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降嫁巫女

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 アーシャが後宮に入って数日後。
 表の宮殿では巫女降嫁の儀式が、後宮では新側室入宮の儀式が執り行われた。
 後宮で儀式の後、もうけられた宴席を早めに辞して湯浴みをしてからアーシャは儀礼通りに自室で王を待つことになった。
 ゆらゆらと部屋のあちこちに備えられた灯火が揺れている。
 アーシャは心細げに寝台の隅に腰かけていた。
 仕えている女官と侍女たちは扉前に詰めてはいるが、部屋の中には誰もいない。
 宴席の場所から遠く離れているためか、部屋の扉を閉めてしまうと喧騒は全く聞こえてこない。
 儀礼とはいえ、王を迎えなければならない。
 何もしないというダミールの言葉が真実だとしても、儀礼は一通り通過しなければならない。
 不安と緊張で表情も体も強張り、手も震えていた。
「陛下のお出ましにございます」
 扉の外からアーシャ付きの女官がそう声を掛けてきた。
 扉が音もなく開けられ、静かなしかししっかりとした重みのある足音が入ってきた。
 アーシャは寝台から立ち上がると、その前で平伏した。
「アーシャ、顔を上げよ」
 そう言われてアーシャはゆっくりと顔を上げた。
 そのままダミールが差し出した手に己の手を重ねて、示された寝台に腰かけた。
 そしてダミールがその隣に座る。
「大丈夫だ。最初に申していた通り、何もせぬ。一連の儀式の流れゆえ、今宵はここに泊まらねばならぬが」
「はい」
 そうダミールに言われても、なかなかアーシャの不安と緊張は解けない。
「一応、明日の朝まで同じ寝台で休まねばならぬ。そなたには触れぬように端で休むゆえ、了承してくれ」
 一国の王に命令ではなく、丁寧な言葉で頼みごとをされることがどうにも慣れないアーシャは、戸惑いながらも黙って頷いた。
「そうだ。そなたにもう一つ申しておくことがあったのだが」
「なんでございましょうか?」
「もし、好いた男ができたら、無茶な駆け落ちや自殺をする前に私と王妃に話せ。何とか添い遂げられるように便宜を図ってやるゆえ」
「あ、ありがとうございます」
 そうは言われても、ここは女人ばかりの後宮なのだ。
 このようなところで、どうやって好いた男ができるというのだろうか。
 アーシャは首を傾げた。
「まあ方法は色々ある。だから思う者ができても勝手に絶望して早まったことはしないでもらいたい」
「お心遣い感謝申し上げます」
 王の元へ降嫁した巫女が他の男と恋に落ちることなど許されぬことだ。
 どんな方法かはわからないが、普通に考えられる手段ではなさそうだ。
「それから、何か私に頼みたいことはないのか? 王妃に頼みたいことなら、直接王妃に頼んでも構わないし」
 そう最初に天幕で話をした時に、王はアーシャに己の願いをきいてくれるのなら、アーシャの願いを出来る限り叶えることを約束してくれていた。
「でしたら、二つほどお願い申し上げたいことがございます」
 あの天幕での夜から今まで何となく考えていたことがあった。
「何だ?」
「私は、巫女になったばかりですぐにこちらに降嫁させて頂くことになりました」
 だから姉巫女たちのような香料の知識も不十分とまではいかないのだが、基礎的な知識しか授けられていなかった。
「香料のことなども一般的な知識程度しかございません。ですから、色々と学ばせて頂きたいのです」
「それで?」
「王妃様に後宮を案内して頂きました折に伺ったのですが、後宮にも表の宮殿にも書物を収めた書庫があるということなのですが」
「そうだ。表の宮殿には政治経済や国内と各国の情勢、文化面などの書物や記録簿置いてある。後宮には、王族や貴族の戸籍簿や王族の私的な書物を管理している。そなたが見たいのは何だ? あまり閲覧規制されているような書物は無理だぞ。私でも出すのが難しいからな」
「はい。そこまで重要な書物とは申しません。私が見せて頂きたいのは、私の前にこの国にいらした歴代の降嫁巫女さまたちが何かしら残された書物です」
「ああ。そういうことか。それでそなたは香料のことなどをもっと学びたいと申すのだな?」
「さようにございます。特にこの国に降嫁された歴代の巫女さまたちは、かなり乳香と没薬のことについて書き残されておられるとか? 神殿を出る前に大巫女さまに教えて頂きました。それを見られれば、香料にも医術にも役立つ知識を得られるでしょうし、自分でもそこから何か新しい技術を思いつくことがあるかもしれないと思いまして」
「わかった。そのくらいはお安い御用だ。おそらく後宮の書庫の一角にまとめられていたように思う。禁書本でもなかったはずだ。ただ、あまりに古いもので修繕中などの場合は、すぐには見ることはできないが。まあそれ以外なら大丈夫だろう。後宮の書庫の管理は王妃の管轄ゆえ、王妃に頼んでおこう」
「ありがとうございます!」
 嬉し気にアーシャの顔がゆるんだ。
「それでもう一つは何だ?」
「はい。私は、王妃様とお生まれになられる御子様を害そうなどとは思っておりません。その思いは、王妃様に再会させて頂いてますます強くなりました。そのような私が、周囲の人たちの思惑に流されないように、私に陛下と王妃様の意図に通じた護衛兼侍女をつけて頂きたいのです。そして……」
「そして?」
「もし私がお二人の意図に反した行動を取ろうとしたときは、人知れず私を殺すように、とその侍女にお命じ下さいませ」
 さすがにダミールは表情を変化させることはなかったが、ただ小さく息をのんだ。
「それはどういうことかわかっているのか?」
「わかっております。これが私にできる陛下と王妃様への忠誠の証にございます」
 何も持っていない自分が唯一、二人に反意のないことを示す手段として考え付いたことだった。
「わかった。それも手配しておこう。では、今日の所はこれまでだ。そなたも休め。今日は儀式続きで疲れたであろう」
 そう言うと、事もなげにダミールは寝台の隅でそのまま寝転がった。
 アーシャもその言葉に従い、天蓋の布を下ろして近くのランプの灯りを消した。
 そうして窓から入ってくる月明かりを頼りに、アーシャも寝台の隅に身体を横たえた。
 とりあえず、ここでの自分の居場所もやりたいことも確保できた。
 このまま静かに穏やかに時が流れていくように、とアーシャは心の中で大神に祈った。
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