彷徨いたどり着いた先

神崎

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疾走

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 喫茶「古時計」は響子の祖父がしていた店で、そこに圭太の兄である信也が通い詰めていたのは、響子が知るわけがなかった。二人は顔を合わせたこともないのは、響子が「古時計」で働き始めた頃には、信也は別の会社に勤めていて地方へ行っていたのだから。
「そうか……。あのときどこかで飲んだコーヒーだと思っていたが、浅草さんのところの……。」
「正確には祖父の味ではありません。淹れ方も違いますし。焙煎の具合も全く違うはずです。」
「それでもよく似ている。」
 そこまで言われると否定はしたくない。響子は表情を変えずにとりあえず礼を言った。
「恐れ入ります。」
「圭太とは仲良くさせてもらっているようだな。」
 その言葉に響子はネルドリップのまめを捨てる手を一度止めた。そして信也の方を見る。
「「古時計」が無くなったときに、声をかけてくださいました。洋菓子店を開きたいので、それに合わせたコーヒーを淹れ欲しいと。何にしても必要とされることは嬉しいことです。」
 意味合いが違う。付き合っているのだろうと声を大にして言いたいところだが、さすがに店の中でそれは無い。夫婦になれば考えなくてすむことだが、まだそんな仲でもなさそうだ。
「専務。そろそろお時間です。」
「わかった。」
 外から声をかけられる。それに反応して信也は金だけを払うと、圭太に言う。
「良い従業員に恵まれたな。」
「あぁ。それだけ運が良いのかね。俺は。」
 運だけか?いぶかしげに信也はそう圭太を見ると、肩に手をぽんと置いて店を出て行ってしまった。その様子に店内にいた女性客が感嘆のため息をつく。
「ちょっと、めっちゃいい男。」
「奥さんが居るって言ってたのに、もったいないねぇ。」
「オーナーのお兄さんだっけ?遊びでも良いから付き合って欲しいよねぇ。」
 勝手なことを言っているな。そう思いながら功太郎はちらっと響子を見る。だが響子の表情はどこか冷え切ったモノだった。
「響子。あぁいうのストライクじゃないのか?」
「は?」
「がたいが良いし、背も高いし。」
「……嘘くさい人。」
 その言葉にキッチンにいた真二郎は思わず吹き出した。
「嘘?」
「結婚式の時に自己紹介したわ。それにコーヒーを淹れて満足そうに飲んでいた。なのに初めてのような感じになっているのは、あまり興味がないのに何かの狙いがあってここまでやってきた。二度、カウンターに近づいてくるなら忠告するわ。」
「でもオーナーの兄貴だろ?」
「そんなの関係ない。お金を払うならみんな平等にお客様だわ。」
 響子はそう言うところがある。身内だから、知り合いだからと言って特別扱いはしない。それは一馬がやってきても同じだった。

 仕事が終わって、響子は街へ出てきていた。本を買うためだ。「clover」のある街にも書店はあるが、この時間までは開いていない。深い緑色のコートと、ショールを合わせた普段の格好で、書店へ向かう。そして書籍のコーナーにある新刊のコーナーへ向かった。
「あった。」
 赤い表紙の本で、黒い色の書体。それでタイトルが書いてある。いつか聡子がデザインをすると言っていた書籍は、結局この作家のわがままで別のデザイナーが手がけた。それとは別の書籍だし、ジャンルはこの作家の好きなミステリー。初期の頃は血が通っていないような作風だったが、最近は少し読みやすくなった気がする。
 女性作家であまり表に出るような作家ではないが、雑誌に載っているその女性の姿はどこか風俗嬢のようにも思えるほど色気があった。美人でスタイルが良い。なのに首元に見えるのは恐らく入れ墨。
 この作家は中学生ほどの頃、レイプされたのだという。そのあと火事に巻き込まれ、体には火傷の跡がひどく残っているのだ。それを誤魔化すために入れ墨を入れたと、自叙伝のような作品に書いてあった。
 響子も傷跡や火傷の跡は確かに残っているが、入れ墨を入れて誤魔化そうという気にはなれない。それにそんなモノを入れたらますます母から怪訝そうな顔をされる。入れ墨を入れると条件にもよるが、感染症のリスクもあるのだ。死にたいと思ったことはあるが、死んだら悲しむ人間も出てきたのだからまだ死ねない。
「響子。」
 声をかけられて驚いてそちらを見る。そこには圭太の姿があったのだ。
「あら。珍しいところで会うわね。」
「本だろ?コレ。」
 そう言って圭太は赤い本を響子に見せる。
「えぇ。インターネットで買えないこともないけれど、どうしても遅くなるしね。」
「お前らしいよ。」
「しばらくは退屈しなくてすむわ。」
「一馬さんはどうしたんだ。」
「外国へ行ってる。どこかの歌手のレコーディングに付き合ってて。」
 それで退屈しのぎなのか。そういう生活を望んでいたのだから、こちらが口を出すことはないだろう。
「飯でも行くか?」
「今日は車?」
「あぁ。だから飯。」
「ふーん。良いわよ。別に。」
「良いのか?他の男と飯なんか行っても。」
「そんなことでぐだぐだ言うような小さい男に見えるかしら。」
「見えないな。あぁ、そう言えば気になってた店があるんだ。お前、付き合わないか。」
「何の店?」
 すると圭太はタウン誌のコーナーに響子を連れてくると、「clover」にも置いているタウン誌を手にしてページをめくった。
「ここ。」
「創作和食?」
「あぁ。ここのオーナーは、俺の古い知り合いでさ。何店舗か店を出して、それを弟子に引き継いだりしてやってきてるんだよ。」
「そんなやり方もあるのね。」
「今度出した店はダイニングみたいな店らしいよ。ベースは和食だけど、肉とかも出すし。ほら生ハムとかもあるしさ。」
「わかったわ。行きましょうか。」
「さすがだな。あ、でも酒は無しな。」
「私がそんなに年がら年中飲んでいるイメージかしら。」
「ざるのくせに。瑞希が言ってたぞ。お前一人であのコーヒーラムを飲んでしまいそうな勢いだって。」
「うるさいな。」
 冗談を言い合いながら、二人はレジへ向かう。店を出ると、駐車場へ向かおうとして空を見上げた。
「雪が降ってるわね。」
「あぁ。寒いと思った。お前、あのマフラーどうしたんだよ。」
 一昨年のクリスマスにもらったマフラーのことを言っているのだろう。響子はショールをあげて、ぽつりと言った。
「そうね。カシミアのマフラーだった。とても暖かかったわね。」
「だったら……。」
「今、それを付けれるかしら。」
 一馬のことを気にしているのだろう。そう思って圭太も黙ってしまった。
 響子と並んで駐車場へ向かう。だがその間にはもうなにもない。この間まで二人だった。なのにもうその間にはなにもない。
 冷たい風と雪が吹き抜けるだけだった。
「どこの街なの?」
「少し離れた街だけど。」
「予約しなくて大丈夫なの?」
「あぁ。そうだった。いつもいきなり行っても席を作ってくれるけど、オープンしたばっかだし、ちょっと連絡してみるわ。」
 携帯電話を取り出すと、その番号にコールしていた。
 その間響子は駐車場の外を見ている。こうやって二人でデートを何度もした。だがもうコレはデートではなく、ただの食事に行くだけだ。そう思いながら、響子も携帯電話を取り出すと一馬にメッセージを送る。
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