テロリストと兵士

神崎

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 少しずつだが、朝が明るくなるのが早くなってきた。いつもなら店を出るときには星が見えていたのだが、今はもう見えないし薄く明るくなっている。
 それでも累はそんな感傷に浸っている暇はなかった。日々、大きくなっていく月に、この月が丸くなったら藍に会えると心のどこかで期待をしていたのだ。
 幸いにも真も彩も最近は姿を見せない。いや。彩は来ることはあるが、それはあくまで仕事をするときだけだった。彼女に指一本触れることはなく、淡々と仕事の内容を彼女に告げている。それはそれで楽だと思った。求められる度に藍の顔がちらつくから。
 やがて市場に着くと、彼女は今日のメインを品定めしていた。キビナゴがザル一杯で売られている。これをタマネギと一緒にかき揚げにすると美味しい。
「すいません。これをいただけますか。」
 そう言うと、魚屋はそれを彼女の持っている籠の中に入れてくれるそのとき彼女に声をかける人がいた。
「累さん?」
 彼女は振り返ると、そこには幻の姿があった。
「幻さんでしたか。」
「えぇ。今日は魚はキビナゴなの?」
「そうですね。かき揚げにしようかと。」
「美味しそう。今日行こうかな。」
「えぇ。是非。」
 彼女はそう言ってその場を去ろうとした。そのとき幻は彼女に声をかける。
「あぁ。累さん。」
「どうしました?」
「藍さんが、今日帰ってくるって知ってる?」
「そうでしたか。それは知りませんで。」
 だとしたら食事を避けていればいいだろうか。今日は出来ればこのかき揚げを食べて欲しい。旬のものは美味しいだろうから。
「累さんたちって案外アレよね。」
「アレ?」
「あんまりお互い深く知り合わないって言うか。本当に恋人同士なの?」
「必要ないことをベラベラ話しても仕方ないからではないですか?」
 彼女にとってはそれは嫌みでも何でもない。だが幻にとってはそれは嫌みであり、むっとする理由だった。
「愛されてるって自信があるのね。」
「……愛なんかはわかりません。」
 人間ではないのだから。
「でも必要だと思います。」
「あの店の用心棒でもしてもらいたいの?」
「店で暴れる人くらいは押さえきれますが、問題は店の為じゃありませんよ。私の心の中です。」
 殺すことだけがで自分の存在意義があると思っていた。そうではないと気が付かせてくれたのが藍。藍がいなければ彼女はきっともっと非情な殺人マシーンになっていただろう。
「心ね……。」
 人間でありながら、一番わからないことだった。だがこんな女性に会いが入れ込む理由がもっとわからないことだ。小さく、可愛らしいとはいえ、まだ子供のような体つき。こんななりをしてベッドではすごいテクニックでも持っているのだろうか。
「そう言えば……あなた結構若いわよね。」
「二十五です。」
「その若さ出店を一軒持つって大変だったでしょう?」
「運が良かったんです。あの建物は老夫婦が元々食堂をしていたのですが、ご高齢だったので誰かに貸したいという話を聞いたので。」
「そうだったの。」
 だったら納得する。
「幻様。こちらを見ていただけませんか。」
 彼女は声をかけられて、そちらを振り向く。
「ではまた。」
「えぇ。時間があれば行くわ。」
 彼女は手をひらひらと振って、呼ばれた方へいってしまった。
 正直緑称よりも警戒する相手ではないようだ。だが別の意味では警戒が必要だと思う。
 藍のことが気になっているらしい。そして藍によく似合っている。それ以前に自分とは違う。あっちは生身の人間だ。自分は……人間ではないのだから。
 仕入れをすませて、坂を上がっていく。すると店の前に誰かいるのに気が付いた。それは彩の姿。彼女は少しため息を付くと、彼の前で足を止めて、リアカーに輪留めをする。
「手伝うよ。」
「どうしました?お酒の匂いがしますね。」
「……今日相手をした女性が、お酒を勧めてきた。最近は飲んでいなかったから、体を動かして酔いを醒ましたいんだ。」
 きっとそれだけではない。ずっと触れていないから、触れたいだけだろう。きっと求められるんだろう。それに答えないといけない。自分は彼の所有物なのだから。
 生物を冷蔵庫に入れて、空になったリアカーを店の横の階段の下に置く。そして店の中にはいると、薄暗い店内に彩と累だけがいる。
 彼は彼女に近づくと彼女の二の腕に触れてきた。くる。やはりセックスをしないといけないのだろう。
「彩。」
「時間はあるはずだ。累。」
「ここでするのですか?」
「だめ?」
「……。」
 藍とここでしたことがある。誰か見てるかもしれないと思いながらするセックスは、自分を高ぶらせた。
「……そうですね。そろそろ外に人が出る時間です。声が漏れてしまうかもしれませんし……それに……。」
「誰かに見られるかもしれない?」
 どきりとした。藍が帰ってくるといっていた。藍がここに来てこの行為をみないとも限らないのだ。
「見せるような行為ではないでしょう。やはり……二階へ……。」
 すると彼はその声を無視するようにそのつかんでいる腕を引き寄せた。顎を持ち上げて無理矢理キスをする。口内からはアルコールの匂いがした。だがそれよりもいつもより激しくキスをするその行為が、怖いとも思えた。
 縛られても、叩かれても、何とも思わなかったのに、こんなに優しく激しくキスをすると怖いと思う。
「酔ってますか?」
「酔ってるね。君も酔わせたいんだ。」
 テーブルに押しつけられるように彼女は組み敷かれる。だがふっとその腕の力を抜かれた。
「……。」
 そして彼は彼女から体を離す。
「どうしました?」
 体を起こして、彼女は彼に聞く。
「……。」
 この体を差し出すのも、すべて計算されているのか。体を差し出せば、人間は満足すると思っているのか。他の男とセックスすることも許されると思っているのか。
 心まで奪われて、冷静でいられるわけがない。
「累。正直に。」
「なんですか?」
「紅花と通じているのか。」
「紅花?誰のことでしょうか。」
 そのときの彼女はまだ紅花が藍だとまだ気が付いていなかったのだ。
「……紅花だ。赤の側近。」
「知りません。この店にいらしているのでしょうか。こんな町の食堂に側近のような方が見えるとは思えませんが。」
 見えているんだ。だがそれが誰なのかわからないのだろう。
 少なくとも彼女の気を引くような男がいるのはわかった。だがそれが紅花であることは、少なくとも無くなった。彩は少し笑い、彼女を抱きしめる。
「累。抱かせてくれないか。」
「……仕込みがあります。」
「それが終わったら二階で待ってる。」
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