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嫉妬
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電車に乗っても、史は上の空だった。手には携帯電話が握られているが、画面は黒くただそれを見ているだけのように見える。清子はその隣で、今蔓延しているコンピューターウィルスについての最新の情報を得ようとしていた。清子のおかげで「三島出版」のセキュリティーは強化されたが、ウィルスはその上を日々行く。最新の情報を得ないといけないのだ。
「……明日更新しないと……。」
ぽつりと清子が言った言葉にも反応しない。史は何か思い詰めているような気がする。だが詳しくは聞かない。自分には関係ないからだ。
そのとき駅に電車が着き、他の乗客が降りる。清子の最寄り駅まではまだ先だ。他の乗客が乗ってくる。足音がこちらに近づいているのが聞こえて、清子はふっと顔を上げた。そこには長井の姿があったのだ。
「編集長と、徳成さん。」
聞き覚えのある声に、史も顔を上げる。
「あぁ……長井さん。電車通勤だったかな。」
いつもよりも覇気がない。長井が来ても同じだ。他の人には弱みを見せないようにしていたのに、今は何を考えているのかわからない。
「普段は電車を使わないんですけど、前の部署でお世話になっていた作家先生の所に挨拶へ。」
担当を離れてもそんなことをしないといけないのか。そう思っていたが、ふと長井が冬山祥吾の担当編集者だったことを思い出す。そうだ。この女性も祥吾と寝ているのかもしれないのだ。そう思うと、少し複雑な気分だった。
「二人でどこかへ行ってたんですか?帰社は早かったですよね。」
「そうだね。定時だった。」
時計を見ると、十九時三十分。残業をした清子でも十八時には会社を出ていたのだ。
「少し話があったんです。」
清子はそういうと、長井は首を傾げた。
「どうして?会社で話せないようなことでもあったんですか?」
「……変な意味にとらえないでくれ。」
史の口調が少し悪い。それだけいらいらしているのだろう。
「……新種のウィルスの話です。前に見積もりを出したのをいきなり会計課に渡して騒ぎになったから、今回はちゃんと筋を通そうと思ったんです。」
清子がそういうと、長井は納得したように史の隣に座った。
「そういえば、前の課でウィルスが入ったんじゃないのかってちょっとした騒ぎになってましたね。」
作家に依頼した原稿と別の作家に依頼した原稿の内容が、あまりにも似ていたので騒ぎになったのだ。もしかしたら原稿の内容が外に漏れているのではないかという事だ。
「あぁ……そうでしたね。」
「あれって……結局どうなったんですか?」
長井はそう聞くと、清子は少しため息をついた。
「ウィルスは入ってました。でもおかしな事がいくつかあって……その辺はそちらの編集長が知っていると思いますけど。」
「あたしたちみたいな下っ端には届いてないんですよ。」
届いていないと言うよりも知らされていないと言ったところだろうか。知らされるほど信頼されていないのだろう。
「長井さんは……最寄り駅はどこ?」
ずっと黙っていた史が長井にそう聞く。すると長井が言った駅は、清子と同じ駅だった。心の中で舌打ちをする。もしここで史もその駅で降りたら、長井が不信に思うだろう。そして二人は出来ているとあらぬ噂を立てられて、立場が厳しくなるのは清子だ。
「徳成さんはどこの駅ですか?」
「私もそうですよ。」
「え?どこですか?」
「大通り沿いです。」
「あたしは駅に近いところです。近い方が良いって言われて。ほら、あの辺最近変態が多いみたいですから。」
「変態?」
「コートの下には何も来てないヤツ。」
「あぁ。そんなモノを見せてどうするんですかね。見てふっと笑ったら自信を無くしますよ。」
「徳成さんみたいにみんな強いわけじゃないですよ。今まで居たところがそうだったかもしれないけど、たいていの人は怯えるし怖いと思うから。」
強いつもりはないのだが、そうとる人もいるかもしれない。清子は反省をしながらそのまま携帯電話をポケットにしまう。
「徳成さんも最初から強かった訳じゃないだろ?」
史はそういうと、初めて長井と目線を合わせた。
「編集長……。」
「毎年職場が違うような人だ。痛い目にも沢山遭ってきたのだろう。それをバカにするのは聞き捨てならないな。」
「あたし……別にバカになんか……。」
だが史はいらつきを押さえられないらしい。普段は優しく、叱るときもただ冷たく言うだけだったのに、今はそんなことを考える余裕もないのだ。
「派遣は社員より下だって思ってるの?」
「そんなことないですよ。前の課にも派遣は居たけど……そんな特殊能力みたいなことをした人は居なかったですし。」
「特殊能力?」
その言葉にも噛みついている。これ以上長井を責めてはいけない。清子は史の袖を引っ張り、これ以上は言わないように目で合図をした。だが史はいらつきを止められない。
「特殊能力なんかじゃないよ。休みの度に勉強会に行ったり、講習会に行ったりしてるんだ。そうやって自分の力を付けている。君も見習って、AV女優や男優を一人くらい覚えた方が良い。」
その言葉にさすがにいらっとしたのだろう。長井は口を尖らせて、電車が停まったところで立ち上がる。
「長井さん……あの……駅はまだ先ですよね?」
「良いです。まだ用事もあるし、ここで降ります。」
そういって長井は電車を出ていく。
電車のドアが閉まり、清子はため息をついた。
「どうして……そんなことを言うんですか?」
すると史は清子を見下ろすと、口を開く。
「好きな人をバカにされたくない。それだけだよ。」
「編集長の印象も悪くなるんじゃ……。」
「たまには俺も言いたいよ。優しい編集長ってイメージは、正直足かせになってるから。」
「でも……。」
「長井さんには、明日フォローする。とりあえず今日は君のフォローをしたい。それに……。」
そのまま史は清子の肩に手を置いて引き寄せた。
「今日、君は俺のフォローをしてくれないか。」
だが清子はその手を振り払い、また少し距離を置く。
「本当に、吐くように甘い言葉を言うんですね。」
「……君にだけだよ。」
それも誰にでも言っている感じがする。東二が言っていたように、口がうまい男なのだろう。
電車はやがて清子の最寄り駅に着く。清子は立ち上がろうとしたとき、その手を史に握られた。
「あの……。」
「まだ話が終わってない。今日、君を誘ったのはそのためだよ。」
降りていく乗客を見て、そして乗ってくる乗客が前に座る。ドアが閉まり、清子は諦めたように史の隣に座った。
「良い居酒屋があるんだ。日本酒が美味しいよ。」
日本酒に釣られた。そう思うことにしよう。
「……明日更新しないと……。」
ぽつりと清子が言った言葉にも反応しない。史は何か思い詰めているような気がする。だが詳しくは聞かない。自分には関係ないからだ。
そのとき駅に電車が着き、他の乗客が降りる。清子の最寄り駅まではまだ先だ。他の乗客が乗ってくる。足音がこちらに近づいているのが聞こえて、清子はふっと顔を上げた。そこには長井の姿があったのだ。
「編集長と、徳成さん。」
聞き覚えのある声に、史も顔を上げる。
「あぁ……長井さん。電車通勤だったかな。」
いつもよりも覇気がない。長井が来ても同じだ。他の人には弱みを見せないようにしていたのに、今は何を考えているのかわからない。
「普段は電車を使わないんですけど、前の部署でお世話になっていた作家先生の所に挨拶へ。」
担当を離れてもそんなことをしないといけないのか。そう思っていたが、ふと長井が冬山祥吾の担当編集者だったことを思い出す。そうだ。この女性も祥吾と寝ているのかもしれないのだ。そう思うと、少し複雑な気分だった。
「二人でどこかへ行ってたんですか?帰社は早かったですよね。」
「そうだね。定時だった。」
時計を見ると、十九時三十分。残業をした清子でも十八時には会社を出ていたのだ。
「少し話があったんです。」
清子はそういうと、長井は首を傾げた。
「どうして?会社で話せないようなことでもあったんですか?」
「……変な意味にとらえないでくれ。」
史の口調が少し悪い。それだけいらいらしているのだろう。
「……新種のウィルスの話です。前に見積もりを出したのをいきなり会計課に渡して騒ぎになったから、今回はちゃんと筋を通そうと思ったんです。」
清子がそういうと、長井は納得したように史の隣に座った。
「そういえば、前の課でウィルスが入ったんじゃないのかってちょっとした騒ぎになってましたね。」
作家に依頼した原稿と別の作家に依頼した原稿の内容が、あまりにも似ていたので騒ぎになったのだ。もしかしたら原稿の内容が外に漏れているのではないかという事だ。
「あぁ……そうでしたね。」
「あれって……結局どうなったんですか?」
長井はそう聞くと、清子は少しため息をついた。
「ウィルスは入ってました。でもおかしな事がいくつかあって……その辺はそちらの編集長が知っていると思いますけど。」
「あたしたちみたいな下っ端には届いてないんですよ。」
届いていないと言うよりも知らされていないと言ったところだろうか。知らされるほど信頼されていないのだろう。
「長井さんは……最寄り駅はどこ?」
ずっと黙っていた史が長井にそう聞く。すると長井が言った駅は、清子と同じ駅だった。心の中で舌打ちをする。もしここで史もその駅で降りたら、長井が不信に思うだろう。そして二人は出来ているとあらぬ噂を立てられて、立場が厳しくなるのは清子だ。
「徳成さんはどこの駅ですか?」
「私もそうですよ。」
「え?どこですか?」
「大通り沿いです。」
「あたしは駅に近いところです。近い方が良いって言われて。ほら、あの辺最近変態が多いみたいですから。」
「変態?」
「コートの下には何も来てないヤツ。」
「あぁ。そんなモノを見せてどうするんですかね。見てふっと笑ったら自信を無くしますよ。」
「徳成さんみたいにみんな強いわけじゃないですよ。今まで居たところがそうだったかもしれないけど、たいていの人は怯えるし怖いと思うから。」
強いつもりはないのだが、そうとる人もいるかもしれない。清子は反省をしながらそのまま携帯電話をポケットにしまう。
「徳成さんも最初から強かった訳じゃないだろ?」
史はそういうと、初めて長井と目線を合わせた。
「編集長……。」
「毎年職場が違うような人だ。痛い目にも沢山遭ってきたのだろう。それをバカにするのは聞き捨てならないな。」
「あたし……別にバカになんか……。」
だが史はいらつきを押さえられないらしい。普段は優しく、叱るときもただ冷たく言うだけだったのに、今はそんなことを考える余裕もないのだ。
「派遣は社員より下だって思ってるの?」
「そんなことないですよ。前の課にも派遣は居たけど……そんな特殊能力みたいなことをした人は居なかったですし。」
「特殊能力?」
その言葉にも噛みついている。これ以上長井を責めてはいけない。清子は史の袖を引っ張り、これ以上は言わないように目で合図をした。だが史はいらつきを止められない。
「特殊能力なんかじゃないよ。休みの度に勉強会に行ったり、講習会に行ったりしてるんだ。そうやって自分の力を付けている。君も見習って、AV女優や男優を一人くらい覚えた方が良い。」
その言葉にさすがにいらっとしたのだろう。長井は口を尖らせて、電車が停まったところで立ち上がる。
「長井さん……あの……駅はまだ先ですよね?」
「良いです。まだ用事もあるし、ここで降ります。」
そういって長井は電車を出ていく。
電車のドアが閉まり、清子はため息をついた。
「どうして……そんなことを言うんですか?」
すると史は清子を見下ろすと、口を開く。
「好きな人をバカにされたくない。それだけだよ。」
「編集長の印象も悪くなるんじゃ……。」
「たまには俺も言いたいよ。優しい編集長ってイメージは、正直足かせになってるから。」
「でも……。」
「長井さんには、明日フォローする。とりあえず今日は君のフォローをしたい。それに……。」
そのまま史は清子の肩に手を置いて引き寄せた。
「今日、君は俺のフォローをしてくれないか。」
だが清子はその手を振り払い、また少し距離を置く。
「本当に、吐くように甘い言葉を言うんですね。」
「……君にだけだよ。」
それも誰にでも言っている感じがする。東二が言っていたように、口がうまい男なのだろう。
電車はやがて清子の最寄り駅に着く。清子は立ち上がろうとしたとき、その手を史に握られた。
「あの……。」
「まだ話が終わってない。今日、君を誘ったのはそのためだよ。」
降りていく乗客を見て、そして乗ってくる乗客が前に座る。ドアが閉まり、清子は諦めたように史の隣に座った。
「良い居酒屋があるんだ。日本酒が美味しいよ。」
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