夜の声

神崎

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二年目

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 本社の中に入り今度連れてこられたのは、人事課だった。蓮さんはそこで働いている。
 別の部屋に連れてこられ合格したことを言うと、蓮さんは冷静に契約書を持ってきた。
「契約は来年の四月一日から。入社式だけにこっちに来てください。あとは○×市へ研修です。」
「わかりました。」
「正直、こんなに早くライセンスを取るとは思わなかったのですがね。」
「何回か失敗するかもしれないと持ってましたか。」
「えぇ。エスプレッソマシンは兄の店にありませんし。何度も淹れたこともなければ無理だろうと思ってました。」
「……。」
「しかしまぁ、受かっているのは事実ですからね。どうですか、このまま二級や一級までとりますか?」
「資格には興味ありませんけど、でもあぁやってコーヒーのことを話し合える人がいるのは幸せなことです。私は葵さんの所に三年間いましたけど、どうしても葵さんとコーヒーの話は異星人と話しているくらい話が通じないので。」
「兄は、別の星からきたのですか。」
「そんな意味で言ったんじゃないです。」
「わかってますよ。」
 少し笑い、蓮さんは資料を渡してくれた。
「今日は一人で来られたわけではないんですよね。」
 その言葉に私は少しドキリとした。
「えぇ。」
「藤堂茅さんと一緒に来たと聞いています。」
「はい。」
「あなたの恋人がよく許しましたね。」
「どういう意味ですか。」
「一度しか会ったことがありませんが、あなたの恋人はとても嫉妬深そうに見えました。それがほかの男性と一緒に泊まりがけでこの町にやってくるというのを、よく許したなと思ったんです。」
 入れられたお茶を口に含み、私は彼を見上げた。
「茅さんを信用しているみたいですよ。彼の後輩ですし、もし何かあれば……。」
 何かはあった。だけど言えないのだ。
「どうしました?」
「私には想像がつかないことが、茅さんの身に降りかかるかもしれませんね。」
「怖い人ですね。ですが、私の兄もそれくらいはしそうです。全く、あまり一般人には関わりがない方が良い人たちばかりだ。」
 まるで他人事だ。実際他人事なのだろう。私だって、彼らに関わるまではどこか別の世界の人たちだと思っていた。
「あぁ、それから一つ。言っておかないといけないことがあるのですが。」
「どうしました。」
「あの建物は市の持ち物です。当然、母もそうですが市から雇われています。」
「はぁ。」
「ところがあの一角は、母がいなくなればうちが買い取りをする形になります。それまではあなたも市の依託という形で入らなければいけません。」
「市役所の職員ですか?」
「いいえ。あくまでうちが雇って、母から引継をするだけという形ですね。それだけのことをしなければいけません。あなた一人に、全てがかかっているのですよ。」
 市を動かして、会社を動かして、それでもしたかったカフェ事業。その一端をいきなり請け負うというのだ。
「あの……私……そんな大役を?」
「今更止められません。だから、上手くやっていってください。特に、茅とは。」
 蓮さんはそういって私に資料を手渡した。彼はきっと茅さんとの関係を疑っている。十七、八の女と二十七の男。七歳と十七とは違うのだ。もうすでに男と女だ。何があってもおかしくない。それはきっと柊さんと何かあるよりももっと自然なのだろう。

 蓮さんと部屋を出てくると、私は一礼をしてその場を後にしようとした。するとたぶん蓮さんと同じ立場の女性たちが、ひそひそとこちらを見て何か話している。
「あの子さ……。」
「えー?でもまだ子供じゃん。あるわけないって。」
 年齢が変わってもこの手の話題はつきないな。想像でモノを言うバカ女。さっさと仕事に戻れよ。
「林田さん、頼んでいた資料は仕上がりましたか。」
「あ、すいません。もう少しで……。」
「くだらないおしゃべりをしてる暇があったら、さっさと仕上げてください。残業代がでているのですから、無駄な経費を出してはいけません。」
 うーん。きつい言い方だ。でもそのお陰で、私に向けられていた噂が消えて、蓮さんへの不満に変わる。
 そして蓮さんに引き連れられて、エレベーターへ向かう。もう用事は終わったらしい。
「すいませんね。桜さん。」
「何がですか。」
「あなたの噂はこの会社で持ちきりです。新入社員にしてみては、異例の待遇ですからね。あなたの噂だけが一人歩きしています。」
「……そうだろうなとは思ってました。高卒で、ほかの支社にも行くこともなく、新プロジェクトに関わるなんてことは普通ではあり得ませんから。」
「しかしそれはあなたの実力を見てのことです。私も、あの町にいた支社長も、昨日会った社長も、そして茅も……あなたのことを見て、それで判断しました。ほかのモノがなんと言おうと、もう変えられません。」
「文句を言う前に、自分の仕事をしろ。あなたと働いていたとき、いつもそう言っていましたね。」
「えぇ。」
「そのスタンスは今でも変わらない。」
「フフ。そうですね。あぁ。エレベーターが着きましたよ。茅を待ちますか。」
「はい。一階のエントランスで待ってろと言われましたから。」
「では、また会いましょう。」
「今度は入社式ですかね。」
「えぇ。」
 エレベーターに乗り込み、私は下まで降りていく。その間に何人かの人が乗ってきて、そして降りていく。一階まで降りないのは、きっとまだ仕事が残っている人が多いからだろう。
 茅さんは本来こんな仕事をする人だったという。仕事のできる人だと言った。そして並外れたコネクションと、行動力がさらに仕事人間にさせている。
 本来、事務仕事をしながら、新プロジェクトの責任者などできないはずだ。
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