血と束縛と

北川とも

文字の大きさ
993 / 1,292
第40話

(5)

しおりを挟む




 クリニックが休みの土曜日、いつもより一時間ほど遅い時間に起きた和彦は、パジャマの上からカーディガンを羽織った姿でキッチンに立っていた。
 コーヒーを淹れ、パンを焼くついでに、目玉焼きぐらい作ろうかと、冷蔵庫を開ける。ハムかベーコンでも残っていればと思ったが、どうやら甘かったようだ。せっかくなので、あとで食料を買いに出ることにした。
「今日は一人で、ゆっくり過ごすからな……」
 誰かに聞かせるわけでもないが、本日の目標めいたものを口にする。
 たまには、自分のペースで過ごせる休日があってもいいだろうと、いつになく強く願うのは、ここ最近の慌ただしさのせいだ。他人に振り回されるのは、今の環境にあっては仕方ないと半ば許容している和彦だが、中には不本意なことがある。
 現実逃避だとしても、一日、二日ぐらい、気が滅入るような悩み事を頭から追い払いたくもなるのだ。
 温めたフライパンに卵を落とし入れ、皿などを準備していると、玄関のほうから物音がする。耳を澄まし、落ち着いた足音が近づいてくるのを確認して、誰だろうと考えるまでもなかった。
「――いい匂いがしているな、先生」
 皮肉なのか本気なのか、忌々しいほど魅力的なバリトンによる開口一番の言葉に、和彦は背を向けたまま応じる。
「パンを焼いて、目玉焼きを作っているだけで、大げさな」
「残念だ。俺は朝メシは食ってきた」
「……誰も、あんたの分もあるとは言ってないだろう……」
 和彦は呆れながら振り返り、すぐに目を丸くする。スーツ姿だとばかり思っていた賢吾が、濃いグレーのタートルネックを着ており、その上からラフにチェスターコートを羽織っているのだ。革手袋をスマートに外す姿に、悔しいが少しだけ見惚れてしまった。
 すっかり、肩書き込みで長嶺賢吾という男を見てしまうことが自然になっていたが、何もなくても、そこに立っているだけで、極上の男なのだと思い知らされる。とんでもない状況で初めて賢吾と出会ったときも、外見と雰囲気に自分が圧倒されたことを和彦は思い出していた。
 ぼうっと突っ立っている和彦に、賢吾が薄い笑みを向けてくる。
「せっかくの目玉焼きが焦げるぞ」
 ハッと我に返り、慌ててフライパンの中を覗き込んだ。
 和彦が手軽な朝食を準備している間に、チェスターコートを脱いだ賢吾はダイニングのイスに腰掛ける。朝からやけに機嫌はよさそうで、少し焦げた目玉焼きを眺め、美味そうだなと、あからさまな世辞を口にしたぐらいだ。
 とりあえず賢吾にもコーヒーを淹れてやってから、和彦はやっとテーブルにつく。パンにバターを塗りつつ、疑問を口にした。
「で、朝から何をしに来たんだ。……オシャレして」
「オシャレか?」
 賢吾が露骨に目を輝かせる。やはり、機嫌はいいようだ。
「いいものをラフに着こなして、いかにも、金を持っている悪い中年男みたいだ。ヤクザの組長には見えない」
「それは好都合」
 パンをかじる和彦を、ニヤニヤしながら賢吾が見守っている。仕方なくこちらから水を向けた。
「……これから出かけるのか? だったら、早く行ったらどうだ。ぼくは元気だ――けど、昨日はジムでがんばりすぎたから、筋肉痛で全身が痛い。だから、部屋でゆっくり、したい……」
「早く食えよ、先生。これから一緒に出かけるんだから」
「人の話を少しは聞けっ」
「聞いたうえで、言ったんだ」
 いっそ清々しいほどきっぱり言われ、和彦は口ごもる。それをいいことに賢吾は滔々と続ける。
「今日は天気がいいから、外出日和だ。寒いのは仕方がねーな。しっかり着込んでおけよ、先生。今日はあちこち移動するつもりだから。それと、泊まりになるが、着替えはどうしても必要になったら買えばいいから、何も持っていかなくていい。――楽しい休日になるぞ」
 どうして今日、この男はこんなにも機嫌がいいのかと、和彦はそろそろ空恐ろしさすら感じ始める。
「ついこの間、紅葉を見に行っただろう……。ぼくもたまには、ゆっくりと一人の休日を過ごしたいんだが」
「今日は、俺と先生の二人きりだ。二人で、ゆっくりできる」
 人の話を聞けという再びの抗議は、口中で空しく消える。
 薄い笑みを浮かべたまま、大蛇の潜む賢吾の目は、ひたと和彦を見据えてくる。望み通りの返事を引き出すまで、この視線は逸らさないと言わんばかりに。
 こうなると、和彦に逆らう術はない。長嶺の男の強引さは今に始まったわけではなく、いつものことだと言われればそうなのだが、やはり気になるのは賢吾の機嫌のよさなのだ。
 目玉焼きの理想的な半熟とは程遠い、固くなった黄身を箸で突きながら、和彦はため息交じりで問う。
「あんたの行動の前触れのなさには慣れてきたつもりなんだが、今朝は少し様子が違うように思う。いつにも増して、ぼくの話を聞かないだろ。……何かあったのか?」
「――今日は、俺の誕生日だ」
 ふあっ、と声を上げた和彦は、反射的に立ち上がるとキッチンに駆け込む。冷蔵庫の横にカレンダーをかけてあるのだ。今日の日付を丹念に確認してから、冷蔵庫の陰からこそっと顔を出す。
「十一月十五日?」
「四十七になった」

しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦

雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、 隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。 しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです… オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が なかたのでした。 本当の花嫁じゃない。 だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、 だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という お話です。よろしくお願いします<(_ _)>

伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい

マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。 最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡) 世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。

一軍男子と兄弟になりました

しょうがやき
BL
親の再婚で一軍男子と兄弟になった、平凡男子の話。

過保護な父の歪んだ愛着。旅立ちを控えた俺の身体は、夜ごとに父の形で塗り潰される

中山(ほ)
BL
「パックの中、僕の形になっちゃったね」 夢か現か。耳元で囁かれる甘い声と、内側を執拗に掻き回す熱。翌朝、自室で目覚めたパックに、昨夜の記憶はない。ただ、疼くような下腹部の熱だけが残っていた。 相談しようと向かった相手こそが、自分を侵食している張本人だとも知らずに、パックは父の部屋の扉を開く。 このお話はムーンライトでも投稿してます〜

悪役の僕 何故か愛される

いもち
BL
BLゲーム『恋と魔法と君と』に登場する悪役 セイン・ゴースティ 王子の魔力暴走によって火傷を負った直後に自身が悪役であったことを思い出す。 悪役にならないよう、攻略対象の王子や義弟に近寄らないようにしていたが、逆に構われてしまう。 そしてついにゲーム本編に突入してしまうが、主人公や他の攻略対象の様子もおかしくて… ファンタジーラブコメBL シリアスはほとんどないです 不定期更新

劣等アルファは最強王子から逃げられない

BL
リュシアン・ティレルはアルファだが、オメガのフェロモンに気持ち悪くなる欠陥品のアルファ。そのことを周囲に隠しながら生活しているため、異母弟のオメガであるライモントに手ひどい態度をとってしまい、世間からの評判は悪い。 ある日、気分の悪さに逃げ込んだ先で、ひとりの王子につかまる・・・という話です。

悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?

  *  ゆるゆ
BL
王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。 悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう! せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー? ユィリと皆の動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵も動画もあがります。ほぼ毎日更新 Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。動画を作ったときに更新 プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら! 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー! ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!

処理中です...