夜の声

神崎

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二年目

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 仕事が終わり、明日は休みをもらった。さすがに体育祭の後だ。去年もくたくたになったのを覚えている。そうだ。去年はそのまま病院へ行った。そして竹彦が私に告白したのだ。騎馬戦で、はちまきを渡して、私のことが改めて好きだと。でも私はもうそのとき柊さんとつきあっていたし、彼しか見えていなかった。
 彼しか。
 そう。今でも彼しか見えてないはず。あのときと変わらないはずだ。なのに何だろう。何でこんなに心が揺れる。
 私は嘘を付いている。茅さんとの関係を。
 そして彼も嘘を付いている。百合さんとの関係を。
 きっと私に茅さんが近づいていると知れば、柊さんは茅さんを二度と私に近づけないようにするかもしれない。いいや。わからないな。葵さんは近づけている。でもそれは葵さんにコーヒーという強みがあって、私はそれをまだ学ぶことがあるからと大目に見ているだけだ。
 茅さんは?これからお世話になる人だ。でもまだ私には道が開かれている。もし関係がばれれば、ヒジカタコーヒー自体の就職をいやがるかもしれないな。
「おい。」
 でも……将来的に、本当に瑠璃さんのいる店に私がいたら、茅さんもやってきたら、柊さんはどうするのだろう。
「おいって。」
 肩を叩かれて、思わず振り返った。そこには茅さんの姿がある。
「あぁ。茅さん。」
「んだよ。待ってるって言ったじゃん。」
「本当に待ってたんだと思って。」
「お前なぁ。俺を何だと思ってんだよ。全ての男が柊みたいな奴ばっかじゃねぇんだから。」
 まぁ、確かに。来ると言って来ないときもある柊さんと比べれば、約束はきちんと守る人なのだろう。容姿はこんなんだけど。
「でもしないから。」
「意固地だな。まぁ、俺も無理にとはいわねぇよ。でもお前後悔するぜ。こんないい男から言い寄られてんだから。」
「自分で言う?」
 コンビニを見て、茅さんはそちらに足を向けた。
「お前、なんかいる?」
「別に。」
「じゃあ、ちょっと待ってろ。」
 そういって茅さんはコンビニの中に入っていった。そして何か買い物をしている。
 正直、この夜の闇が怖いときがある。一人で帰っていても後ろから車が来ると思わず足を止めてしまうし。そう。あれから一年がたとうとしているのに、私はまだ何も変わっていない気がした。
「……桜さん?」
 声をかけられて振り向くと、そこには竹彦がいた。
「竹彦君。」
「今帰り?」
「えぇ。あなたは?」
「ちょっと仕事が入ってね。」
「仕事?」
「あぁ。自宅のほう。」
 だから礼服なわけだ。
「通夜終わり。ちょっと甘いモノが食べたいと思って。」
「そうなんだ。」
「誰か一緒?」
「えぇ。」
「柊さん?」
「違う。近所の……。」
 なんて言えばいいのだろう。関係がわからない。多分私は困った顔をしていたのだと思う。
「まぁ、なんか複雑なんだね。」
「そう。複雑なの。」
「僕の周りも複雑になってきた。詳しくは言えないけれど。」
 詳しく言われても、本当に他人事だ。別の世界の話のようにすら聞こえる。
「妹さんは大丈夫?」
「ちょっと離れたところでね、静養してる。」
「そうだわ。あなたに渡したいモノがあったの。」
 それはずっと財布の中に入っているモノだった。財布をとりだして、私は彼にそれを手渡す。
「何?七宝焼き?」
「七宝焼きのストラップ。去年桃香ちゃんから買ったものよ。私が持っているよりもあなたが桃香ちゃんに渡して欲しくて。」
「……そう。ありがとう。」
 彼は少しうつむいて、それを握りしめた。
「妹は、まだ意識がもうろうとしててね。これで少し元に戻ればいいけど。」
「元気だった頃に作ったものでしょう?」
「あぁ。」
 ヒドい目に遭わせた。きっと竹彦はそれだけは後悔しているのかもしれない。
「じゃあ、僕行くね。連絡またしても良い?」
「えぇ。いつでも。」
 心に残っていた。大好きだった竹彦を追いかけて、自ら飛び込んだ世界で薬の乱れ打ちをさせられ、もうろうとしたところを売られそうになった桃香ちゃんを。
「おう。待たせたな。」
 しばらくして茅さんがやってきた。
 茅さんも、葵さんも同じようなことをした。柊さんだけは一人としてそんなことが出来なかったという。多分柊さんはそのころから自分をきちんと保っていた。だから出来なかったのだ。
 そして茅さんはそれをした。だけど苦しかったという。
 葵さんは百戦錬磨だった。そういった意味では葵さんは怖い人だ。
「あいつをコンビニで見た。ちょうど俺が入ったときに出て行ったな。」
「あぁ竹彦君?」
「あいつ、ますます「椿」っぽくなってきたな。」
「そうね。」
「椿に入る奴は、普通の顔も持たないといけないし非情にもならないといけない。あいつ、そんな顔をしてた。でも……お前といるときは、普通の十代に見える。」
「普通の十代でしょ。」
「そうかね。」
 やがてアパートに着いた。階段を上りかけて、腕を捕まれた。
「部屋に来いって言ってんだろ?」
「いや。行かない。明日学校だし、それに……。」
「柊、来ねえって言ってんだから来いよ。また何してんのかわかんねぇんだろ?」
「でも信じて待つから。」
「バカだな。何してんのかわかんねぇのに。」
「えぇ。バカかもしれないけど、それでいいから。お休みなさい。」
 腕をふりほどいて、階段を上がろうとした。しかし彼は今度は腰に手を回してくる。衝撃で私は彼の体に倒れ込んだ。
「……何をするの。」
「決まってんだろ?連れて帰る。」
 耳元で囁かれる声。柊さんと違う声。だけど胸が熱くなる。
「駄目。」
「桜。その抵抗やめろって言ってんだろ?かき立てるだけだから。」
「じゃあ、やだ。」
「本気でイヤなら、手でも何でも噛めよ。」
 ぐっと言葉に詰まってしまった。私は葵さんに対しては本気でイヤだった。だから舌を噛んだ。だけど、彼は違う。触れてる手が熱くて、耳元で囁く声が心まで熱くさせる。
 だけどその心の中に柊さんがいる。
「柊さんがいるから。」
 だけど私の頬は涙が流れていた。柊さんがいるという言葉だけが、私と柊さんを繋いでいるようだった。
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