えたせいで、自分で考えることが少なくなった。わしが一言何か言えば、周りが考えて、お膳立てまでしてくれる。楽だが、目端が利く連中に囲まれていると、箸の上げ下ろしまで観察されているようで、ときどき居心地が悪くなる。だから、自分のことを知らない相手と、こうして気楽に話せると、ほっとする」
少しだけ自分の今の状況に似ているなと思い、和彦はほろ苦い表情を浮かべる。すると男性が、訝しむように眉をひそめた。
「どうかしたかね?」
「あっ、いえ――。ぼくはある仕事をしていて、今月、開業するんです。なんというか……いいスポンサーに巡り合えて、何から何まで面倒を見てもらえて、まさにぼくの状況こそ、お膳立てをしてもらっているという表現がぴったりくると思って」
「それはすごい。若くて才能のある人間が、そういう幸運を手に入れられるのは、いいことだ」
「そうでしょうか……」
「スポンサーというからには、何かしらの見返りを期待されているのだろうが、あんたが満たされることで、あんたを盛り立てる人間も満たされる。そう思うことで、人間も環境も循環する。利害で結びつくことは、何も悪いことばかりじゃない。結びつくなりに、相手の希望を叶えてやろうと努力はするわけだから。そうしないと、自分の希望は叶えてもらえない。まあ、世の中、善人ばかりじゃないんだがね」
自分と、自分を取り巻く男たちの状況を分析されたようだった。和彦は、まばたきも忘れて男性を見つめる。男性は、運ばれてきた紅茶に一杯だけ砂糖を入れて掻き混ぜると、美味しそうに一口啜った。が、すぐにカップを置き、和彦をまっすぐ見据えてきた。
冷徹で静かな目だった。激しい感情を表に出さなくても、この眼差しを向けられるだけで、気圧される。一喝されたように萎縮してしまう。
普通の人間なら何も感じないのかもしれないが、和彦は違った。数え切れないほど、物騒な男たちの、怖い眼差しに晒されてきたからこそ、恐れを抱く。
息を詰め、体を強張らせる和彦に対して、男性は温厚な表情を見せた。ただし鋭い眼差しは、微塵も揺るがない。
「こうして偉そうにしているが、元々わしは、家業を親から受け継いだ。何代も続いている古臭い家業だ。跡継ぎに望まれるのは、その家業を、自分の次の跡継ぎに無難に継がせることだった。下手を打たなければ、この希望を叶えるのは簡単だ。――あんたはこのことを、どう思う?」
唐突な問いかけを、和彦は自分の実家に当てはめて考える。親からの希望をすべて受け継いでいるのは兄の英俊で、和彦には、何もない。いや、一つだけ望まれたことがあった。
腹の中が冷たくなるような怒りが湧き起こり、同時に、男性の眼差しに対する恐れも消えた。
「……つまらないと思うんです。受け継いだものを、ただそのまま、あとに残すだけというのは。その作業のためだけに自分が存在して、単なる道具になったようで……」
ここで和彦は我に返り、慌てて頭を下げる。
「すみません。失礼なことを言ってしまって」
「いや、あんたと同じことを、わしも感じた。だから行動した。家業なんぞ潰してもかまわんというつもりで、いろんなことをしたよ。その結果――」
「その結果?」
思わず身を乗り出した和彦の目を食い入るように見つめたあと、男性は笑った。人を食らう笑みだった。
和彦は、こんな笑みを浮かべる男を、もう一人知っている。そしてあと一人、将来浮かべそうな青年のことも。
「近いうちに、わしの家に遊びに来るといい。あんたと、もっと話をしてみたい」
「えっ……」
男性から右手を差し出され、見えない力に操られるように和彦はその手を握り返す。ドキリとするほど冷たくて、硬い手だった。
握手を交わしてすぐに男性は立ち上がる。その動作にぎこちなさはなく、それどころか杖を掴むと、足を引きずることなく大股で歩き出した。
唖然として見送る和彦は、さらに異様な光景を目にすることになる。男性が歩き始めると同時に、周囲のテーブルに座っていた男性客たちも一斉に立ち上がったのだ。そこからの動きは見事だった。さりげなく、男性を守るように周囲を囲んでしまい、その姿はあっという間にティーラウンジから見えなくなる。
和彦が目を見開いたまま動けないでいると、すぐに千尋がやってきた。和彦の様子を見るなり、申し訳なさそうな顔で頭を掻く。その表情で、すべて理解した。
「――……あれは、お前の祖父だな」
「長嶺守光。今の総和会会長で、俺のじいちゃん」
一気に体の力が抜け、和彦はぐったりとソファにもたれかかる。今になって、手が小刻みに震えてきた。
「どうして、ここに……」
「仰々しくじいちゃんの家に招待したって、先生、嫌がるし、緊張するだろ? だからまず最初に、じいちゃんがどんな人間なのか、接して知ってもらうのが先だと思って。あっ、これ、長嶺の男たちの総意ね。あの杖は、小道具としては……先生には有効だったのかな。見事に、じいちゃんのナンパに引っかかってたよね」
完全に、ハメられた。長嶺の男たちの目論見どおり、何も知らない和彦は、自然体で長嶺守光と接触し、会話を交わした。
自分は何を言っただろうかと思い返そうとするのだが、動揺のため、思考はただ空回りする。一人でうろたえる和彦を、正面のソファに腰掛けた千尋が楽しげに眺めている。
なんだか悔しくなった和彦は、千尋に身を乗り出させると、きれいにセットしてある髪をくしゃくしゃに掻き乱すという、子供のような八つ当たりをする。千尋は首をすくめて、楽しげな笑い声を上げた。
屈託なく笑う青年が、さきほど話した男の孫なのかと思うと、和彦は少しだけ複雑な心境になる。
長嶺の姓を背負った男とはどういうものなのか、また一つ現実を見せられた気がしたからだ。
男性は、満足そうに頷いたあと、再び口を開く。
「最近は、興味のあることだけはしっかり覚えているが、仕事に関することは、周りにいる若い連中に覚えてもらうようにしている。そのほうが、間違いがない」
男性の口ぶりから、経営者なのだろうと見当をつける。その読みが外れていないことを裏付けるように、男性は続けた。
「使える人手が増えたせいで、自分で考えることが少なくなった。わしが一言何か言えば、周りが考えて、お膳立てまでしてくれる。楽だが、目端が利く連中に囲まれていると、箸の上げ下ろしまで観察されているようで、ときどき居心地が悪くなる。だから、自分のことを知らない相手と、こうして気楽に話せると、ほっとする」
少しだけ自分の今の状況に似ているなと思い、和彦はほろ苦い表情を浮かべる。すると男性が、訝しむように眉をひそめた。
「どうかしたかね?」
「あっ、いえ――。ぼくはある仕事をしていて、今月、開業するんです。なんというか……いいスポンサーに巡り合えて、何から何まで面倒を見てもらえて、まさにぼくの状況こそ、お膳立てをしてもらっているという表現がぴったりくると思って」
「それはすごい。若くて才能のある人間が、そういう幸運を手に入れられるのは、いいことだ」
「そうでしょうか……」
「スポンサーというからには、何かしらの見返りを期待されているのだろうが、あんたが満たされることで、あんたを盛り立てる人間も満たされる。そう思うことで、人間も環境も循環する。利害で結びつくことは、何も悪いことばかりじゃない。結びつくなりに、相手の希望を叶えてやろうと努力はするわけだから。そうしないと、自分の希望は叶えてもらえない。まあ、世の中、善人ばかりじゃないんだがね」
自分と、自分を取り巻く男たちの状況を分析されたようだった。和彦は、まばたきも忘れて男性を見つめる。男性は、運ばれてきた紅茶に一杯だけ砂糖を入れて掻き混ぜると、美味しそうに一口啜った。が、すぐにカップを置き、和彦をまっすぐ見据えてきた。
冷徹で静かな目だった。激しい感情を表に出さなくても、この眼差しを向けられるだけで、気圧される。一喝されたように萎縮してしまう。
普通の人間なら何も感じないのかもしれないが、和彦は違った。数え切れないほど、物騒な男たちの、怖い眼差しに晒されてきたからこそ、恐れを抱く。
息を詰め、体を強張らせる和彦に対して、男性は温厚な表情を見せた。ただし鋭い眼差しは、微塵も揺るがない。
「こうして偉そうにしているが、元々わしは、家業を親から受け継いだ。何代も続いている古臭い家業だ。跡継ぎに望まれるのは、その家業を、自分の次の跡継ぎに無難に継がせることだった。下手を打たなければ、この希望を叶えるのは簡単だ。――あんたはこのことを、どう思う?」
唐突な問いかけを、和彦は自分の実家に当てはめて考える。親からの希望をすべて受け継いでいるのは兄の英俊で、和彦には、何もない。いや、一つだけ望まれたことがあった。
腹の中が冷たくなるような怒りが湧き起こり、同時に、男性の眼差しに対する恐れも消えた。
「……つまらないと思うんです。受け継いだものを、ただそのまま、あとに残すだけというのは。その作業のためだけに自分が存在して、単なる道具になったようで……」
ここで和彦は我に返り、慌てて頭を下げる。
「すみません。失礼なことを言ってしまって」
「いや、あんたと同じことを、わしも感じた。だから行動した。家業なんぞ潰してもかまわんというつもりで、いろんなことをしたよ。その結果――」
「その結果?」
思わず身を乗り出した和彦の目を食い入るように見つめたあと、男性は笑った。人を食らう笑みだった。
和彦は、こんな笑みを浮かべる男を、もう一人知っている。そしてあと一人、将来浮かべそうな青年のことも。
「近いうちに、わしの家に遊びに来るといい。あんたと、もっと話をしてみたい」
「えっ……」
男性から右手を差し出され、見えない力に操られるように和彦はその手を握り返す。ドキリとするほど冷たくて、硬い手だった。
握手を交わしてすぐに男性は立ち上がる。その動作にぎこちなさはなく、それどころか杖を掴むと、足を引きずることなく大股で歩き出した。
唖然として見送る和彦は、さらに異様な光景を目にすることになる。男性が歩き始めると同時に、周囲のテーブルに座っていた男性客たちも一斉に立ち上がったのだ。そこからの動きは見事だった。さりげなく、男性を守るように周囲を囲んでしまい、その姿はあっという間にティーラウンジから見えなくなる。
和彦が目を見開いたまま動けないでいると、すぐに千尋がやってきた。和彦の様子を見るなり、申し訳なさそうな顔で頭を掻く。その表情で、すべて理解した。
「――……あれは、お前の祖父だな」
「長嶺守光。今の総和会会長で、俺のじいちゃん」
一気に体の力が抜け、和彦はぐったりとソファにもたれかかる。今になって、手が小刻みに震えてきた。
「どうして、ここに……」
「仰々しくじいちゃんの家に招待したって、先生、嫌がるし、緊張するだろ? だからまず最初に、じいちゃんがどんな人間なのか、接して知ってもらうのが先だと思って。あっ、これ、長嶺の男たちの総意ね。あの杖は、小道具としては……先生には有効だったのかな。見事に、じいちゃんのナンパに引っかかってたよね」
完全に、ハメられた。長嶺の男たちの目論見どおり、何も知らない和彦は、自然体で長嶺守光と接触し、会話を交わした。
自分は何を言っただろうかと思い返そうとするのだが、動揺のため、思考はただ空回りする。一人でうろたえる和彦を、正面のソファに腰掛けた千尋が楽しげに眺めている。
なんだか悔しくなった和彦は、千尋に身を乗り出させると、きれいにセットしてある髪をくしゃくしゃに掻き乱すという、子供のような八つ当たりをする。千尋は首をすくめて、楽しげな笑い声を上げた。
屈託なく笑う青年が、さきほど話した男の孫なのかと思うと、和彦は少しだけ複雑な心境になる。
長嶺の姓を背負った男とはどういうものなのか、また一つ現実を見せられた気がしたからだ。
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