華が君と鮮やかな日々

白井

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華が君と鮮やかな日々

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「ねぇ父ちゃん、あのキラキラしたヒトたちはだれ?」
 物心ついた時から視えていたキラキラした光を纏うヒトたちを指差しながら隣でおれの手を引く父さんに問うたのは三歳も半ばの頃だろうか。
 おれが指差した方向をちらりと見て、父さんは訝しげな顔をした。
「誰も居ないぞ?」
「え、でも……」
「歩きながら夢でも見たか?」
 色濃い揶揄に釈然としないものを感じながら、おれはキラキラを纏うヒトたちの横を通り過ぎた。
 キラキラを纏うヒトたちはあちこちに居た。
 けれどもその存在に誰も気付いていなさそう。
 あんなに目立つのに不思議だ。
 おれはそれこそ物心ついた頃から父さんにあちこち連れ回されていたから、定まった居住地はなかった。
 大体町から町へと点々とし、宿屋などを見付けては住み込みで働かせてもらい金銭を得て暮らしていた。
 父さんが点々と居を移るのは、誰かから逃げていたりする訳ではない。
 常に新しい景色を求めて彷徨う寫眞家だったからだ。
 おれはその旅に連れ回されているという訳だ。
 キラキラを纏うヒトたちを凝視すると、あちらは一瞬キョトンとしてから手を振ってくれる。
 それに笑顔で手を振り返し応えれば、キラキラを纏うヒトたちは口許に人差し指を当てて「しぃ」と云うような仕草をした。
 その仕草から、キラキラしたヒトたちが視えることは他の誰にも云ってはいけないことなのだろうと幼心に察し、おれは一度父さんに問うたきり、キラキラしたヒトたちが視えることを秘匿した。
 父親が居らず、手伝いも一段落した時間におれは宿屋の生け垣で談笑する数人のヒトに声を掛けた。
「ねぇ、何でキラキラしてるの?」
 普通の人間には見えないキラキラの理由が知りたくて輪の中に飛び込めば、さっとおれを囲んだ三人が目配せをし合ってからおれを見下ろした。
「わたしたちが視えるの?」
「うん」
「何て珍しい!」
「珍しいの?」
「珍しいわよ。普通わたしたちは人間には視えないもの」
「どうして?」
 素朴な疑問に、三人は「だってね」と揃って声を潜めた。
「わたしたちは花の精だからよ」
「はなの、せい?」
 首を傾げたおれに、三人が頷く。
「わたしは彼処の椿」
「わたしは上の木蓮」
「わたしは裏庭の梅」
 それぞれの自己紹介に、成る程……と目を大きくした。
「じゃあ、町中でもキラキラしてるヒトたちはみんな花?」
 重ねた問いには「きっとそうだわ」という重なる声。
「他の人にはわたしたちが視えることを云わない方が良いわ」
 それは何となく察していた。けれども理由が知りたかった。
「……どうして?」
 おれの二回目の「どうして」に椿が答えた。
「きっと頭がおかしくなったと思われるわ」
「だって、こうして今会話しているのだって、他の誰かが見たらあなたが一人で喋っているようにしか見えないんだから。ついでに、わたしたちと触れ合えても、視えない人間からしてみれば空中で手を彷徨わせているだけにも見えるわ」
 そう木蓮が続ける。
「だからわたしたちと喋る時は気を付けなさいね」
 梅に諭されて、おれは漸く秘匿せねばならない理由に納得して頷いた。
「でも、だれも見ていなかったらはなしかけてもいい?」
 おれには友達と呼べる友達が居ない。
 一人遊びは得意だけれども、本当は誰かと喋ったり遊んだりしたかった。
「なぁ、いいだろ?」
 せがむようなおれの口調に三人はまた一瞬顔を見合わせてから、揃って口許に人差し指を添えた。
「誰も見ていなかったら、ね」
 それはきっとおれのことを慮っての台詞だったに違いない。
 キラキラを纏うヒトたちは、基本皆優しかった。
 人気のない場所で一人ぽつんとしていたり、何人かで輪を作ったりしているヒトたちを見付けると、おれは周囲を窺ってから声を掛けた。
 殆どのヒトたちはまず一番に驚いた顔をする。
 段々とそれが面白くなってきた。
 あちこちで挨拶をして、時には遊び相手になってもらう時間はとても楽しいものだった。
 人間の友達を作り難い環境だからこそ、尚更だった。
 町中の花たちと仲良くなった頃に、父さんから旅立ちを告げられ、名残惜しさに不満を唱えれば、事情を知らない父さんはおれの不満など意に介さず淡々と旅支度を整えた。
 旅立つ前の日には会える花たちを探しては「さよなら」を云って回った。
 きっともう会えないとおれが云えば、花たちも残念そうな顔をしてくれたのが少しだけ嬉しくもあった。
 別離を惜しまれるというのは幸せなことだ。
 己の存在を肯定されているのと同義だから。
 朝早くに旅立つおれと父さんを、宿の椿たちはそっと見送ってくれた。
 残念だけれど仕方がない。
 キラキラを纏うヒトたちが花だと知った今、おれは次の土地でも花たちと仲良くなろうと決めたのだった。
 そうやって、おれは様々な土地で様々な花たちと友達になった。
 何故父親と二人きりで旅をしているのか。母さんはどうしたのか。理由は簡単で。
 母さんは病で床に伏せているから、らしい。
 らしい、と云うのは、おれが物心ついた頃にはもう父さんと二人きりだったからだ。
 母さんの話は父さんから聞いたものでしかない。
 それでも事あるごとに、お前は母さん似だなぁとはよく朗らかに云われたもので、夫婦の仲は確かに悪いものではなさそうだった。
 母さんに会いたいな、という気持ちはないでもなかったけれど、記憶にない人と会うのは最早他人と会うのと変わらない。
 今更会ったところで……という感じもしていた。
 しかし六歳くらいになって、ふと思い付いた。
「ねぇ父ちゃん、母ちゃんの寫眞、ないの?」
 そう。何故今まで気付かなかったのだろう。
 寫眞家の父さんなんだから、母さんの寫眞の一枚くらい持っていてもおかしくない。
 けれども父さんは苦笑しながら「ないよ」と肩を竦めた。
「なんで」
「そりゃあだって、」
 おれと視線の高さを合わせた父さんは、顔の横で人差し指を立てた。
「だって、会いたくなるだろう?」
 だったら旅なんか辞めてしまえば良いのに、とは云えなかった。
 新しい景色を目にした父さんの目の輝きは花たちのようにキラキラして見えたからだ。
 寫眞機で新境地を開拓することこそ父さんの生き甲斐なのだろうと思ったら、子どもながらに異論を示すことは出来なかった。
 十歳にもなると視野が広がって、色んなことが理解出来るようになってきた。
 父さんが新しい景色を求める気持ちも。
 おれにとってはそれが花と出会うという形だったが。
そこでしか見れない景色を寫眞に収めるのが父さんの生き甲斐。
 その楽しみを共有しようと思ったのか、父さんはおれに寫眞機の使い方を教えてくれた。
 風景を撮る振りをして、こっそり花に焦点を当てた。
 キラキラを纏うヒトが他人にも視覚化されないだろうかと思ったからだ。
 けれども概ね想像していた通り、現像された寫眞に花そのものは写っていれどもキラキラを纏うヒトは写ってはいなかった。
 父さんがその土地土地でしか見れない風景を寫眞に収めたいという気持ちときっと同じで、おれは出会った花たちそれぞれの姿を残したいと思うようになった。
 あのキラキラをどうにかして誰かと共有したかった。
 どうすれば良いだろう。一ヶ月くらい考えて、あぁそうだと手を打つ。
 絵を描けば良い。
 おれにしか視えない世界を可視化する方法はそれしかない、と。
 それまで物を強請ったことのなかったおれは、初めて父さんに物を強請った。写生帳と水彩道具だ。
 色鉛筆ではなく水彩道具を選んだのは、ひとつ前の町で知り合ったおじいさんが水彩画を描いていたのをしばしば見ていたからというだけの理由。
 何でそんな物を、とは云われなかった。
 同じ『その時々の風景を切り取って残すこと』だったからだろうか。
 少し大きな町でようやっと写生帳と水彩道具を買い与えられたおれは、隙間時間に花たちに挨拶をして回っては、絵の描ける環境で花たちを自分が見える通りに描き始めた。
 奥に本体の花を。手前にキラキラを纏うヒトを描いた絵は当然と不思議がられた。
「誰かにモデルを頼んでいるのか?」
 父さんの問いに、ううんも首を左右に振る。
「おれが勝手に描いてるだけだよ」
 嘘ではない。キラキラを纏うヒトを描くのにいちいち許可は取っていなかった。
 覗き込んでくる花たちには、君たちを描いてるんだ、などと明かしたけれど。
「どことなく普通の人間じゃないみたいな描き方だな」
 その感想にドキリとした。それは疚しさではなく、自分の見ているものの可視化に成功しているという証拠だと思ったからだ。
「普通の人じゃないよ」
 だって空想の人だもの。
 おれにとっては空想ではないけれど。
 他人にとっては空想と変わらないだろうからそう返しておいた。
「絵を描くのは楽しいか?」
 寫眞機を丁寧に整備しながら問うてくる父さんに、それはもうと頷く。
「それは良かった」
 写生帳と水彩道具が無駄にならなくて良かったと揶揄を含む父さんの声に、多分暫くはずっと飽きることはないだろうなと心の中で思ったし、それは実際飽きることなどなかった。
 十二歳の頃には写生帳は二冊目を終えようとしていた。
 三冊目を強請ろうとした際に、父さん宛に届いた手紙。それを読んだ父さんは、すぐに旅支度を整え出したし、おれにもそれを要求した。
 この町に来てからまだ一週間も経っていない。
 普段なら季節ふたつは留まる父さんだから、どうしたのかと首を傾げたら、普段は飄々としている父さんが神妙な面持ちでおれの肩を叩いた。
「母さんの病状が悪化したらしい」
 たから一度『帰る』と云った父さんに、あぁこの人はちゃんと母さんのことを自分の居場所にしていたのかと妙な感心をしてしまった。
 急ぎ足で列車を乗り継ぎ二日掛けて母親の居る家に辿り着いた。
 母さんはもう起き上がるのも苦労するくらい衰弱していて。
 それでもおれと父さんの顔を見ると破顔した。
「大きくなったわね」
 細い指で頬を撫でられる感触には薄っすらと覚えがあって、この人は本当におれの母さんなんだなと実感した。
 父さんは母さんに大量の寫眞を見せた。
 此処はこんな所だった。
 彼処はこんな所だった。
 旅の話を織り交ぜながら父さんが語るのを、母さんはにこやかに聞いていた。
「そうだ、此奴は寫眞の代わりに絵を始めたんだ」
 おれを指差しながら父さんがおれに写生帳を出せと無言で促してきた。
 それに従って二冊の写生帳を母さんの視界に入るように広げたら、まぁ、と母さんは元々大きめな目を更に大きくしてから、ふんわりと微笑んだ。
「とても綺麗ね」
「うん」
 そうだろうとこちらも微笑えば、母さんは父さんが席を外している間におれの耳を自分の口許に寄せさせた。
 そうして囁かれたのは、
「あなたも視えるのね」
 優しい声に、あなたも? と復唱する。
「あの世界を画に残そうと思うだなんて、やっぱりあの人の血を継いでる証拠ね」
 ころころと鈴が鳴るような声は少女のよう。
 あなたも、ということは、母さんもキラキラを纏うヒトが視えているのだろうか。
「ねえ、喬臣たかおみ喬臣?」
「うん?」
「飽きるまで描き続けなさいな」
「……うん」
 云われなくてもそのつもりだったけれど。
「誰にも伝わらない世界を、伝える仕事をなさい」
 きっとそれはあなたにとっての生き甲斐になるわ、と。そう云われたら、そんなもんかな、と単純に思ってしまった。
「特に桜が綺麗ね……」
「ん、あぁ、おれ、桜好きみたい」
 満開に咲き誇るのも、吹雪のように散る様も好きなんだと返せば、わたしも同じと微笑。
「ねぇ、もしわたしが死んだら、その桜の絵を一緒に燃やしてくれない?」
 あなたとの思い出は殆どないから。
 せめて形あるものと共に果てたいの、なんて云われたら拒否なんて出来る訳がない。
 でも、と注釈を加える。
「その前に、まだ死ぬ時の話はしないで」
 それはすぐ近いのかも知れないけれど、暫く遠い現実になるかも知れないのだ。
 いつか、の約束はするけれど、今すぐのような約束はしたくなかった。
 それから半年。父さんは旅立つことなくこの土地で寫眞を撮り続け、またおれも絵を描き続けた。
 花たちとは随分と仲良くなった。
 進んでモデルになってくれるような花も居た。
 それもこれも、母さんの息子だから、という贔屓目があったらしい。
 母さんはこの家の周囲の花々と随分仲が良かったようだ。
 半年の間に母さんは衰弱していくばかりだった。
 秋にこの地に戻ってきて、厳しい冬を超えて。桜が満開になる直前に母さんは息を引き取った。
 描き掛けだった桜の絵を見せられなかったことだけが悔やまれた。
 おれと同じく桜が好きだと云った母さんに、この絵を見て欲しかった。
 だから、おれは昔描いた桜の絵と、今描き掛けていた桜の絵を母さんの火葬に投げ込んだ。
 いつかまたちゃんとした絵が描けたら、墓に添えに来ようと決めて。
 それからまた放浪の旅が始まった。
 半年振りなだけなのに、一回前の旅が酷く遠い日のことに思えた。
 新たな放浪の旅で知ったことは、今まで巡っていた土地はどこも母さんの元へすぐに駆け付けられる場所だったということ。 
 その制約がなくなって、父さんは遠い遠い土地へとおれを連れて行くようになった。
 山を越え、海を越え。また様々な土地に赴いた。
 遠くの地にはまだ見たことがない花もたくさんあって、絵の描き甲斐があった。
 十四歳になる頃には写生帳は五冊目に入っていた。
 この町では老齢な町長さんのお手伝いをする代わりに空き家を借りることになった。
 午前中に手伝いを終えて、自由になった時間で町中をふらつく。
 町の端から端まで探索するのが新しい土地へ踏み込んだ時のおれの習慣だった。
 その町の端っこに、鬱蒼と緑が茂る箇所を見付けた。
 他の場所はきちんと整備されていたのに、その一角だけが杜撰に放置されているようだった。
 それが逆におれの好奇心を掻き立てた。
 何か秘密が隠されているのではないかと思って。
 茂みを探りながら、心無し舗装されていたと思われる道を見付ける。
 よし、と緑を掻き分け、おれは緑の向こうに足を踏み入れた。
 歩くこと十分くらいだろうか。
 緑が拓けたと思ったら、胸の高さくらいの柵が目の前に現れた。
 木製の柵はもう随分と古びて見える。
 ふと視線を巡らせたら、褪せた色で『立ち入るべからず』の文字。
「立入禁止区域、か……」
 人間、駄目だと云われると逆に禁忌を犯したくなるのはどうしてか。
 逡巡してから、おれは柵の上部に手を掛けると、体重を一瞬柵に預けてから向こう側へと降り立った。
 パンパンと埃の付いた手を打ち払って、よしと前を向く。
 雑草生い茂る草地に花はない。
 だからキラキラを纏ったヒトも見当たらない。
 どこか期待していた自分が居たから、少し残念な気持ちになる。
 それでも二十分程歩いたら、大木が見えてきた。
 新緑を枝いっぱいに着飾った大木だった。
 少し駆け足で近寄り、葉の形を確認してそれが桜の木だと知る。
 何故こんな隔離された場所に桜の木が?
 幹に触れたら、背後に気配を感じてパッと振り向く。
「わ……」
 思わず零れたのは感嘆の声。
「すっげ、綺麗……」
 そこには艷やかな黒髪と桜色の双眸を持つ青年が立っていた。
 そんな彼が纏うキラキラは今まで見てきた中でも群を抜いて輝かしいものだから、つい感嘆が声に出てしまった。
「視える、のか?」
「え? あ、うん」
「……」
 おれの素直な返事に目をまんまるくしたかと思えば一瞬視線を逸した青年。
 しかしすぐにおれに視線を戻すと、眉間に皺を寄せた。
「こんな所で何をしている」
 低い声は刺々しいけれども耳馴染みが良くて不思議とどこか心地好さを感じた。
「いや、ちょっと探索を……」
 そう云いながらおれは目の前に現れた声の主を見ながらはしゃぎたくなる気持ちをどうにか抑えた。
 だって、本当に綺麗なんだ。
 キラキラが弾けて見えて、本人の周囲が発光して見える。
 そのヒトはきっとこの桜の精に違いない。
 けれどもひとつ不思議なのは、桜の精は普通桜色の髪色だ。黒髪の桜の精は初めて見た。
 それにしてもとびきり綺麗な光を纏う彼を茫然と見詰めていたら、くいと顎をしゃくった彼。
「柵があっただろう」
「ん、あぁ」
「立て看板を見なかったのか?」
「立入禁止の?」
「見ているなら何故此処まで入って来た」
 いやぁだから好奇心からの探索をだな……。
 そう弁明したら、彼は少し長めの髪を掻き上げながら憮然と云い放った。
「帰れ」
「え?」
「今すぐ帰れと云っている」
「どうして」
「どうしてもだ」
 頑なな青年の意志表示に、おれはおれで負けない。
「嫌だ」
「……何故」
「おれ、アンタと友達になりたいって今思ったから」
「友達……?」
「そう」
 頷いたら、青年はいっそ忌々しげに舌を打った。
「おれには必要ない」
「おれには必要なの」
 両者引かない姿勢。
「それに、おれアンタのこと描きたいって思った」
「かきたい?」
「そう。絵に描きたいって」
 その為にはアンタと仲良くなって此処に通わせてもらえないと困るんだと述べれば、青年はきっぱりと拒絶を示した。
「人間と慣れ合うつもりはない」
「えー、そこを何とかさー!」
 友達になりたいと思ったのは嘘ではない。
 絵に描きたい、と思ったのも嘘ではない。
 おれはこの奇跡的なキラキラを有するヒトと縁を繋ぐことが出来なかったら一生後悔しそうだ。
「判った」
 何が判ったんだ、とばかりの怪訝な顔に、パッと笑顔を咲かせる。
「アンタが嫌でもおれ通うわ」
「ヒトの話を……」
「決めたから。よろしく」
 そう云って右手を差し出したけれど、その手を握り返されることはなかった。
 じゃあ取り敢えず今日は挨拶だけで、と踵を返したおれ。
 不機嫌そうな彼の表情が脳裡に張り付いてしまっている。
「あんなキラッキラしたヒト初めて見たけど……」
 同時にあそこまで非友好的なヒトも初めてだなと思った。
「んー、でもとにかく綺麗だった! あのヒトは絶対描きたい!」
 きっと傑作が描けるに違いない。根拠のない自信がおれの胸の中で去来した。
 町の外れにある囲いには殆ど人が近寄らないのだそうだ。否、近寄ってはいけないらしい。
 これは父さんから聞いた話。
 郷に入っては郷に従え、が我が親子の鉄則だが、今回ばかりはちょっと従えない。
 父さんだって、彼処に見事な桜の木があると知ればきっと行きたがるだろうけれど、おれはどうしてかあの桜を、あの青年を独り占めしたくて囲いの中に入ってしまったことは裡に秘めた。
 それに、既に囲いの中に入ってしまったことが知れたらそもそも怒られるに違いない。
 親子間の関係を良好に保つ為には時には嘘も必要だ……なんて云うのはおれの暴論だが。
 今回は桜の木とは真反対の町外れに空き家があったから、そこを借りた。
 借りる条件は町長老夫婦の家の掃除や買い物だけだったから、午前中で仕事は片付いてしまう。
 つまり、午後は日暮れまで自由時間となるのだ。
 絵を描くようになってからは朝晩の飯の時間以外、父さんとは常に別行動だった。
 だから心置きなく桜の木に通うことが出来た。
 緑を掻き分け、柵を越えて。
 桜の大木の下まで行けば、青年の桜色の双眸がおれを邪険に射抜いてきた。
「もう来るなと云っただろう」
「友達になって欲しいって云ったろ」
 あと、絵を描きたい、って、と。脇に抱えていた写生帳と水彩道具を胸の高さに広げる。
 早速木の全体像が見えるくらいまで後ろに歩んで草地に腰を落とした。
 写生帳を開き、芯の柔らかい鉛筆で薄く下描きをしていく。
「本当に居座る気か」
 とびきり嫌そうな声音とは裏腹に明るく頷いて、鉛筆の先を青年に向ける。
「ねぇ、名前何ていうの」
「名乗る名前はない」
「おれは喬臣」
「聞いていない」
「おれは名乗ったんだから教えてよ」
「勝手に教えてきただけだろう」
 意地でも教えないつもりか? 片頬を膨らませながら、じゃあと鉛筆をくるりと回す。
「教えてくんないなら勝手に呼ぶよ」
 さっくんとかどう? 桜のさを取ってさっくん。
 可愛くない? からからと笑ったら、変な渾名を付けるなと叱られる。
「だって教えてくんないじゃん。アンタ、じゃ味気ないし」
「味気も何も要らん」
「ねぇ、何でそんな排他的なの」
「人間と関わりたくない」
「どうして」
「どうしてもだ」
「頑固者」
「煩い」
 無碍にされて、ちぇ、と舌先を噛む。
 まぁ、急いては事を仕損じる、とも云うし。
 仲を深めていくのはゆっくりいこうじゃないか。
 その日、おれは以降何も云わずに写生に励んだ。
 翌日も、その翌日も。
 ひたすらおれは柵を越えては桜の青年に会いに行った。
 何度見ても目に眩しい程のキラキラを放つ彼。
 どうしてこんなに綺麗に見えるのか、判る日はくるのだろうか。
「ねぇ、そろそろ名前くらい教えてくれても良くない?」
 半月が経って、写生帳の桜に色を乗せながら問う。
「何でそんなに名前が必要なんだ」
「絵の横に名前入れたいから」
「は?」
 不理解を示す彼に、別の頁を見せてやる。
「ほら、個人名、入れてんだ」
 描いた花の隅には自分の名前と花の個人名を添えるのがおれの遣り方。
「アンタのこと描き終わったら名前入れないと」
 そうしないとおれの絵は完成しないんだ、と主張する。
「おれが描いてるのは単なる花じゃない。メインはアンタたち、花の精なんだよ」
 名前を記すことは例え妄想の一部だと云われようとも、個体を描いていることには変わりないから、その個人名を記したいんだと続ける。
「そうすることで、同じ花でも違う奴を描いた証にもなる」
 おれの説得に納得がいったのかどうかは判らないけれど。青年は煩わしそうにおれを見下ろしながら、ぼやくように呟いた。
「おうしろう」
「おーしろー?」
「名前だ」
 切り捨てるように云われて、おれの顔色は明るくなる。
「おーしろー! 字は? どうやって書く?」
 鉛筆と、写生帳の白紙部分を差し出すと、おうしろうは静かにおれから鉛筆を取り上げると、几帳面な字で『桜士郎』と記した。
「桜に士郎、侍みたいで格好良いな」
「名前に格好良いも何もないだろう」
「あるよ、あるある。桜士郎、改めてよろしく」
 にこりと笑ったら、すいと視線を逸らされた。
 ふむ、仲良くなるまでには大分時間が掛かりそうだ。
「でーきた、っと!」
 一ヶ月経って、おれの一枚目の桜士郎画が出来上がった。
 新緑が鮮やかな木と、その根元にキラキラを意識した桜士郎を。
「……やっと終わったのか?」
 上から閉じた写生帳を覗き込まれて、お、と桜士郎を見上げる。
「興味ある?」
「……ただやっと終わったのかと思っただけだ」
「それっておれに興味持ってくれたってことだよな?」
「都合良く解釈するな」
「するよ。だって仲良くなりたいから」
「……何故仲良くなることに拘るんだ」
 溜息混じりの問いに、えー、と唸る。
「友達居ないから」
「嘘だろう」
「嘘じゃねえよ」
 ここで嘘吐いても意味なくね?
 苦笑で肩を竦めたら、まぁ、と微かな相槌。
「おれさー、昔からあっちこっち父さんに連れてかれてたから、人間の友達っていう友達居ないんだよ」
 その場その場で花たちが友達だった感じ。
 そう正直に云えば、少々憐れむような目で見下された。
「しかしおれに固執する必要はないだろう」
 それこそ町にはもっと気の明るい花がたくさん居るだろうと云われて、それはそうだけどと腕を組む。
「何でかなー。桜士郎と絶対仲良くなりたいって本能が訴えてる」
「人間は面倒臭いな」
「面倒臭いって云うなよ」
 一瞬だけむくれて、でもすぐに笑顔を浮かべる。
「多分一目惚れ、だな」
「は?」
「他の誰よりキラキラして視えたからさ」
「……」
 おれの台詞に、桜士郎はどうしてか渋い顔をした。
「もう描き終わったのなら来る必要もないだろう」
「え、もっと描きたいけど」
「邪魔だ」
「何の邪魔もしてないじゃん」
「存在が邪魔だ」
「うっわ、ひどっ」
 大袈裟な反応をして見せれば、桜士郎は鬱陶しげにおれの腕を引いて立たせると、背を押してきた。
「もう来るな」
「来るよ」
「相手にしない」
「それでも良いよ」
 何故おれはこんなにも桜士郎に執着するんだろう、とはこの時は深く考えなかった。
 緑色が濃くなって、蝉が喧しくなり始めた夏。暑いからと葉陰の下から見上げた桜士郎を描いている途中の日に父さんがまたこの地を離れると云い出した。
「え、まだ良くない?」
「町の人に話を聞いたんだが、峠を越えた先に自然豊かな景色が拝める町があるらしい」
「其処に行きたいの?」
「いつものことだろう?」
 そうだ。いつものことだ。でも何だろう。気が進まない。
 どうしてだろうと思いながら夕飯の片付けをして、ふと思い至る。
 おれはまだ咲き誇る桜士郎を描いていないからだ、と。
 桜士郎が花を開くまで季節みっつ。
 父さんはそんなに長い間一所に留まりはしない。
「ねぇ、父さん」
「何だ?」
 煎餅布団に横並びになって隣の父さんに声を掛ける。
「おれだけ、残っちゃ駄目かな」
「何でだ?」
「いや……おれ、この町でまだ描きたい花がたくさんあるから……」
 ちょっとの嘘を混ぜた真実。
「……まぁ、お前ももう十五だしなぁ」
 そろそろ一人でも生きていける年頃か……なんて言ちる父さんは少しだけ寂しそう。
「町長さんに聞いてみよう。良いと云われたらお前だけ残っても良い」
「ほんとにっ?」
 思わずガバッと起き上がったら、落ち着けと苦笑。
「町長さん次第だ」
「そっか」
 落胆するでもなく呟いて、おれは希望を託しながら横になり直して掛け布団を被った。
 そうして迎えた翌日。結果から云おう。
 おれは今の町で一人暮らしをすることになった。
 町長さんは高齢だから若者による世話の手があるのは助かるとのことだった。
「遂にお前も親離れか」
「残念?」
 夕飯の折にそんな会話をする。
「残念と云えば残念だな」
 お前の絵が見られなくなるから、と云われておれは苦笑する。
「おれ、多分ここから動かないと思うから、父さんが『帰って』くれば良い」
「帰って、ねぇ……」
 箸を咥えながら、まぁそれもそうかと頷く父さん。
「居場所を変える度に手紙を書くことにする」
「そうしてくれると助かるね」
 いつ発つの? 麦飯を咀嚼しながら問えば、明日の朝には、と。相変わらず急な話だ。
「なら朝飯はちゃんと作らないとな」
「出来た息子で助かるよ」
 揶揄にそれはどうも、と麦飯を飲み込んだ。
 おれが夕飯の片付けをしている間に父さんは旅支度。
「体にはくれぐれも気を付けてよね」
「お前こそ」
「父さんよりは不摂生じゃないから」
 皮肉を込めたら、苦笑いが返ってきた。
 翌朝、早くに朝飯と昼に食べられるようにと握り飯を用意した。
 この味噌汁の味とも暫くお別れか、などと茶目っ気たっぷりに云う父さんはしかし少しだけ寂しそうに見えたのは気の所為だろうか。
 握り飯を持たせて、他に忘れ物はない? 大丈夫? と繰り返して、大丈夫だと云う父さんを町の端まで見送った。
「元気でね」
「お前もな」
 手を振り合って、おれは父さんの背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
 父さんの姿がすっかり見えなくなってから、おれは「よし」と踵を返した。
 まずは町長さんの家に行って家事や買い物の手伝いだ。
 太陽が南中を少し過ぎるまでにそれを済ませたおれは、意気揚々と写生帳と水彩道具を小脇に抱えて桜士郎の元を訪れた。
 もう「来るな」と云うのも面倒になったかのように桜士郎は忌々しげにもとれる視線だけをおれに投げてきた。
 どうしてこうも愛想がないかなぁ。肩を竦めながらおれはそれでも最近の定位置に腰を落として、頭上を見上げながら、下描きを終えた写生帳の線に色を付けていった。
 桜士郎はおれと関わる気がないという態度を全面に押し出すつもりでか、木の枝に腰を落ち着けてただそこから見える景色を眺めていた。
 だからおれから見える桜士郎は靴の底も同然。
「ねー桜士郎ー」
「……」
「そこから何が見える?」
「……」
「隣、行っても良い?」
「来るな」
 切り捨てるような即答にまた肩が竦む。まったくにべもない。
「まだ描き終わらないのか」
 鉛のように落ちてきた台詞に、え、と絵筆の尻を噛む。
「んー、もう少しで終わるなぁ」
「ならそれを描き終えたらもう一生来るな」
「……桜士郎、何でそんなにおれのこと無碍にするの」
「おれと関わっても良いことなんかない」
「……ちょっと意味が判らないんですけど」
「おれに関わらない方が良い」
「何で」
「何でもだ」
 ぴしりと叩き付けるような言葉に、取り付く島もないなと溜息。
「……まあ、そうだな。少しの間は来なくなるかも」
 そう呟いたら、頭上で緩く揺れていた足がピタリと止まった。
「他の花も描きたいし、夏の桜士郎はこれで描き収めるよ」
 夏の、と強調したおれに、なら秋になったらまた来るのかと至極迷惑そうな声が降ってくる。
「来るよ」
「来るな」
「やだね」
「どうしておれに拘る」
「桜士郎のキラキラを春夏秋冬常に描き留めておきたいから」
「……」
 はぁ、と重たい溜息は無論桜士郎のもの。
「聞き分けのない餓鬼だな」
「餓鬼って年でもないけどねー」
 あぁまぁでも花の精(しかも樹齢の長い木の花)からしてみればおれは餓鬼も同然か。
「ま、顔が見たくなったら来るよ」
 上に放り投げた言葉は舌打ちで撃ち落とされた。
 三日後、真夏の桜の木を描き上げたおれは完全に絵の具が乾くのを待ってから、夕刻頭上に声を掛けた。
「桜士郎、描き終わったよ」
 うん、とも、すん、とも返事がないのは想定内として片付けをする。
「またな」
 朗らかにそう云えば、桜士郎の声の代わりに色濃い緑の葉がさぁっと鳴いた。
 それから一ヶ月程、おれは桜士郎以外の花たちを写生帳に描いた。
 向日葵、朝顔、白粉花に百日紅。
 夏にしか蕾を緩めない花たちを、それぞれとヒソヒソ声で談笑しながら筆を動かした。
 しかし、と頭の隅でぼんやり思う。
 町中で見る花たちも当然キラキラして視えるのだが、やはり桜士郎のキラキラには敵わないな、と。
 そうなるとまた桜士郎のキラキラが恋しくなる訳で。
 幾つかの花を描き留めてから、おれは息抜きだと自分にわざわざ云い訳をして柵を越えた。
 その日、桜士郎は木の幹に凭れて遠くを見詰めていた。
 桜士郎、と呼び掛けるより先に、おれの足音に気付いた桜士郎が嫌そうな顔をしてこちらを見た。
「何しに来た」
「元気かな、って」
「お前に心配される筋合いはない」
「つめたっ」
 冬の氷より冷たいな、と冗談めかして云うが、桜士郎からは何の突っ込みもない。
「ま、元気そうで何より」
 桜士郎を取り巻くキラキラが相変わらずの煌めきであることを元気な証拠だと結論付けて、おれは桜士郎の隣に腰を落とした。
「邪魔だ」
「何もしてないじゃん」
「近くに人間が居るのが邪魔臭い」
「……もっと友好的になりません?」
「ならないな」
 キラキラも変わらずだけれど、態度も相変わらずで何より。
「入道雲、凄いな」
「……」
「夏の雲って感じ」
「……」
「父さんなら、きっとこういう景色を寫眞に撮ってるんだろうな」
 ちょっと話題を振るつもりで呟いてみたけど、反応は何もなかった。ま、それも想定内だけど。
 何も喋らないけれど、桜士郎はその場から動くこともしなかった。
 これは完全なる拒絶、ではないと思っても良いのだろうか。
 そうと考えたら、今後彼を攻略する手立てはなくもないのかも知れない。
 桜士郎のキラキラに目を惹かれるのはもちろんのこと。おれは桜士郎の傍に居ると妙に気持ちが落ち着いた。心穏やかになるというか、何というか。
「桜士郎って不思議だな」
「……何が」
「今まで出会った花の中で、何かが特別だから」
 その何か、が、何かなのかまでは自分で把握出来ていないのが歯痒いのだが。
「おれは別に特別なんかじゃない」
 桜士郎のその声は呻き声にも近く、また小さ過ぎた為おれの鼓膜を打つには至らなかった。
 すっ、と立ち上がった桜士郎はひょいと木の枝に飛び移った。
 もう帰れ、という合図か。
 仕方ない。今日はこの辺で折れておこう。
「桜士郎、またな」
 よっ、とおれも立ち上がって頭上に手を振る。
 視線さえも返ってこなかったけれど、まあそれはそれで桜士郎らしい態度だ。
 一人で小さく肩を揺らしながら、おれは家路を辿った。
 それから半月程、また町中や近くの河原の花たちを描いて、夏の終わりを過ごした。
 朝晩の気温が下がり始めて、昼間の風も涼しさを孕み始めた頃。秋の草花たちに挨拶をしながら、おれはまた桜士郎の元に足を運んだ。
 おれの姿を視界に入れるなり木の上に飛び上がっていった桜士郎に苦笑しながら、口許に手を当てて大きな声を出す。
「桜士郎、また描きに来るからなー」
「……」
 来るな、とはもう言葉ではなく圧力でおれを押し潰しに掛かってきたけれど、そんなものは気にしない。
「んじゃ、今日はそれだけだから」
 じゃあなとあっさり引き返したおれの背を、桜士郎がじぃと見詰めていたことをおれは知らない。
 桜士郎を描くのは葉の色が変わり始めてからにしようと決めていた。
 だからたまに様子を見に行きつつ、まだかなと確認しては町中の花たちを写生帳に描いていった。
 桜士郎の葉の色が変わり出したのは、薄手の外套か首巻きが必要になりだした頃だった。
 大家さんのお古で貰った外套を肩に引っ掛けて、おれは桜士郎の元へと赴いた。
「久し振り」
「ちょこちょこ様子を見に来ていた癖に白々しいな」
「あ、気付いてたんだ?」
「木の上に居れば嫌でも見える」
「何だ、声掛けてくれれば良かったのに」
「掛ける訳がないだろう」
 煩わし気な声音を気にすることなく、おれはまた木の全容が見える位置に腰を落とした。
 そうして開いたのはまっさらな写生帳。
 何となく、桜士郎のことだけは他の花とは別に残しておきたいと思ったから、新しい写生帳を購入した。
 おれの財源は今のところ町長さん頼み。
 手伝いの仕事量に応じて幾らかずつ金銭を受け取っているのだ。家を傷ませないために住んでもらっているようなものだから、と家賃は最早要らないと云われた。
 その多くはない所持金で、おれは画材を買い求めているという訳だ。
 普段通り、鉛筆で薄く線を引いてから色を置いていく。彩りを変えた桜の木を描くのはまた楽しいものだった。
「桜士郎の葉っぱ、全部落ちたら焼き芋でも出来そうだな」
 絵の仕上げをしながら悪戯にそんなことを云えば、呆れたような声が返ってくる。
「そんなことをしたらお前が此処に居ることがバレるぞ」
 一応立入禁止の場所だということを忘れていないだろうな、と目を眇目られてハッとする。
「そっか、そりゃまずい」
「馬鹿なのかお前は」
「馬鹿って酷いな」
「他に云いようがない」
 大きな溜息に、思わず唇が尖る。
 桜士郎を描くのには他の花を描く時以上の気を配った。
 人間は自分が認識しきれない部分を無意識に補完して描いてしまう。
 桜士郎を描くにあたっては、その誤差を少しでも減らしたかった。
 何でだか判らないけれど、桜士郎はおれの中でとにかく特別な存在で。出来得る限り、現実をそのまま写し出したいと思っていた。
 そうでないと、ヒト一倍キラキラした輝きを褪せたものにしてしまうのではないかと思ったからだ。
 新しい写生帳の一頁目に描いた桜士郎はおれの視界に映る通りの輝きをもって表現出来たなと自負し、おれは絵の具が乾いた写生帳をゆっくりと閉じた。
 もう日が暮れるのが大分早くなってきた。
 お陰で作業が出来る時間も短い。
 一枚落ち始めたら刻一刻と葉を落としていく桜の木を絵に留めるのは容易いことではなかったけれど、遣り甲斐はあった。
 故に完成した満足度は高い。
「桜士郎、描けた」
「だから?」
「見る?」
「見ない」
「相変わらず冷たいことで」
 やれやれとわざとらしく嘆いて、おれは画材を小脇に抱えた。
 西の空は真っ赤。
 そんな濃い橙に染まる木の幹を見て、あぁと思う。
 冬の間は葉や花を主体にするのではなく、幹を主体に背景を写実的に描くのもアリだな、と。
「んじゃ、もうすぐ暗くなりそうだし今日はこの辺で」
「さっさと帰れ」
「はいはい。じゃーな」
 ひらひらと手を振って、おれは何食わぬ顔で柵の外に出た。
 そうして秋は過ぎ行き、暦は年末を迎えた。
 いつものように町長さんの手伝いで……特にこの日はここ数年ずっと出来ていなかった大掃除と称して天袋の片付けを任されていたら、古い帳面が一冊出てきた。
 本かと思って捲って見たら日記のようなものだったから、あまり中身を頭に入れないように閉じた。
「町長さん、これ大事なものですか?」
 居間で茶を啜っていた町長さんに帳面を差し出したら、はて、と首を傾げた町長さんが帳面をパラパラと捲って表情を渋らせた。
「一応取っておいてくれ」
「はい」
 それ、日記か何かですか?
 そう聞くのは不躾だと思ったけれど、つい訊いてしまった。
「日記ではないが、ちょっとした記録じゃ」
「記録……」
 何の、とは訊かなかった自分を褒めたい。
 けれどもその答えは町長さんが自ら提示してくれた。
「疲れたろう。少し茶でも飲んで休むと良い」
「あ、ありがとうございます」
 火鉢にかけた薬缶から急須に湯を注ぐ町長さん。
 淹れてもらった茶は出涸らしに近かったけれども文句は云えない。
「お前さんは暫く此処に居るつもりなんじゃろう?」
「えぇ、まあ、居させて頂ける限りはそのつもりです……」
「だとしたら、知っておいても良いかも知れんな」
 何を? と首を傾げたら、町長さんは帳面を捲ってある頁をおれに見せた。
 記されているのは日付と、女性のものと思しき名前、それに……。
「首吊り……?」
「あぁ、その帳面に書いてあるのはとある条件下で死んだ女の名前と死因と死亡日付じゃ」
「とある、条件下?」
「……この町には、女を惑わす木があるんじゃよ」
 女を惑わす、とは?
 更に深く首を傾けるおれに、町長さんは茶を啜ってからふうと息を吐いた。
「同じ木の下で、しかし別々の死因で女が複数人亡くなる、そんな伝説じみた話がこの町には実際あってな。数年に一人程度の頻度ではあったが、いつの時代から続いているのか判らない怪奇事件に終止符を打つ手立てはないのか。そう考えた先代の町長が考えたのが、その木を隔離し人目から遠ざける案じゃった」
 安易な策に思えるかも知れないが、切り倒すには労力と金が掛かり過ぎるもんじゃからな。それは出来なかったんじゃよ。しかしまあ十年も経ちその木の存在を知る者が減っていくにつれて怪奇事件は減っていき、今ではもう二十年程犠牲者は出ていない、と町長さんは悪戯に帳面を捲った。
「その木、って……」
 もしかして、と予測出来たのは、自分が警告に従っていないから。
「何処とは云わんが、町の外れに一本の木を隠してある」
「何の木か、は訊いても……?」
「桜の木じゃ」
「……」
 つまり、女性たちを惑わせ死に至らしめてきていると信じられているのは、桜士郎、ということになるのだろうか。
「それにしても、女性だけ、なんですか?」
「あぁ、不思議なことに、女だけじゃった」
 それ故に女殺しの木だとも云われている、と町長さんは続けた。
「だから、特に女はこの木には近付かせんようにしとるんよ」
「そうなんですか……」
「こういう時こそ男がしっかりせんとなぁ」
 パタンと帳面を閉じて、町長さんは小さく笑った。
「ひと息吐けたら今日は終わりで良いぞ。一気にやろうとすると体を痛めるからな」
「あ、はい。ありがとうございます」
 すっ、と静かに残りの茶を啜って、ではと席を立つ。
 お邪魔しました、と町長さんの家を出たおれは、自然と歩先を桜士郎の元へと向けていた。
 桜士郎は木の枝に座って幹に背を預けていた。
 よく見れば、細い枯れ木を指先で遊んでいる。
「桜士郎」
「……」
 相変わらず非歓迎的な桜士郎を見上げながら、おれも幹に背を預けて腕を組む。
 彼を纏うキラキラは細かい氷の粒を散らしたかのようにも見える。
「なぁ」
「……」
「一人って、寂しくないか?」
「……何だ、急に」
 やっと低い声が落ちてくる。
「桜士郎は、どんだけ一人なの」
「……知らないな」
「たまには誰かと一緒に居たいって思わないの」
「思わない」
 間髪入れない返事に、そっか、とずるずるしゃがみ込む。
「殺すかも知れないから、か?」
 おれがそう云った直後、カラン、と細い枝が落ちてきた。
「どうしてそれを」
「まぁ、ちょっと偶然聞いてしまい」
 視線を上から真正面に変えて膝を抱える。
「桜士郎が女を惑わす、って」
「……女が勝手に惑うだけだ」
 硬い声に、そっか、とまた繰り返す。
「この町は昔視える女が多かった」
 不思議なことに、女だけだったと珍しく自分から話を継ぐ桜士郎。
 だから女殺しの木だと忌み嫌われたな、と自嘲めいた苦笑が落ちてきた。
「今はもう此処に近寄る人間自体が居ないから何とも云えないが……」
 おれを視た男はお前が初めてだ、と云われて初対面の時を思い出す。
 そういえばあの時桜士郎は酷く驚いた顔をしていたような気がする。
「おれなんかに構わない方が良い」
 あぁ、桜士郎がどうしておれを邪険にするのかが漸く納得出来た。
「でもさぁ」
 わざと間延びした声でおれは地面に転がった枝を拾う。
「おれ、女じゃねぇし」
「……」
「桜士郎が女殺しの木なら、おれには関係なくねぇ?」
「……判らない」
「前例がないから?」
「あぁ」
「桜士郎は、おれを殺したくない、ってことか?」
「進んで人殺しになりたい奴なんか居ないだろう」
 それもそうか、と思う。思う、が。
「大丈夫だよ」
 枝で地面を引っ掻きながら笑う。
「おれは変死なんかしない」
「…………」
 根拠などないけれど、そんな気がした。
「おれ、一人は寂しいよ」
 だから花たちと仲良くなるんだ、と続けてからまた桜士郎を見上げる。
「おれ、桜士郎とも仲良くしたい」
「他の花が居るなら、おれに固執する必要はないだろう」
「あるよ、大ありだ」
「どうして」
「桜士郎がどんな花よりも綺麗だから」
 そのとびきりのキラキラの意味が知りたいんだと云ったら、桜士郎は不可解そうにおれを見下ろしてきた。
「変な奴だな」
「花の精が視える時点でもう変だからなぁ」
「……それもそうか」
「いや、そこは否定してよ」
「事実」
「まぁそうなんだけど……」
 肩を竦めて、桜士郎に向かって右腕を伸ばす。
「なぁ、改めて、友達になってよ」
 手を握って開いてしたら、小枝が一本落ちてきた。
「だったらその気にさせてみろ」
 高圧的な、しかし邪気のない声におれはにっと笑って立ち上がった。
 ぱたぱたと砂埃をはたいてから器用に木をよじ登っていく。
「んじゃ取り敢えず物理的な距離から縮めていこうか」
 桜士郎の座っている枝の近くの枝に腰を落とせば、桜士郎はやれやれといった様子で大きな溜息を吐き出した。
「落ちても助けないぞ」
「だろうな」
 くすくすと笑い、それでも良いよと肩を揺らす。
「そんなヘマしないから」
 これでも木登りは得意なんだと嘯いて、おれは口笛を鳴らした。
 それを煩いと咎められなかったのは、ほんの少しでも桜士郎がおれに心を許してくれた証拠な気がした。
 夜に灯りを持って外を出歩くのは目立つ。
 気分的には年越しを桜士郎と迎えたい気持ちだったが、それは流石に止めておいた。
 おれが桜士郎の元へと通っているのがバレたらきっと良い顔はされないだろう。
 だって桜士郎は今『秘密』の存在なのだから。
 だから、いつもなら父さんと「明けましておめでとう」と「今年もよろしく」を云い合う年越しは、大人しく一人で町長さんから貰った蕎麦を食べて日付を越した。
 三が日は手伝いに来なくても良いと云われていたから、おれは起きて真っ先に桜士郎の元へ駆けた。
「明けましておめでとう」
 年始一発目の挨拶は桜士郎相手になった。
「今年もよろしく、桜士郎」
 木の根元に座っている桜士郎に笑い掛けたら、彼はゆっくりと瞬いてからそっぽを向きながら微かな小さい声で「あぁ」と返事をしてくれた。
 そんな些細なことが嬉しくて、おれは桜士郎の肩に肩を寄せるよう地面に座った。
 花は体温を持たない筈なのに、どうしてか桜士郎は少しだけ暖かい気がした。
「桜士郎、明日からまた描きに来るよ」
 今日は画材を持って来ていないから描けないけれど、と苦笑するおれに、桜士郎は好きにしろと憮然と云い放った。
 冬は日暮れが早いのが難点だ。桜士郎と居られる時間が短くなる。
 西の空が色付き始めたのを合図におれはそれまで独り言のように喋っていた口を閉ざして立ち上がる。
「じゃあ、また明日」
 返事はなかったけれど、来るな、と云われないだけ充分だった。
 それからというもの、おれは毎日必ず桜士郎に会いに行くようになった。
 他の花を描こうと思った日でも、日暮れ前には一度顔を見せる。
「毎日よく来るな」
 呆れ顔の桜士郎に、そりゃあまあと笑う。
「云っただろ。仲を深めたいんでね」
「ふぅん」
 気のない返事に、今日は椿を描いてくるよと人差し指をくるくる回したら、そんな報告は要らないと云われた。本当にツレナイ。
 おれが桜士郎の元に通っていることは今のところ誰にも知られていないようだが、念には念を入れて囲いを越える際には細心の注意を払った。
 なまじ女殺しの木だなんて云い伝えられている場所に足を運んでいると知られたら町から追い出されてしまうかも知れない。それは勘弁だ。だっておれはまだ咲き誇る桜士郎を描いていない。
 少なくとも春が来て花咲き乱れる桜士郎を描いてからでないと死ぬに死ねない。
 大袈裟だと思われるかも知れないが、事実だ。
 椿、山茶花、紅白梅に蝋梅。葉牡丹、水仙と町中巡って咲き誇る花を見付けては描かせてもらう傍ら、桜士郎を描く時間も合間合間に設けていく。
 冬枯れの木を描いたって詰まらないだろうと云われたが、桜士郎に至っては別問題だと筆を動かした。
 葉も花もない木は確かに物寂しさを感じさせるが、その背景になる空の色や雲の形を刹那刹那記憶に留めて描けば幾通りも描けたし、何より本来おれが描きたい花の精――つまりはヒトの形をした桜士郎の表情が徐々に変わっていく様を描き留めるのは楽しくて仕方がなかった。
「うん、年始から表情が和らいできたな」
 独り言は空っ風に乗って彼方へ消えていく。
 おれにとっては嬉しい変化だった。
 絵を描いている時、桜士郎はおれに話し掛けてこない。
 他の花たちは自分がどんな風に描かれているのかをよく確認しにくるものだが、桜士郎に至ってはおれが話し掛けるまで喋らないし近寄っても来ない。
「桜士郎」
「……何だ」
「右向いて」
「は?」
「右向きの顔描きたい」
「……」
 音もない溜息を吐き出して、桜士郎はそれでも素直に右を向いてくれた。
 一分も見詰めていればその形は網膜に灼き付く。
 そうすればあとは記憶を頼りに描いていける。
 さらさらと鉛筆を滑らせて、あとは少しずつ色を乗せていけば良い。
 集中し始めると時間を忘れがちになってしまうから、なるべくこまめに太陽の位置を確認するようにしていた。
 桜士郎と一緒に居るのに、ただ絵を描いて終わってしまっては仲良くなりようがないからだ。
 桜士郎を描かない時は半刻以上。描く時は一刻以上の時間を会話に充てるように規則付けていた。
「よーし、今日の分は終わり」
「もう良いのか」
「キリの良いとこまで描けたからね」
 画材を木の根元に置いて、桜士郎が腰を据えている枝の近くまで登っていく。
「そう云えば桜士郎はそこそこ長生きそうなのに着物姿じゃないんだな」
 ふと思い付いて白い詰め襟のシャツを指差せば、あぁと桜士郎はそっぽを向いた。
「最後の女だったか……古臭い着物姿よりこの姿の方が良いと」
「え、ちょっと待って、花って着替えられんの?」
 樹齢何十年という老齢の花たちは外見年齢こそ若く見えがちだが、服装は古めかしかったからまさか着替えることが出来るとは思わなかった。
「若い花は出来ないだろうが、おれはもう大分長生きしているからな……変えようと思えば変えられる」
 抑揚のない声に、え、じゃあじゃあとおれは身を乗り出す。
「着物姿、見たい」
「見てどうする」
「いや、気分転換?」
「おれが着替えることがどうしてお前の気分転換になるんだ」
「ほら、視覚的変化は表現者として大事だろ」
「……そんなもんなのか」
 興味薄そうに呟いてから、桜士郎は細長く息を吐き出した。
「一瞬で出来る訳じゃない。明日になったら見せてやる」
「本当にっ?」
「嘘を云っても仕方がないだろう」
 ほら、もうすぐ日が暮れだすぞ。
 まだ話し始めて間もないというのに追い返そうとする桜士郎にいやいやと駄々を捏ねていたのも最初の内だけ。
 桜士郎からの印象を悪くさせない為にも云うことは聞くことにしていた。
「明日、楽しみにしてる」
「期待するな」
「はいはい」
 じゃあな、と画材を小脇に。おれは桜士郎に手を振って家路を辿った。
 着物姿が見られる。それは創作意欲に大いに影響を与える事象ではないか。
 詰め襟シャツにスラックス姿ばかりを描いてきたけれど、着物姿が拝めたらその色柄でさえ描きたい放題だ。
 あぁ、本当に桜士郎は描き飽きない。
 翌日、手伝いを終えてすぐに桜士郎の元へ駆けたら、彼は藤鼠色の着物に黒紅の羽織姿だった。羽織紐は赤に黄色の珠が付いていて目を惹く。
「桜士郎、夜桜みたいな色合いだな」
 着物姿を見たおれの第一声に、桜士郎は桜色の目を少しだけ大きくする。
「……そう、見えるのか?」
「え、あ、うん。何か駄目だった?」
「いや、そうではなくて……」
 ふむ、と何か考え込むような仕草。
 首を傾げたら、桜士郎はちらりとだけこちらを見て呟いた。
「そのつもりで昔好んで配色していたが、そうと当てられたのは初めてだ……」
「え、結構判りやすくないか?」
 夜の春風色に染まった着物、夜空を思わせる羽織。満月を想起させる羽織紐に飾られた黄色の珠。そして桜士郎自身が桜だと見立てれば、その出で立ちはまさに夜桜の体現。
「本当に誰にも云われたことなかったの?」
「なかったな」
「へぇ……」
 じゃあ、とおれはパンと手を打ち合わせる。
「おれと桜士郎の感性が近いってことかね」
 相性抜群じゃないかと肩を揺らしたら、桜士郎は本意か照れ隠しか、ほんの僅かにだけ嫌そうな顔をした。
「桜士郎、今日はその格好描かせて」
「……好きにしろ」
 ふい、と顔を背けて、桜士郎は立ったまま幹に背を預けた。
 一度着物姿の桜士郎を目に灼き付けたらあとはもう着物の色柄は自由自在だった。
 冬枯れの木のどこかしらに色鮮やかな桜士郎を置けば、それだけで画が明るくなる。
 まるで桜士郎を纏うキラキラが粉になって画に振り掛かったみたいにキラキラして見える。他人から見てどうか、は知らないけれど。
 真昼の寒さが緩み始めて、日中は少し暖かさを感じられるようになった頃。
 おい、と珍しく桜士郎の方からおれに声を掛けてきた。
「登って来い」
「え? あぁ」
 桜士郎が位置にしている枝の近くまで登ると、桜士郎はほら、と枝の先を指差した。
「なに……あっ!」
 ぎゅ、と桜士郎の肩口を掴んで身を乗り出す。
 枝の先では、桜の蕾が幾つも膨らんでいたのだ。
「どれくらい? あとどれくらいで咲く?」
 息巻いて桜士郎を見詰めたら、そうだな、と視線を横に流しながら呟かれる。
「雪が降るような寒さにならない限り、二週間もしない内には」
 咲き始めるだろうと続けた桜士郎に、おれの機嫌は最高潮に良くなる。
「早く見たい。早く描きたい」
 早く満開の桜を描きたいし、そこにキラキラを増すであろう桜士郎の姿を添えたい。
「あー、楽しみだな!」
 木の枝に体重を預けたまま桜士郎の背中に張り付いたら、危ない、と苦言が返ってきた。
 素っ気ない中にも心配の色が滲んていて、桜士郎のことを知れば知るだけ彼はおれに心を許してくれてきている気がした。
 そうして桜士郎が咲き乱れたのは一週間と三日後。
 少しずつ開花していく桜の花を部分部分写生していたおれは、遂に全体像が描ける、と心を弾ませた。
 春はたくさんの花が咲き出すから忙しい。
 だけどおれが最優先すべきは当然と桜士郎だった。
 桜士郎は今まで見たどの桜の木よりも立派で華やかだった。
 桜士郎が纏うキラキラに比例して、それはもう絢爛に咲き誇っていた。
 小一時間見惚れるだけ見惚れてからハッと我に返って鉛筆を握った。
 そんなおれを桜士郎は相変わらず気にしない様子で、枝に座ったり太い枝に腰を据えていた。
「よし、描けた!」
 数日掛けて描き上げた桜士郎は我ながら最高の出来。自分で描いたものながら惚れ惚れした。
 だけどそれを桜士郎に見せたところで大した反応は得られないだろう。
 得られるのであれば、向こうから見せてくれと云いに来るだろうから。
 それがないということは、こちらから見せても恩着せがましくなってしまいそうだ。
 数日掛けて描いた桜士郎は二枚。
 和装と洋装の桜士郎を描いておきたかったからだ。
 そう考えると、桜士郎専用の写生帳を作って良かったと思う。桜士郎だけで、もう数枚の絵を描いている。
「また散り際に描かせてくれよな」
「勝手にすれば良い」
「ん、勝手にするわ」
 それじゃ、明日からは他の花たちを描いてくる。
 他の季節の花から噂を聞いて、自分たちも描いてくれってせがまれているんだと苦笑したら、人気者だなと嫌味のない揶揄が飛んできた。
「でも会いには来るから」
「別に無理に会いに来なくても良いだろう」
「おれが会いたいの」
 それこそ勝手にすると宣言して、おれは日暮れに桜士郎の元を後にした。
 春の花々を描いていたら、不意に壮年の男性に声を掛けられた。
「君がいつも花を写生している子かな?」
 問いに、さてどうでしょうか……でも確かにおれはいつも花を写生してはいますよと返したら、写生帳を見せてくれと云われた。
 桜士郎のは何となく見せたくなくて、他の花たちを描いている写生帳を手渡す。
 それをぺらりぺらりと捲って、壮年の男性はふむと口許に手を遣った。
「何故花の他に人が?」
「……何となくです」
 視えるヒトをそのまま描いているだけだが、それを云ったら頭がおかしいと思われかねないから、適当に誤魔化す。
「良い絵だ」
「それはどうも……」
 気持ち程度会釈をしたら、男性はおれに写生帳を返しながら声を明るくした。
「絵は趣味で?」
「はい……昔から」
「誰かに見せたことは?」
「家族ぐらいですかね」
 嘘じゃない。人間で絵を見せたことがあるのは父さんと母さんにたけだ。町長さんにも見せたことはない。
「勿体無いな」
「……はぁ」
「私は趣味で絵を集めていてね」
 それで各地を転々としているんだという男にあぁやっぱり町の外の人かと思う。町中の人全員を知っている訳ではないが、それにしたって顔に覚えがないと思った。ましてや絵に興味があるのなら、もっと早くにおれを見付けていた筈だ。
「率直に云おう。君の絵が欲しい」
 はぁ、と頷きかけて、えぇっ? と素っ頓狂な声を出してしまう。
「対価はきちんと払う。一枚私の為に新しく絵を描いてもらえないだろうか?」
「いや……そんな金を払ってもらうようなものでも……」
「己の才能を過小評価しないでおきたまえ。君の絵が世間に広まれば、それを求める人は増えるだろう」
「はぁ……」
 別に増える必要もないのだが……とは云わずに飲み込む。
「聞いてはくれないか?」
「あー……」
 まぁ、桜士郎は描き終えたから、余裕はある。
「何でも良いんですか?」
「君が好きな花を」
「貴方はいつ頃までこの町に?」
「君の絵が完成するまでは」
 ふむ、中々に本気なようだ。
「じゃあ……三日後にまたここで、どうでしょう?」
「三日後だね。判った、そうしよう」
 おれの提案をあっさりと飲み込んでくれた男性は、てはまた三日後に、とおれから離れて行った。
「……変な人……」
 確かに趣味で絵は描き続けてきているけれど。
 こんな認められ方をするとは思わなかった。
「え、でも何描こう……」
 描いていない花は自分の写生帳に残したい。
 となると、もう描いてしまった花にもう一度お願いをするしかない。
「何が良いかな……」
 ぺらぺらと写生帳の最近の頁を捲りながら、おれは唸った。
 悩んで、所望された絵には蒲公英を描くことにした。
 何人かで群れているから、作画には時間が掛かるが見栄えは良い。
 以前描いた蒲公英とは別の蒲公英たちにお願いをして描かせてもらう。
 中々の出来に仕上がりはしたが、キラキラの度合いとしてはやはり桜士郎には劣る。
 かといって、見知らぬ男に桜士郎の美しさを教えてやろうとは思わなかった。
 後から思えば、しょうもない独占欲だ。
 得てして三日後の昼、おれとくだんの男性は約束した場所で落ち合った。
 写生帳から丁寧に千切った蒲公英の絵を渡せば、その人は至極嬉しそうな顔をしておれの手を握ってきた。
「素晴らしい。蒲公英の描写はもちろんだが、この三人の少女が戯れている様がまた絵に華を添えている」
「はぁ……ありがとうございます……」
 僅かに頭を下げたら、約束の対価だ、と封筒を渡される。
 不躾ながら、その場で中身を改めたら、目が丸くなった。
「えっ、こんなに良いんですか?」
 封筒の中にはおれが町長さんからもらう一ヶ月分の金が入っていたのだ。そりゃあ驚きもする。
「相応の対価だよ」
「え、でも……」
「名前を訊いても良いだろうか?」
「あ、え、長嶺喬臣、です」
「ながみねたかおみ、くん、か。この絵を絵画好きの仲間に見せても良いかな?」
「はぁ、まぁその辺りはお好きにしてくださって構いませんが……」
 そう返したら、男性の顔が綻んだ。
「きっとまた絵をお願いしにくるよ」
「はぁ……」
 気の利いた返事が出来ないおれを余所に、男性はいたく満足そうな様子で、それじゃあまた会おうと俺に背を向けた。
「……っていうことがあってさぁ」
 毎日桜士郎と顔を合わせてはいたものの、絵を描いてくれと頼まれていたことは云っていなかったおれは、事後報告で桜士郎にその話をした。
「良かったじゃないか」
 相変わらず特別色のない声音に、まぁねぇと返す。
「まさかおれの絵が金になるなんて思わなかった」
「そのまま職にしたらどうだ」
「いや、そこまで本格的にはやるつもりないよ」
 あくまでおれは好き勝手に絵を描いていたい。
 そう続ければ、お前らしいなと桜士郎は肩を竦めた。
 それからもおれは町長さんの手伝いをしてから桜士郎に会いに行き、そのまま桜士郎を描くか、別の花を描きに行くか、そんな日々を続けていた。
 季節ひとつ越える前に、蒲公英の絵を渡した男性がおれの前に現れた。
 今度は夏の花を描いて欲しい。
 それと、ツレにも一枚、と。所望されたのは二枚の絵。無論対価は倍出すと云われた。
 ひと月はこの町に留まるつもりでいるから、その間にと云われて断らなかったのは、断る理由を考えるのが面倒臭かっただけ。
 夏本番になる手前の雨季に、おれは紫陽花を自分用と含めて三枚描いた。
 雨の日は軒下を借りて絵を描くことが多い。
 或いは、傘を片手にふらふらしながら花たちと二、三小声で会話をして回ったり。
 桜士郎の元へはもちろん傘を差して赴いていた。
 ふと、桜士郎に傘を持たせてみる。
「何の真似だ?」
「いや、うん……悪くないな」
「何がだ」
「傘を持った桜士郎を描くのも、って話」
「酔狂か」
「え、寧ろ名案だと思うけど」
 ちょっとそのまま傘持って立ってて。
 そう云って、おれは桜士郎ご傘を持っている姿を目に灼き付けた。
 最近桜士郎はまた洋装になっていた。
 拘りはないが、洋装の方が楽なのだと云う。
 何がどう楽なのかは教えてくれなかったけれど。
 紫陽花の絵は蒲公英の時同様大層喜ばれた。
 貰った対価も先述の通り。
「私は君の絵がとても気にいったよ。私の周りの絵画好きも注目している。また頼みに来ても良いだろうか?」
 窺いに否を唱える理由はあまりない。
 絵を描くことは何の苦にもならないし、それで対価が貰えるのなら願ったり叶ったりだ。
「季節ひとつずつ、頼みに来たいんだが」
 それは窺いというよりも決定事項を告げるような口調だったから、おれは「あぁはい」と、これまた気の利かない返事でその場を終わらせてしまった。
 しかしそれからというもの、彼から舞い込む絵の依頼の枚数は徐々に増え、どれだけ時間が掛かっても良いからと任される絵も少なからず出てきた。
「すっかり画家じゃないか」
 桜士郎の色濃い揶揄に、そんな大それたモンじゃないと肩を竦める。
「まぁ、でも変な感じはする」
 まさか母親以外の誰かの為に絵を描くようになるとは思わなかった。それも対価付きで。お陰様で暮らす金にも困らなくなったから、町長さんからのお金はもう貰わないことにした。それでも手伝いを辞めなかったのは家を借りている恩義故だ。
「ま、どうせ依頼されようがされまいが絵を描いて過ごす毎日には変わらないしな」
 時間が掛かっても良いと云われれば、甘えて今まで通りにのんびりと絵を描くだけだ。
 好きなことをして暮らせる毎日は幸せという他ないだろう。
「それより桜士郎。そろそろまたお前のこと描くからな」
「いちいち宣言しなくても良い。勝手にしろ」
「はーい勝手にしまーす」
 木の幹を軸に背向かいでそんな会話。これぞまさしく幸せな時間なのだと気付くのはもう少し先。
 おれがこの町に居付いて二年。二度目の満開の桜を写生帳に収めたおれは満たされた気持ちでいっぱいだった。
 相も変わらず桜士郎のキラキラは褪せない。
 こんなにも目を惹く花は他に現れない。
 おれは完全に桜士郎に魅せられているといって間違いではないだろう。
 実際、否定する気にもならない。
 桜士郎は見ているだけでもその綺麗さに胸の奥が熱くなるのを感じるし、一緒に居ればその間の時間だけ一瞬時が止まるし、その次にはパッと動き出す。それだけで特別な空気に包まれるのだ。
 これが二人だけの秘密なのだから高揚感は計り知れない。
 そんなことを考えてしまうおれは、何だかもう引き返せない場所まで来てしまっているような気がした。
 花片の雨を浴びて、濃い緑を屋根にして、黃橙の葉で暖を取る。到底十五を超えた男のすることじゃなかったけれど、そんなことを今更気にするようなおれではない。
「お前は子どもか」
「桜士郎よりはね」
 呆れた声にもけらけら笑って返す。笑いながら、噎せて何度か咳き込んだ。
「大丈夫か」
 心配の色が薄い声掛けに、ただ噎せただけだとまた笑う。
「あーあ、もう日暮れが早くなってきた」
 帰りたくないなぁ、などとぼやけば、お前が帰らなかったら心配する人間が居るだろうと云われてしまい、うぅんと唸る。
「どーかな……心配する、の意味が少し違うかも知れない気がするけど」
 多分、おれ自身のことを純粋に心配する人は居ないんじゃないかなと思う。
 町長さんは心配するだろうけれど、それは家を貸している人間が突然居なくなったら驚くだろうという意味での心配だと思う。
「おれが居なくなって心配する人は居るかも知れないけど……困る人は居ないだろうから」
 敢えて冗談っぽく云ったら、桜士郎はそういうことを云うものじゃないと珍しく咎めるような声で呟いた。
「少なくとも絵を描いてくれと云っている人間は困るだろう」
 桜士郎の言葉に、おれ以上に凄い絵を描く人間は山といるだろうよと今度は普通に笑ったら、桜士郎は少しだけ渋い顔をした。
「そんなことより、明日はまた桜士郎のこと描こうかな」
「よくもまぁ飽きないものだな」
「飽きないよ。桜士郎は何枚描いても飽きない」
 別に他の花だって飽きることはないのだけれど。桜士郎は中でも特別。
 四季折々の桜士郎だけを描いた写生帳は一冊の半分は埋まっている。
「どうしてそんなにおれに拘るんだ」
「どうしてだろうね」
 桜士郎のキラキラが色褪せずにいつでも綺麗に視えるからだろうな。
 翌日からグッと気温が下がって寒さが増してきた。あぁ、本格的に冬が来たかなぁなどと思いながら布団を出た。
 町長さんの手伝いをしてから桜士郎の元へ行くまで、おれは何度も空咳を繰り返して、風邪でも引いたかな、なんて思う。
 桜士郎に会いに行って、絵を描きながら空咳をしていたら、あまりの頻度にまた、大丈夫かと声が飛んできた。
「ん、多分風邪の引き始めだと思う」
 けほけほと息の塊を喉奥から吐いて、へらりと笑う。
「だったら程々にして帰れ」
「えー、やだよ」
「悪化したらどうする」
「え、何、桜士郎心配してくれてんの?」
 にやにやと笑ったら、そんなことはないと素っ気ない返事が返ってきた。
「ん、でも今日は桜士郎の云うことは聞いておこうかな」
「……珍しいな」
「たまにはねー」
 からからと笑って、おれは描きかけの絵の絵の具が乾くのを待った。
 そうしてその日おれはまだ明るい時間におれは家に帰った。
 本当に風邪でも引いたのか、寒気がして綿入りを羽織ったまま飯を食わずに布団に潜った。
 翌朝起きると頭がくらくらした。
 体の芯は冷えているのに、表面が熱い。
 体が重たくて云うことを聞かない。
 いつも町長さんの手伝いに出掛ける時間になってもおれは動けないままで、これは困ったなと思う。
 今日は行けそうにないと遠隔で連絡する術はない。
 おれは気合でどうにか体を動かすことに成功して、ふらふらと町長さんの家に向かった。
 町長さんの家に行ったら、会って早々奥さんに顔色の悪さを指摘された。
 額と首筋に手を当てられて、熱があると顔を顰められた。
 今日はもう良いから家で大人しくしてなさい。お医者を呼んであげるから。
 そこまで云われて背中を押されてしまえば「大丈夫ですよ」とも云えない。
 お言葉に甘えます、と頭の中をふわふわさせながらおれは家に帰った。
 間もなくして医者がやってきた。
 問診されながら測った体温は三十八度を超えていた。
 こんな熱を出すのは記憶上初めてで、だから余計にくらくらするのかも知れない。
 聴診されたら、肺の辺りで医者が僅かに目を細めた。
「咳はいつ頃から?」
「一昨日? 数日前からですけど……」
「一応咳止めを出しておくけれど、あまり長く咳が続くようだったら診療所に来なさい」
「……はい」
 相対し慣れない医者の云うことは聞いて置いた方が良い気がした。
 二、三日は安静にと云われ、町長さんのところへは医者が伝言しておくと云ってくれた。
 本当なら何かちゃんと食べた方が良いのだろうけれど、一度横になってしまったら、飯を炊く気にもなれない。
 まぁ良いか、とおれは処方された薬を水で流し込んで布団に潜った。
 ひと晩目は熱の所為か薬のお陰か夢も見ないくらい深く眠った。
 二日目は大分熱が下がったように思えたが、咳が止まらなくなった。
 湿咳もあったが、殆どは息も吸えなくなるような空咳。
 薬を飲もうにも咳が邪魔をして上手く飲めない。
 三日目にはもう熱はすっかり引いたが、咳は相変わらず。
 それでも町長さんの家に行けば、奥さんに背中をさすられて無理はしなくて良いと云われた。
 別に無理をしている訳ではないのだが……。
「もう払うもんも払っとらんし、手伝いはわしらが特に困った時にだけ頼むことにしよう」
 町長さんにもそう云われてしまい、あらまぁこれは暗に戦力外通告みたいなもんか? と思ってしまう。
 しかし咳で呼吸が妨げられる今は有り難いところでもある。
 済みません、と頭を下げて、おれは一度家に戻ってから桜士郎の元へと足を運んだ。
 丸二日空いて、桜士郎は変に思っていないだろうか?
 それは、桜士郎に心配されていて欲しいという裏っ返しのようでもあった。
「桜士郎」
 木の根元に座っていた桜士郎の肩を背後から叩く。
 すると彼はびくりと肩を跳ね上げてからおれを見上げてきた。
「ごめん、本当に風邪引いた」
 咳混じりに云えば、そうかと低い声。
 ゆらり立ち上がった桜士郎はおれの首筋に手を当てた。ひんやりした手が気持ち良い。
「まだ少し熱い」
「そうかな」
「あぁ」
「帰れって云う?」
「云ったら帰るのか?」
「この前描きかけた分だけ描いたら」
「ならそうしろ」
 ふい、と背を向けてひょいひょいと気を登っていく桜士郎。
 いつもの定位置に腰を据えて、桜士郎は遠い空を見た。
 おれもおれで、黙々と描きかけの絵を完成させた。
「桜士郎、描けた」
「なら帰れ」
「もう少し居ちゃ駄目?」
「また悪化したら困るだろう」
 桜士郎の台詞に、おれは笑う。
「桜士郎が困る?」
「困るのはお前だろう」
「うん……そうだな」
 この時、おれは多分桜士郎に「困る」と云って欲しかったんだろう。
 約束通り今日はもう帰ると気持ち肩を落として、おれはじゃあなと桜士郎に手を振った。
 翌日からは暫く頼まれた分の花を何枚か描いた。無論、桜士郎の元へ通うのも忘れなかった。
 熱はすっかり下がったけれども咳は相変わらず。寧ろ悪化の一途を辿るようだった。
 町長さんの手伝いがなくなった分、朝から絵を描くことが出来たから、桜士郎と一緒に居られる時間も増えた。
 それは単純におれにとっては嬉しいことだった。
「おい、咳が酷くなっていないか?」
 濃灰色の雲が低い冬も本番。背向かいで木の枝に座っていたら、そんな問いが飛んできた。
「んー……そーだなぁ」
 応えた直後に咳き込む。
 冷たい空気の所為もあるのだろうか、一度咳き込み始めると止まらない。
 ふわり、微風が吹いたかと思ったら、正面に桜士郎が居て、肩を抱き寄せられた。
 咳き込むのに合わせてトントンと背中を叩かれたり、さすられたりする。
 桜士郎の方からこんな風に触れてくるのは初めてでびっくりして余計に咳き込んでしまった。
「ありがと……」
「……別に」
 声は淡々としているけれど背を撫でる手は優しいものだから。何だか特別扱いされているような気になってしまう。
「医者には」
 一頻り咳が落ち着いてからの桜士郎の言葉に唸る。
「酷くなったら来いって云われたけど……」
「なってるだろう」
「んー……」
 わざわざ医者に掛かるの面倒臭いんだよなぁ……とは云わないでおく。
「一度行っておけ」
 行かないなら会わない、と云われたらちょっと待てと慌ててしまう。
「それを出してくるのは狡いだろ」
「だったら、」
「判った。近い内に行く。行くから」
「そうしろ」
 トントン、と合図のように背を叩かれて、桜士郎はまた定位置に戻って行った。
 間もなくしてはらり、白い花が舞い落ちてきた。
 あ、と思った矢先にその花は大きくぼとぼとと空から落ちてきて、乾いた地面を白く彩り始めた。
「こりゃあ積もる雪だなぁ」
 のんびりと手の平で結晶を溶かしていたら、のんびりしている場合かと呆れた声。
「早く帰れ」
「雨じゃないからそんなに濡れないし」
「そういう問題じゃない」
 それこそまた風邪でも引くものなら冬の間は会わないなどと云われて、また狡いと唇が尖る。
 判った、判りました。降参するように両手を顔の高さに上げて枝から降りる。
「雪が止むまでは来るな」
「えぇー」
「文句を云うな」
「はいはい」
 ちぇ、と舌打ちしながら、それでも桜士郎の云うことに従おうと思ったのは、無闇に会える機会を減らしたくないからの一言に尽きる。
 早く雪が止みますように、と願いながらおれは桜士郎の元を離れた。
 町の外れに佇む桜士郎の元から我が家まではまあまあの距離がある。加えて一直線に向かうと誰かに見られる可能性が高くなるだろうと思って、桜士郎と出会って半年ぐらいした頃からは町の外周をなぞるように歩いて行き来するようになっていたから、帰るまでには余計に時間が掛かる。
 外套の前を両手で重ねて息を詰めながらなるべく雪のない常緑樹の下を歩いた。少しでも足跡を隠す為だ。
 町の外周を半分過ぎて、そろそろ良いかと路地に入った途端、込み上げるように咳が止まらなくなった。
 苦しくなって思わず膝をつく。
 片手を口許に、片手で胸元を握り締めてただただ激しく咳き込む。
 ぐっ、と喉の奥が熱くなった。
 次の瞬間、一際大きな咳込みと同時に手の平が濡れた。
「……ぇ」
 未だ軽く咳き込みながら呆然と見遣った手の平は真っ赤。口の中も錆びた味がした。
「何だこれ……」
 呟いた後にまた大きく咳き込んで薄く積もった白の上に赤を撒き散らす。
 おれの体内から赤い花が咲いた……などと云ったら四方八方から馬鹿にされるだろう。
「やばい……な」
 何が、って。医者に掛からなかったことが、だ。
 これがバレたら怒られてしまいそうだ。桜士郎に。
 一度家に帰ったらもう外に出たくなくなりそうな気がして、時間外になってしまうだろうが、診療所の扉を叩くことにした。
 おれの手を見た医者は第一声おれを叱り付けてきた。何故もっと早く来なかったのか、と。
 その云い訳をごにょごにょ濁していたら、また更に怒られた。
 そうして下された診断は肺の病だった。
 若いから悪化の一途は早いと告げられ、早ければ春までも怪しいなどと冗談にならない脅しを掛けられた。
 出来るだけ安静にしていること。
 定期的に診察を受けに来ること。
 それをキツく云い渡されて、否を唱えられるおれではない。
 今まで健康が取り柄で生きてきたようなものなのに、信じられない。
 薬を貰ってとぼとぼと家に帰り着く。
「肺の病……」
 煎餅布団に潜り込んで横になりぽつりと呟く。
 そうしたら無性に心細くなった。
 翌日からまたおれは数日熱発して動けなくなった。
 その間おれを嘲るように天気は晴天続きだった。
 桜士郎の元に行きたいのに行けないもどかしさ。
 どうしてだか、無性に泣きたい気分になった。
 桜士郎に会いたい。おれの胸の裡はそんな思いでいっぱいだった。
 薬のお陰か、熱が下がったら咳も少しマシになって。
 おれは真っ先に桜士郎の元へ駆けた。
「桜士郎!」
 横顔に叫んだら、おれを見た桜士郎の顔が少しだけ歪んだ気がした。
「ごめん、また熱出してた」
「別に謝られることはない。医者には、」
「行ったよ。ちょっと安静にしてろって云われたくらいだった」
 真実をすべては語っていないけれど、嘘も吐いていない。
「……なぁ、桜士郎、蕾、まだだよな……」
 寂しい枝を見上げながら呟けば、そうだなと起伏のない声。
「早く暖かくなんねーかな」
「どうして」
「だって早く桜士郎のこと描きたいから」
「……相変わらずだな、お前は」
「そりゃあね」
 笑って、おれ暫く依頼されてる分の絵だけ描いてくる、とその場を後にした。
 春まで保つか、などと云われてしまったら、桜士郎を描く時間を奪われたくなくて余計な(と云っては失礼だけれども)ことは終わらせておきたかった。
 薬を飲んでいても病状は緩やかに進行して、血を吐く頻度が増えた。
 食欲もないし、体力も落ちてきているのが自分でよ判った。
 病人、己の死期は己自身が一番判る、とはよく云ったもので。
 三月も頭になるとあぁもう本当に春まで保たないかも知れないと思うようになった。
 依頼されていた分の絵をすべて描き上げた頃にはもう駄目だなと自分で死期を悟っていた。だからおれはそれを町長さんに預け、父さんとあちこちを飛び回っていた時のような荷支度をした。
 とは云っても何処か遠くへ行く訳じゃあない。
 ただ、桜士郎の傍に少しでも長く居たいと思っての荷造りだった。
 そんな荷物を持ってきたおれに、桜士郎は驚いた顔。
「何だその荷物は」
「桜士郎が咲くのをすぐに見たいから」
 半分本当、半分建前。咲かなくても良い。ただ桜士郎の傍に居たかった。
「今まで通りに毎日来れば良いだけの話だろう」
「それじゃあ駄目なんだ」
「何が」
「だって……っ、」
 その後の言葉は咳に遮られた。激しく咳き込んで、膝をつく。すぐに桜士郎が傍に来て背をさすってくれた。
「げほっ、げほっけほっ」
 口許を覆う手が湿ったのを感じて、あーあ、と思う。
「おま……っ、」
「ね……だから」
 眉尻を下げて桜士郎を見たら、桜士郎は薄い唇を噛んで表情を歪めた。
「おれと関わったからだ」
 呻くような声に、違うよと笑う。
「だっておれ、女じゃねーよ?」
「けど……っ」
「違う。これは関係ない」
 でも、と桜士郎の腕に縋る。
「多分、もうすぐ、かも」
 おれの弱々しい声に、桜士郎は泣きそうな顔をした。
 木の根元に寝かされたおれの頭の横に、桜士郎は片膝を立てて座り続けていてくれた。
 時折髪の毛を撫で梳かれる。
 まるで母さんがしてくれたみたいな暖かさだった。
「なぁ、桜士郎、おれが描いた絵、見てよ」
 カバンの中を指差して、写生帳を取り出させる。
「表紙に桜の文字がある方が桜士郎専用の写生帳」
「おれ専用?」
「そう。桜士郎だけは、他の誰にも知られたら駄目だったろ?」
 だからさ、って肩を揺らしたら桜士郎は唇を舐めてからその表紙を捲った。
 暫く無言で写生帳を捲っていた桜士郎の手が止まったかと思ったら、目尻を指の背で撫でられた。
「お前の目には、おれがこんな風に見えていたのか」
「そうだよ。綺麗だろう?」
「綺麗過ぎておれじゃないみたいだ」
「桜士郎は綺麗だよ」
 呟いて、大きく瞬く。
「最期に満開の桜士郎が見たかったな……」
 ぽつり、零したおれの言葉に桜士郎が息を飲む。
 病人本人以上に草木は人の死臭に敏感だ。
「なぁ、桜士郎……おれ、ずっと桜士郎の傍に居たかった……」
「どうして……」
「前にも云ったかも知れないけどさ……桜士郎以上にキラキラしてる花見たことないんだ……」
 桜士郎との出会いは運命的なもののようにも感じてる、なんて云えば、桜士郎は嘲笑を失敗させた。
「喬臣」
「……桜士郎、おれの名前、」
 覚えていたのか、と。
 初めて呼ばれた名前に胸が詰まった。
 あぁ、桜士郎に名前を呼ばれることがこんなにも甘やかな気持ちにさせるだなんて。
「お前だから、特別だ」
「特別?」
「あぁ」
 頷いて、ひょいひょいと木の枝を飛び上がっていく桜士郎。
 てっぺんに立った桜士郎を見上げれば、彼は両手をパチンと胸の高さで合わせてから、大きく腕を広げた。
 さらさらと光の粉が舞い落ちる。
 それは枝の先にくっ付いてくるくると丸みを帯びたかと思えば、パァッと花開いた。
 一斉に、満開になった桜の花がおれを見下ろす。
「桜士郎……」
 思わず肘を張って上半身を起こす。
 てっぺんからふわりとおれの横に降り立った桜士郎を見上げて、おれは目を大きく瞬かせた。
「これで、悔いはないか?」
「……うん」
 ぐすり、鼻を鳴らす。
 しかしその後にすぐ、まだもうひとつ、と腕を引いた。
 しゃがんでくれた桜士郎に、おれは腕を広げて彼を見詰める。
「抱き締めて欲しい」
「……」
「お前の腕の中で逝きたいんだ」
 何という子どもっぽい我儘だろう。
「なぁ、桜士郎」
 頼むよ、とそれこそ子どもが強請るような声に、桜士郎はそっと腕を伸ばしておれを抱き竦めた。
 甘い、甘い花の香りがする。桜士郎の香りはおれの肺を清浄にするようだった。
「桜士郎、好きだ」
 自然と洩れた告白。
「……」
「しあわせだな……」
 桜士郎の肩に顔を埋めたまま呟いて。
 おれはそのままゆっくりと目を閉じた。
「喬臣……」
 はたり。おれの頬に滴がひとつ落ちたことをおれは知らない。
 そして、おれは町から行方不明になった。


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