テロリストと兵士

神崎

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「きゃああああ!」
 耳をつんざくような叫び声が聞こえる。藍と累はその声に思わず立ち上がり、声の上がった先に駆け寄った。声の先は集中治療室で、もう人が集まり始めている。
「どうしました?」
「きゃあ!血が!」
「ストレッチャーを!早く!」
 看護師、医師が行き交う中、藍と累はそれに紛れて集中治療室に入っていく。するとそこには血塗れのナイフを持った史医師と、ベッドに横たわったままの信の姿があった。
「……史医師……。」
 彼はぼんやりとしていて、累が声をかけても何も反応はなかった。そこで他の医師が彼に声をかける。
「史君!」
 すると彼ははっと我に返ったように、声をかけた医師の方をみる。そして目の前で血塗れになっている信を見て、慌てたように彼は声をかけた。
「信君!」
「何を言っているんだ。その手に持っているのはなんだと言うんだ!」
 中年の医師にそう言われて、彼は手に持っているナイフをみる。血塗れのそれにやっと気がついて、慌てたようにそれを投げ捨てる。だが誰もが史医師が信を刺したと思っているだろう。
 ナイフだけではなく、白衣にまで血液が飛び散っていたのだから。
「史医師。」
 藍すら「こんなヤツだったのか」と諦めのような表情だった。だが累は冷静に史医師に近づく。
「累さん。」
「何も覚えてませんか?」
「……記憶が……どうしてこんなことになったのか……。」
 するとその中年の医師が声を上げた。
「精神科医がどうして外科の集中治療室にいるんだ。この患者に何か恨みでもあるのか?」
「いいえ。何も……彼を診て欲しいと頼まれて……それから……何もわからない……。」
 血塗れの手で、彼は頭を抱えた。それがわざとらしく見えたのかもしれない。
「役人を呼びました。すぐ来るそうです。」
 その言葉に藍はその看護師に言う。
「少し待てと言っておけ。」
「え……でも……。」
「紅花が直々に話したいと言っていると伝えておけ。」
 彼が紅花だと知らなかったのだろう。彼女は驚いたように藍を見た後、その部屋を駆け出すように出て行った。
「……史医師。その話は本当か?」
「えぇ……。累さんに言われて……この患者の退行を診て欲しいと言われたんです。あなたがそこにいましたが、少し話を聞けば彼には不審な点がいくつかありましたが、それをあなたの前では言わないだろうと判断したので、二人で話すことにしました。」
「史君。せめて看護師を一人つけるべきだ。」
「……そうでしたね。本当に「退行」であればそれをつけるべきでした。申し訳ありません。」
 累は投げ出されて床に転がったナイフをハンカチで包みながら手に取った。
「……。」
「どうした。累。」
「これは……。」
 変わった形状のナイフだが、そのナイフを彼女は知っている。自分がいつか信を追いつめたときに、彼の顔の横に突き刺したナイフだった。普通の人間では自分の手を切るだろう。それは医師であっても関係ない。
「それはお前のナイフか?」
 藍は彼女の肩越しからそのナイフをみる。
「……信さんを追いつめたことがありました。そのときに落としたものでしょう。それがどうしてここに……。」
 信の手にあったものだ。それがどうして史の手にあったのだろう。
「史医師。信とは面識はなかったと言ってましたね。」
「はい。」
 止血作業をされている信は、意識がないようだ。その傷口を累は冷静に見ている。そして史に近づくと、血塗れの手を掴みあげた。そして白衣の袖をめくる。
「……あり得ませんね。」
「は?」
「私であれば史医師ははめられたと考えます。藍。このナイフを鑑識に出してください。」
「……累……それをお前に言う権利はない。」
「……。」
「お前はただの料理人だろう?兵士でもなければ探偵でもない。それを調べるのは俺らの仕事だ。」
「……そうでしたね。ではそうなさってください。出しゃばったことを言いました。」
 そう言って彼女はそのハンカチに包んだナイフを藍に手渡す。
「史医師。あんたは役場に来てもらう。」
「わかりました……。」
 そう言って藍はカーテンの外に出て行こうとした。しかし足を止めて、止血作業をしている医師に声をかけた。
「信は助かりそうですか?」
「えぇ。傷は深いですし、出血もひどいですが大丈夫でしょう……ん?駈医師。ちょっと来てもらえませんか。」
 史医師を攻めようとした中年医師に、外科医が呼ぶ。
「どうしました。」
「この傷ですが。おかしな傷だと思います。駈医師はどう思われますか。」
「……。」
 彼はため息をついて、まだ立ちすくんでいる史医師を見上げる。
「命拾いをしたな。史医師。」
「は?」
「紅花殿。おそらくこの患者は、自分で自分を刺した。そう思います。」
「自分で?」
「はい。傷が物語っていますよ。」
 累はその言葉に「やはり」と思っていた。だがどうして彼はそんなことをしたのだろう。
「だが話は聞かないといけない。史医師。その白衣を脱いで、役場に来てもらおう。」
「はい。」
 藍も累もいない状態で、何があったのか彼には聞かないといけないことがある。それにこうして罪を擦り付けられそうになったということは、彼自身も危ないのかもしれない。保護する必要があるだろう。
「……藍。」
 不安そうに累は彼を見上げる。すると彼は少し笑うと、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「悪いようにはしない。累。お前は時間がないんだろう?」
 時計を見ると、もう「音香」へ行く時間だった。
「はい……。」
「俺はこれが仕事だが、お前も仕事がある。そっちに集中しろ。じゃないと隆に何か言われるんじゃないのか。」
「……わかりました。」
 不審な点がいくつもあり、疑問は残る。だがここから先は彼女の出る幕ではない。
 鼠ではなく、一般人になろうとしているのだ。それは自分の周りで何があっても、彼女の出る幕ではない。そう言われているようだった。
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