夜の声

神崎

文字の大きさ
上 下
161 / 355
二年目

160

しおりを挟む
 大丈夫。いつもの私でいられる。私は鏡を見て、笑顔になった。うん。いつも通りだ。いける。柊さんの前でもいつもの私になれる。
 ドアを開けると、葵さんは私をみる。だけど柊さんはぼんやりとコーヒーを見ているだけだった。
「お帰りなさい。濡れませんでしたか。」
 そっか。お使いものへ行っていたって言うことになってたな。」
「大丈夫です。足下だけですね。」
「良く拭いてくださいね。」
 私は柊さんの前に立つと、彼に声をかけた。
「柊さん。」
「ん?あぁ。いつの間に帰ってきてたんだ。」
「さっきです。」
 何も聞いてなかったにしても、今の態度は何かあったのだろうと伺わせるように思える。
 普通なら「何があったの。」とかしつこく聞くのかもしれない。だけどそんなこと出来ない。柊さんの最もデリケートなところだから。
「そうだったか。」
 明らかに様子が違う。ぼんやりとコーヒーを見つめている。
「……何かありました?」
 溜まらず声をかけると、ふと彼は我に返る。
「何でもない。」
 私はカウンターをでると、彼の隣にあったカップと灰皿を片づけた。
「……疲れてるんですかね。柊。今日は帰りますか。」
「こいつを送っていこうと思ってた。どうせ早く閉めるんだろう。」
「えぇ。そのつもりでした。」
 カウンターに私が戻り、カップを洗い場に持って行く。すると葵さんは、私に近づいてきた。よくわからないまま私は彼を見上げる。
「どうしました?」
「白々しいと思いませんか。」
「え?」
「さっきの会話も、あなた方の態度も。」
「……。」
「聞いていたのでしょう?」
 その言葉に柊さんはこちらを僅かに見た。
「柊。百合の居所は、おそらく茅に聞けばすぐわかるでしょう。追いますか?」
「バカな。もう終わったことだ。」
「しかしあなたはまだ迷っている。そうでしょう?」
 柊さんの拳がぎゅっと握られた。迷っているというのは本当なのかもしれない。私の手がまた汗で濡れてきた。
「もしあなたが百合を追うのであれば、それはそれでかまいませんよ。その場合、桜さんは私がもらいますし。」
 柊さんの前なのに、葵さんは私の肩を抱いてきた。のぞき見るように私の目を見る。
「こんな男ですよ。あなたが本気になるような男ではありません。」
「……。」
 正直戸惑った。どうすればいいのかわからない。百合さんを追いたい柊さんに、私は追ってすがりたいのかと言われるとそんなことを出来るのだろうか。
 だけど私が考えるより先に柊さんが立ち上がっていた。そしてカウンターの中に入ってくる。
「てめぇ!」
 私から葵さんを引き離し、そして葵さんの胸ぐらをつかむ。まるで殴りかかるくらいの勢いがあった。
「やめてください。」
 私も我を取り戻して、葵さんと柊さんを引き離そうとした。しかしすごい力だ。本気で怒っているのかもしれない。
「桜。お前こいつに何をされた?」
「え?」
「一度寝たのは聞いた。それからもう一度寝たのか。」
 首を横に振る。しかし葵さんは薄く笑う。そんなときでも葵さんは冷静だった。こんな時にでも笑顔を作れるのだから。
「小さい男ですね。」
「は?」
「寝ることなど、問題ではないでしょう?問題はほかにある。私は、桜さんが不安定だったのを、慰めただけです。私なりにね。」
「慰めた?」
「えぇ。そうしなければ、桜さんはきっと自分を保てないと思ったまでです。そうでもしなければ、あなたとつき合えない。あなたが鈍感だから。」
「……それでもお前に桜は渡さない。」
「どうでしょうね。あなたの心の中には、まだ百合がいるんでしょう?」
 ずきっと心が痛んだ音がした。
 引っ込んだと思った涙が、また溢れてくる。そんな顔を見られてはいけない。
 私はカウンターを飛び出し、ドアを開けると外に飛び出していった。雨がさっきよりも強くなっている。都合がいい。雨か何なのかわからない方がいい。
 細い路地を抜け、大通りにでる。台風でもう帰ろうとしている人が、いつもよりも多い気がした。
「桜。」
 後ろから声が聞こえる。それは柊さんの声だ。私はそれから逃げるように、走っていった。柊さんの手を逃れるように、家とは逆の方向へ向かっていく。そっちの方が人が多い。紛れるには都合がいいから。
 だけどどんどんと近づいてくる。足の長さも、運動能力もすべてが勝っているから。
 それでも逃げたかった。こんなことを思うのは初めてかもしれない。好きなのに、愛しているのに、逃げたいと思う感情は、いったい何なのだろう。自分の中で混乱する。
 何日か前まで、私たちは幸せの中にいたのに。どうしてこんなことになったんだろう。
 雨に打たれて、制服を着た女の子たちがくすくすと笑っていた。
「コンビニにも傘あるのにねー。」
「何でそんなに濡れてんの?」
 あんたたちにはわからないよ。何もわからないよ。こんなにも心が揺さぶられることなんかないんでしょう。彼の行動に一喜一憂して、知らないことがあることがこんなに不安で、それでも好きだって感情と、信用しているっていうことだけで突き進んでいたのに。
 その信頼は崩れていく。そんなことはあなたたちにはきっとないんでしょうね。
しおりを挟む

処理中です...